夏休み
前編

 真夏の昼下がり、魔界探偵事務所。
 快適な温度に保たれたその場所には助手と秘書の姿しかなく、雑誌をめくる音やキーボードを叩く音がはっきり聞こえるほど静かだった。

「退屈だ」

 ネウロの呟きにあかねが動きを止めた。
 …開店休業とは正にこのこと。今日は朝から来客もなく、電話の1本もかかってこない。ついでに探偵役である弥子は夏休みの特別講習があるとかで学校に 行っている。いじる相手もいないので、ネウロの退屈もそろそろ限界なのだろう。あかねはホームページ更新作業の手を止めて、『そうですね』と同調する仕種 を見せた。依頼のメールすら来ないので、彼女にできることはそれくらいしかないのだ。
 事務所の電話のコードが抜けていないか本日3度目の確認をして、彼はますます不満そうな顔になった。

「謎の生まれる気配すら感じない…世の中の人間は何をやっているのだ」
『こんなに暑いと何もやる気が起きなくて頭も働かないんでしょう』
「暑いといってもせいぜい40度だろう。そのくらいでへばってどうする。いや、むしろ人間どもが暑さでへばってるならむしろ犯罪を犯すチャンスではないか。凝った事件の一つや二つ起こして、名探偵桂木弥子に捕まって有名になろうとは思わんのか」

 無茶苦茶な理屈だ。
 どうしたものかとあかねが迷っていると、ネウロは読みかけの雑誌を放り投げて立ち上がった。椅子にかけてあったスーツの上着に袖を通しながらドアに向かう。
 おでかけですか?
 あかねが首を傾げるとドアノブに手をかけてネウロが振り返った。

「待っていても謎が来ないのなら自分から探しに行くしかあるまい。そろそろヤコの『夏期講習』とやらも終わるだろう。留守は頼むぞ、アカネ」

 言葉と同時にドアの外に消える背中に、あかねはいってらっしゃいと手を振った。

 

 

 建物の外に出てみると、確かに昨日よりも強く太陽の熱を感じた。雲一つないせいだろうか、空はどこまでも高く青く、ダイレクトに太陽の熱と光を伝えて来る。道を歩く人間達の足取りも心無しか普段より遅いようだ。
 10や20の気温の違いなどネウロにとっては微々たるものだが、人間達にとっては体の機能にすら影響を及ぼすほど大きな違いらしい。
 その脆さや面倒さが魔界にはない謎を産むのだろうか。
 そんなことを考えながら弥子の学校近くまで来たネウロはふと足を止めた。
 校門の前に地味な国産車がさり気なく止まり、見覚えのある男がその車に背を預けて煙草をふかしている。
 …謎の情報は案外すんなりと手に入るかも知れない。
 翠の眼をすぅっと細め、端正な唇の端を釣り上げてネウロはそっと地上に降り立った。

 

「笹塚刑事!奇遇ですね!」

 脳天気な青空をぼんやりと眺めていると、空に負けず劣らず脳天気な声がした。声の主に眼をやれば、空と同じ色のスーツを着た男が人なつこい笑みを浮かべて立っている。

「…アンタか。弥子ちゃんのお迎えか?」
「ええ、そろそろ夏期講習が終わる頃かと思いまして。そう言う笹塚刑事はどうされたんです?先生の学校に来られるなんて」

 ネウロは茶目っ気たっぷりに翠の眼をくるりと回して笹塚を見た。

「ひょっとして、事件が起きて名探偵の先生の力を借りに来たとか…」
「おいおい、ドラマや小説じゃないんだぞ。警察が堂々と一般人に事件の協力を仰ぎに来たらまずいだろ。特に俺は上からも睨まれてるんだし」
「ああ、あのメガネチ…おっと、笛吹警視ですか」

 わざと言いかけてやめたあだ名にわずかに眉をそびやかしたものの、何も言わずに笹塚は頷いた。
 そう言えばあの笛吹警視、ヒステリアの事件が片付いたらお前達を調べてやると息巻いていたが未だに何の音沙汰もない。結局事件解決に弥子が大きく貢献したから来るに来れないのだろうか。理由はどうあれ警察に突つかれずに済むのならそれに越したことはないのだが…。
 ネウロの質問は中途半端に流されてしまった形だ。が、これで引き下がるつもりはさらさらない。笹塚がここにいる理由が積極的に言いたくないものなら尚更だ。

「…じゃあ、事件とは関係なく先生に御用ですか?」
「事件を未然に防ぐためのパトロール中だったんだよ。ちょうど弥子ちゃんの学校が見えたから、ここで休憩しようかと思ってな。もし弥子ちゃんに会えたらついでにちょっと忠告でもしとくか、って感じだ」
「それにしても、捜査一課の笹塚刑事がパトロールなんて…。凶悪事件の可能性があるんですか?」
「俺がパトロールに駆り出されたのは今んとこ担当してる事件がないからなんだが。ま、凶悪事件になる可能性がなきにしもあらず、かな」

