白い約束


 いつもの放課後、いつもの帰り道。
 魔界探偵事務所のドアを開けた途端、弥子は目の前の光景に我が目を疑った。

「………」
「来たか、ヤコ。相変わらず遅いぞ」
「いやあの、遅いとかじゃなくて…ネウロ、何してるの?」
「見て分からんかミジンコ」

 ネウロはあかねの髪を櫛で梳きながらいつもの暴言を吐いた。あかね専用のパソコンデスクの上には彼女専用のトリートメントなどが並んでいる。
 …ネウロがあかねのトリートメントをしている。
 その事実を確認して、弥子は自分の心が一瞬冷たくなったのを感じた。

「分かるよ、わかるけど…。何で、ネウロがあかねちゃんをトリートメントしてるの?今日からネウロがやってくれるわけ?」
「バカを言え、今日は特別だ。…ふむ、こんなものか。ヤコ、あとはやっておけ」

 ネウロはあかねのトリートメントを終えると後片付けも仕上げもせずにデスクに戻った。
 その様子に弥子はなんとなくほっとして、少し複雑な気持ちになった。
 一人っ子の弥子には経験がないけれど、兄弟姉妹に恋人ができるとこういう気持ちになるのだろうか。ネウロにあかねを取られるのが嫌なのか、あかねをネウロに取られるのが嫌なのかそれは分からないけど。
 そんなことをぼんやりと思いながら弥子が近付くとあかねは嬉しそうに手(?)を振った。
 恐らく普段の弥子の見よう見まねでしたのだろうが、仕事はきちんとしたものだった。弥子は散らかったスタイリング剤などを片付けてあかねの髪を編み込み始めた。

「ネウロがトリートメントしてくれるなんて初めてだよね。…あかねちゃん、良かったね」
「〜♪」
「それにしてもどういう風の吹き回し?ネウロが事務所スタッフの『報酬』を自分で払うなんて」
「分からんか?」

 キィ、と椅子を軋ませてネウロはニヤリと笑った。
 何だか楽しそうだ、と弥子は思った。
 こういう時に下手にどうこう言っても逆にネウロを喜ばせるだけだと分かっていたので、素直にその言葉に頷くことにする。

「うん、わかんない」
「ではヒントをやろう。今日は何月何日だ?」
「3月14日でしょ」
「そうだ」
「だから?」
「…………………………」

 弥子の手の中であかねがビクッとした。いや、ぎょっとしたと言った方が適切かもしれない。
 同時にネウロは眉を寄せてあからさまに呆れた目を弥子に向けた。

「…何よ」
「全く分からんのか」
「分からないから聞いてるんだけど」
「貴様の頭の中に詰まっているのは豆腐だと思っていたが、大豆の搾りカスだったのか…」
「何なのよ、ネウロとあかねちゃんだけ分かってて私は仲間はずれなの?」

 弥子が唇を尖らせると、あかねが彼女の手からするりと抜け出した。ペンを握り、ホワイトボードに『3月14日と言えば何の日?』と書いた。

「何の日って…ホワイトデーでしょ。………あ!」
「やっと気づいたかミドリムシ」
「あーそっか、さっきあかねちゃんをトリートメントしてあげてたのはバレンタインのチョコのお返しだったんだね」
「そういうことだ。いくら便所雑巾の貴様でもこのくらいはすぐに分かると思っていたのだが…」

 ネウロはわざとらしく嘆息し、スーツの内ポケットからチケットを取り出してこれ見よがしにひらひらと振ってみせた。

「全く気付かなかったと言うことは、貴様は我が輩からの返礼はいらないと言うことだな?」
「え?何それ…ってあーっ!!」

 ネウロの持っているチケットを見て、弥子は目を見開いた。
 思わずネウロに駆け寄る。

「そっ…それは!『ドシロート娘!』のコンサートチケットより入手困難と言われるホテルGのケーキバイキングチケット!しかも入手難易度では年間トップ3に入ると言うホワイトデー限定券!どうしてあんたがそんなもの持ってるの!?」
「これか?吾代を通して望月に命じて…」
「いやいやいや!私が聞いてるのは入手の手段じゃなくて理由なの!」
「それすら分からんか?」

 ネウロの意地の悪い、そして楽しそうな笑みはますます深くなった。こういう笑い方をしている時の彼は碌なことを考えていない。
 期待半分、不安半分の気持ちで弥子は恐る恐る口を開いた。

