| 開け放たれた事務所の窓から、人体を模したいびつなパーツを付けた小瓶が飛び立って行く。 キラリと光って空に消えたそれを見て、弥子はへなへなと事務所の床に崩れ落ちた。 ああ、これで終わった。何もかも全てが終わってしまった。 いかにしてあの薬を教師に飲ませるか、楽しそうに策を練るネウロに抗議する気力も起きない。弥子はがっくりとうなだれて教科書や筆記用具を鞄に片付けた。 「む?いいのかヤコ、勉強をしなくて」 「…ここにいても誰も勉強教えてくれないし。家で一人でやった方がましだよ」 「そうか。貴様がどうやってこの試練を乗り越えるか、我が輩は楽しみにしているぞ」 実に楽しそうなネウロに恨めしげな一瞥をくれて、弥子は無言のまま事務所を出て行った。 その後ろ姿を心配そうに見送ったあかねがネウロを呼ぶように揺れた。 「何だ、アカネ?」 『何か考えがあるんですよね?教師に難しい問題を作らせるからには、弥子さんの方にもそれなりのフォローをされるつもりなんですよね?』 「何を言う。我が輩がヤコを助けてしまったらそれは進化の妨げにしかならないではないか」 『…………』 あかねの複雑な沈黙にネウロは不思議そうな顔になった。 自分がしたことの重大性を全く分かっていないらしい。 「何か問題があるか?」 『…私は、進化させるにしてもある程度ステップを踏まないと、と思うのですが…』 「?」 『猿が人間になるまでは間に類人猿などのステップがあったわけですよね。卵が蝶になるにも幼虫や蛹などのステップを踏まなければ行けません。猿にいきなり人間になれ、卵に幼虫や蛹を飛ばして蝶になれと言っても、それは無理でしょう?』 「そうだな」 『弥子さんも同じじゃないでしょうか。レベル1の問題で苦しんでいるのに、何のフォローもなくいきなりレベル10の問題をクリアしろと言ってもそれは無理だと思います。ほとんどの教科はひらめきや発想ではなく覚えて理解して、積み重ねてレベルアップして行くものですし』 「我が輩、読みを誤ったか」 ネウロは意外にすんなりと自分のミスを認めたが、すぐにケロリとした顔になった。 「まぁ別に問題なかろう。最悪、ヤコは留年するだけだ。その程度なら人生にも探偵業にも大きな支障はない」 『…そうでしょうか。私は逆に探偵業が続けられなくなるのではと思うのですけど』 「何故だ?」 『弥子さんの本業は高校生です。少なくとも弥子さんのお母さんは、本業が高校生で探偵業は趣味の延長だと考えていると思います。弥子さんは探偵業の報酬を一切貰っていませんし』 「だから?」 『だから…探偵業に夢中になって学業がおろそかになって、その結果留年なんてことになったら、お母さんは探偵業に反対されると思います。弥子さんは未成年ですから、保護者のお母さんの許可がないと探偵業はできなくなりますよ』 「…………」 内心『しまった』と思っていることはネウロの表情から何となく察しは付いたが、だからと言って自主的に弥子を助けてやろうと言う気はないらしい。彼はこんな風に、妙なとこで子供っぽい意地を張る癖があることをあかねは知っていた。 誰か、都合良く救世主が現れてくれますように。 あかねは天井を見上げて祈るしかなかった。 …弥子とあかねの都合のいい祈りが通じたのかどうかは分からないが、ネウロの魔界能力は結果的に弥子を救うことになった。 ギリギリの綱渡りで赤点を回避した弥子の答案を見て、残念そうなふりをしながら少しネウロがほっとしていたのを、あかねだけが気付いていた。 …そしてしばらく時は経ち。 『黙って見ていろ桂木弥子。まるで無力な操り人形よ』 電人HALの言葉は予想以上に弥子の心に影響を与えたらしい。側近の一人である朝永を倒して数日経っても弥子は立ち直る様子を見せなかった。 「ネウロ、次のスパコンの場所が分かっても私は一緒に行かなくてもいいよね。どうせ私は無力な操り人形なんだもん」 「…………」 自虐的な言葉を残してドアの外に消えた背中はいつもよりずっと小さく見えた。 噛み切り美容師を警察に突き出した夜の彼女もあんな風にちっぽけだった気がする。 あの時、弥子の無力さを指摘したのはネウロ自身だったが…。 「アカネ」 『はい?』 「以前、噛み切り美容師の事件を解決しただろう。あの時のヤコも我が輩の言葉にヘコんでいたな」 『そうですね』 「だが、次の日には『立ち直った』を飛び越えてやる気満々だった。Xの事件の時も自分なりに努力しようという姿勢が見えた。あれは何故だったのだ?」 『アヤさんに会いに行って話をしたことで心が軽くなったと言ってました。あなたにはあなたにしかない力がある、と励まされたって』 「…的確なアドバイスではないか。パソコンの中の人工知能ごときに馬鹿にされたくらいで何故あそこまでヘコむ必要があるのだ」 あかねは首を傾げてゆっくりと自分の考えを伝えた。 『あのXの事件で弥子さんは、私は何も出来なかった、と落ち込んでいました。今回の事件でもそれをひきずっているんじゃないでしょうか。敵のHALは天 才、ネウロさんは魔人、警察の中にいる知り合いの刑事さんは、笹塚さんも笛吹さんも筑紫さんも、そして匪口さんも有能な人ばかりで、私だけが平均以下だ、 と自分自身を過小評価しているんじゃないでしょうか』 「愚かな」 ネウロは呟いた。 弥子に求めているのは、求められているのは、頭脳が優秀か否かということではない。優秀な頭脳、優秀な技術、優秀な情報網…そんなものは既にある。それらとは違う『何か』こそを、彼女は持っているのに。 しかしそれをネウロが言葉にして伝えたところで今の弥子が素直に聞き入れ、前向きに自身の進化と向き合おうとするだろうか。 (ヤコ本人が消極的な時に、さぁ進化しろやれ進化しろと我が輩が急き立てても、以前のテストの時のように逆効果になるかもしれんな。噛み切り美容師の時のアヤのように、誰かがヤコに助言をしてくれれば都合がいいのだが…) 都合良く救世主が現れないかな。 あの時の弥子の言葉を思い出し、他人を当てにしている自分に気付いてネウロは薄く苦笑した。 数日後。 2つめのスパコンが見付かったと吾代から連絡が入ったにも関わらず、事務所に弥子の姿はなかった。 携帯を確認したが弥子からの伝言もメールも入っていない。ネウロはあかねに眼を向けた。 「…アカネ。どこに行くのか、ヤコは貴様に伝えて行ったか?」 『入院中の刑事さんから連絡があって…お見舞いの品が溢れているから食べに来ないか、と誘われたからお見舞いを兼ねて行って来ると言ってましたけど』 「ふむ」 笹塚か。 アヤとはタイプこそ違うが、弥子が苦悩を吐き出しやすい相手ではあるだろう。 弥子を常に心に留めている彼の事だ、彼女に対しての適切なアドバイスが期待できる存在ではある。弥子が相談を持ちかけさえすれば、だが。 ネウロは一度、深い翠の眼を閉じた。 乗り気でない彼女を引きずって2つめのスフィンクスの番人と戦うか、それとも今回は一人で闘いに赴き、弥子の心が前向きになる可能性に期待するか。 先々の事を考慮すれば、どちらを選ぶのが有効かは明白だ。 ネウロはゆっくりと椅子から立ち上がった。 …翌日。 弥子が事務所を訪れるのを待ちかねたようにネウロは尋ねた。 「やっと来たか、ヤコ。昨日は連絡の一つも寄越さずにどこに行っていたのだ」 「笹塚さんのお見舞い行ってた」 「2つめのスフィンクスを攻略しに行くと言ってあったのに、それをすっぽかしてまで行ったのだ。有意義な話の一つや二つはして来たのだろうな」 「それなりに…かな。匪口さんって私が思ってた以上にすごい人みたい。それなりの事情があるって言ってもやっぱりあの若さで警察に入るだけあるね、私とは頭の出来が全然違うもん」 「笹塚とした話はそれだけか?」 「今の状況に付いても一応話はしたよ」 「ほう」 弥子の言葉にネウロは期待を含んだ視線を向けたが、彼女はそれには全く気付かなかった。 「笹塚さん相手だからあんまり本当の事は話せなかったけど、ネウロに仕事を任せて私が一休みしてもいいんじゃないか、って言われた。電子ドラッグに関しては匪口さんが対策立てて何とかしてくれるだろうしって」 「……………」 ネウロの期待は見事に裏切られたようだった。 服役囚であるアヤならともかく、現役刑事の笹塚に事細かに事情を伝えるのは無理だと分かっていても、それでも。 自分が求める言葉を引き出すために笹塚を誘導したかのような弥子の姿勢は不快だった。 …その腐った根性を叩き直してやるのもまた、主人の務めであろう。 ガコン。 ネウロは金タライを取り出してなみなみとガソリンを注いだ。きょとんとしていた弥子は彼が続けて出して来た鉄アレイとロープと蝋燭を見て一目散に逃げようとしたが、そんなことは想定の範囲内だ。 ネウロは弥子の首根っこを捕まえて縛り上げてヘアバンドに蝋燭をくっつけてガソリンの金タライの上に逆さ釣りにした。 「助けてーーーーーッ!!ガソリンよりもあたしの命が無駄になるーーーーー!!」 首から鉄アレイを下げて天井から吊るされると言う無茶苦茶な姿勢でも、腹の底から絶叫する元気はあるらしい。 出来ない訳ではないのにしないのは必要に迫られていないからか。ならば、やはり進化を促進させるためには追い込むのが有効と言うことになる。 急がなければ、電子ドラッグを無効化した警察がネウロより先にHALを破壊してしまうかもしれない。最後の『スフィンクス』攻略には有無を言わさず同行させよう。 警察が電子ドラッグのアンチプログラムを投入したと言うニュースをみながらネウロはそっと笑った。 |