「えっと…バレンタインチョコの、私へのお返し?」
「正解だ」
「やったぁ!」

 意外なほどあっさりと返って来た『正解』の言葉に手を伸ばした途端、ネウロはさっとチケットを引っ込めた。どうやらすんなり弥子にチケットをくれるつもりはさらさらないらしい。…予想通りではあったが。
 手の平を上にして両手を差し出したまま弥子が複雑な目でネウロを見ると、ネウロはうっそりと唇の端を持ち上げた。

「『正解だ』とは言ったが、『貴様にやる』とはまだ言ってないぞ」
「え…えぇ〜…?」
「貴様がどんなに喜ぶかと楽しみにしていたのに、今日が何の日かもアカネにヒントを出されるまで気付かないとは…我が輩は大いに傷付いたぞ、ヤコ」

 あんたが傷付くような心を持ってるとは思えないけど。
 喉元まででかかった言葉を胸の奥に押し戻し、弥子はできるだけ申し訳なさそうな顔をしてみせた。

「だってネウロ、人間のイベントになんて興味ないと思ってたし、それにほら、チョコはネウロがお父さんの事件を解決してくれたことへのお礼のつもりだったから、お礼にお返しくれるなんて全然考えてなかったの。気がつかなくてごめん」
「ふむ…反省はしているようだな」
「してますしてます」
「では証拠を見せてもらおうか」
「…へ?」

 嫌な予感。超嫌な予感。
 顔を引きつらせた弥子にネウロは極上かつ極悪な笑みを見せた。

「キス1回で許してやろう」
「…………」
「親愛の情を示す挨拶のようなものだ、大したことではあるまい?」
「外国ではそうだけど、日本じゃそんな軽い物じゃないよ…」
「嫌なら別にいいのだぞ?苦労して手に入れたこのチケットが灰になるだけだ」
「ちょ…ちょっと待って!別に嫌だとは言ってないじゃない!考える時間とか、心の準備の時間とかくれたっていいでしょ!?」
「それもそうだ。…では3分やろう」

 ネウロは茶目っ気たっぷりに翠の眼をくるりと回し、デスクの上にあった砂時計をひっくり返した。
 さらさらと流れる砂をちらりと見て、結局ネウロにしてやられた自分に少し腹が立って、弥子は俯いてぎゅっと手を握りしめた。
 ホテルGのケーキバイキングはチケット入手の難しさだけでなくそのお値段でも有名だ。弥子の小遣いとは一つも二つもランクが違う。運良くチケットの抽選に当たっても向こう半年は貧しい生活を覚悟しなければならないほどお高いのだ。
 ましてやネウロの手にあるのは恋人達の三大記念日の一つホワイトデーの限定チケット。この日でなければお目にかかれないケーキがこれでもかと並ぶのだ。この機会を逃せば二度と口に出来ないに違いない。
 黙り込む弥子の前でネウロはチケットで紙飛行機を折り始めた。キスを拒否すれば、その瞬間に紙飛行機になったチケットは窓から飛んで行ってしまうだろう。
 鼻歌でも歌い出しそうな、楽しそうな表情のネウロが小憎らしい。

(何よ…何が『苦労して手に入れたチケット』よ。苦労したのはあんたじゃなくて望月さんでしょーが)

 弥子は内心そっと悪態をついた。
 ホテルGのケーキバイキングチケット、しかもホワイトデー限定券を用意しろなんて…いつそんな指示を出したのかは分からないが、無茶な命令に半べそをかきながら東奔西走する望月の姿が容易に想像できた。
 そっと上目遣いにネウロの様子を伺うと、彼は出来上がった飛行機を窓の外に飛ばす真似をしていた。子供っぽいその姿に、でも…と弥子は思った。

(私にお返しをしようってネウロが思ったことや、ネウロが私のために前から行きたがってたホテルGのチケットを手配してくれた事実そのものは何も変わりはないんだよね。ここで私が断ったら、ネウロのその気持ちまで拒否することになっちゃうんだよね)

 それは嫌だな、と弥子は思った。
 だからといってネウロにキスをすると言うのもかなりの抵抗があった。第一、ファーストキスを化け物相手に…というのはいくらホテルGのケーキバイキングがかかっていても嫌すぎる。
 脳みそが沸騰するほど悩んだ時、ふと弥子は重要なことに気付いた。

(ちょっと待って…ネウロは『キス1回』って言っただけ、だよね…)

 さらり…と砂時計の砂が全て流れ落ちた。
 ネウロがこれ以上ないほど楽しそうな眼で弥子を見上げて来た。

「さて…時間だ。決心はついたか?」
「本当にキス1回でいいのね?」
「我が輩は冗談は言うが嘘はつかんぞ」
「…じゃあネウロ、約束して。私のキスに不満があってもやり直しはなしよ」
「よかろう」
「男に二言はないからね」
「分かった分かった」
「じゃ、目を閉じて」
「目を閉じたら見えないではないか」
「キスの時は目を閉じるものなの!恋愛ドラマでもマンガでもみんな目を閉じてるでしょ!」

 弥子が真っ赤になって怒鳴ると、ネウロは『人間は良く分からない…』と呟きながらそれでも素直に目を閉じた。
 イビルフライデーがそこらにいないか確認して、弥子はネウロに近付いた。
 恐る恐る手を伸ばしてネウロの頬に触れる。薄く開いた唇を意図的に無視して弥子はその秀でた額に口付けた。
 パッと体を離すと同時にネウロが目を開けた。
 弥子を捕まえ損ねた手が宙に浮いて、明らかに不満そうな顔をしている。

「ちゃんと、キスしたよ」
「………」

 ネウロは何か言いかけて口を閉じた。
 キスをしろ、とは言ったが、どこに、とは言わなかった。不満があってもやり直しはなし、という条件に同意もした。ついでに『男に二言は無し』という言葉を了解までした。

「ねっ、いいでしょ?」
「…チッ」

 見事に弥子にしてやられたことに気付き、ネウロは忌々しげに舌打ちした。
 約束を全て反古にしてやり直しを命じることも出来なくもないが、そこまで唇へのキスに執着しているのかと思われるのも面白くない。
 ネウロの表情に自分の勝利を確信したらしい弥子が手を差し出した。が、その手を無視してネウロはソファから立ち上がった。
 事務所のドアに手をかけて、ぽかんと突っ立っている弥子を振り返る。

「何をしている、ヤコ?行くぞ」
「行くってどこに?」
「ホテルGに決まっているだろう。早くしないとバイキングの時間に間に合わないぞ」
「え?ネウロも来るの?だってあんた、ケーキ食べられないじゃない」
「どうせ貴様が人間の常識を超えた量を喰うのだから元は十二分にとれるだろう。むしろ我が輩が喰わないのは貴様の被害者になるホテルへのせめてもの配慮だ。…それとも何か」

 ネウロは翠の目を細めてニヤリと笑った。

「貴様、女友達を誘うつもりだったのか?ホワイトデーの恋人達が集まるホテルで女二人でケーキバイキング…さしずめ負け犬の傷のなめ合いと言うところか。 いや、友達が貴様に付き合ってくれればまだいいが、既に予定が入っていたら悲惨なことになるぞ。名探偵桂木弥子、ホワイトデーに男にも女友達にもフラれ て、恋人達の哀れみの視線を一身に受けながら高級ホテルでケーキのヤケ食い…負け犬オーラ更に倍、惨めさ無限大だな。我が輩もあまり事務所を開けたくない し、それでもいいならチケットは2枚とも貴様にくれてやるが」
「ちょ…ちょっと待って、まだ私、友達と行くなんて言ってないじゃない」

 確かに叶絵を誘おうと思っていたが、ホワイトデーの午後になってあの叶絵に何の予定がない方がおかしい、とネウロの言葉で気付いた。憧れのホテルで『負 け犬のヤケ食いケーキバイキング』の醜態を晒すくらいなら、外見だけは完璧なネウロが一緒の方が遥かにいい。誰かに見られても、『顧客に貰ったチケットで 助手と出かけた』と言い訳ができる。
 弥子は差し出されたチケットを押し返した。

「うん、叶絵は予定が入ってるの。ただね、ケーキが食べられないネウロに付き合って貰ったら悪いなぁって思っただけ。さ、もう時間ないんでしょ?早く行こ!」

 言い訳がましいセリフを喋りながら弥子はネウロの背中を押した。行って来ますと手を振る弥子に、『いってらっしゃい』と言うようにあかねが揺れた。

 

 …弥子はスキップに近い足取りでホテルGに向かっていた。
 ホワイトデーだから、とネウロの腕に手を絡めても何も言われなかったことも弥子の気持ちを弾ませた。
 ああ、憧れのケーキバイキング。きっと食べたことも見たこともないような凄いケーキが所狭しと並んでいるに違いない。余ったら持って帰っていいのかな。
 彼女の頭の中はケーキのことで一杯で。
 だから。
 ケーキバイキングのチケットに謎センサーが反応して嬉しそうにしているネウロの様子に、弥子は全く気付かなかった。


END



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