 紫色の煙が高い高い青空に吸い込まれて行く。
 セミの声がうるさいくらいに聞こえる。
 細く長く毒の煙を吐き出して、笹塚は口を開いた。

「季節柄、脳味噌まであったかくなった奴が変な方向に突っ走ることが時たまあるんでね。不審者の目撃情報もちらほら入って来るし…それに世間は夏休みだろ?年頃の少年少女が変な方向に背伸びして犯罪に巻き込まれたりしないように、ちょっと睨みを利かせてるんだよ」
「変質者の出没に少年犯罪、青少年の性の乱れ…とか、ワイドショーで言ってましたねぇ」
「ま、そんなもんだ。万引きくらいならともかく、強盗まがいのひったくりや集団での喧嘩、暴力団絡みの売春にまでいくと警察の出番だからな。未然に防げるものは防がないと」

 そうですね、とネウロは頷いた。
 窃盗、ひったくり、喧嘩、売春…そんな犯罪に謎が絡むことは滅多にない。同じ貧相な脳味噌を振り絞って犯罪を犯すのなら、腹の膨れない犯罪10件よりも謎を孕んだ犯罪1件の方が有り難い。
 …などと、思っていても笹塚相手には言えないが。
 沈黙が落ちた。
 話題はなくなったが、お互い待ち人が来ないのでこの場所を動くわけには行かない。
 相変わらず空は果てなく青い。
 ふと、何かを考えている風だった笹塚が携帯を取り出した。ピ、ピ、ピ…とボタンを押して耳にあてる。

「あー俺だ。買い物はもう済んだのか?…そうか、何を買った?………それじゃダメだな、ちょっと戻れ。ん?今さっき弥子ちゃんの助手君と会ったんだよ。だ から飲み物二つ追加な。あーそれとデザートも買って来い、なんか若い女の子が喜びそうなやつ。………売り切れてた?なら別のコンビニ行けばいいだろ。まだ 弥子ちゃん来そうにないし、ゆっくり行って来ていいぞ」

 電話の向こうで石垣が泣き言を言っているのが聞こえたが、笹塚は無視して電話を切った。
 相変わらずの仕打ちにネウロは苦笑いを見せた。

「いくら石垣刑事がお使いキャラだからって、この炎天下に別のコンビニまで行かせるなんて気の毒じゃないですか?」
「この炎天下に長袖手袋のあんたが言うかよ」
「あはは、確かにそうですね」

 何の答えにもなっていない言葉だったが、笹塚はそれ以上突っ込む気はないようだった。
 笹塚が2本目の煙草を味わっている間、ネウロは黙って待っていた。
 わざわざ口の軽い部下を追い返してこの場から遠ざけたのだ、先ほどよりも面白い話が聞けるに違いない。謎に繋がる情報ならいいのだが。
 …携帯灰皿に吸い殻を押し付けて笹塚がボソリと口を開いた。

「…これはここだけの話として聞いてくれ。弥子ちゃんには黙ってて欲しい、変に怖がらせたくないからな」
「はい?」

 弥子に話してはいけないとなると、謎絡みではないということか。
 それでも笹塚がこういう前置きをしたとなるとそれなりに重要な話なのだろう。
 ネウロは期待半分疑問半分で続きを待った。

「さっきの話だが」
「少年犯罪ですか?」
「いや、変質者の方」
「……?」
「実はな…今月に入ってから、この学校の女の子が二人ほど変質者の被害に遭ってるんだ。被害者の証言からするとどっちの事件も同じ犯人らしい。ま、二人とも危険を感じてすぐに逃げ出したから被害らしい被害はなくて、本人達の希望もあって表沙汰にはなってないんだが」
「はぁ」
「被害に遭った女の子が二人とも、弥子ちゃんと背格好が似ていることがどうも気になってな」

 なるほど、とネウロは頷いた。
 パトロールついでと言いながら、部下を買い物に行かせてここで弥子を待っていたのはそういう理由からか。

「その犯人の狙いは先生だったのかも知れない、と」
「犯人が自分好みの女の子を狙っただけかも知れないし、考え過ぎだろうとは思うんだけどな。でも弥子ちゃんは一応有名人だし、アヤ・エイジアが逮捕された のは弥子ちゃんのせいだって逆恨みしてる熱狂的なファンも未だにいる。パトロールついでに忠告しておくかと思ったんだが…」

 そこで言葉を切って、笹塚は初めてネウロと眼を合わせた。

「あんたが常に弥子ちゃんの近くにいるならいらぬ心配だったかな。この手の犯罪者はターゲットの近くに男がいるだけで諦めるから」
「え?そんなに僕、いつも先生と一緒にいますか?」
「俺があんたらに会う時は9割方一緒だな。…っていうか、弥子ちゃん単体で見たことがない気がする」
「そうですかねぇ…」
「それと…これは俺が個人的に思ってることだから独り言だと思ってくれていいんだが…」
「?」

 どこか歯切れ悪く笹塚は切り出した。
 一度ネウロと合わせた視線は、ぱらぱらと生徒の姿が見え始めた玄関を向いている。

「あんた、よく弥子ちゃんを殴ったり振り回したり髪の毛掴んだりしてるよな。弥子ちゃんが全然嫌そうな顔してないから多分あんたらなりのコミュニケーションなんだろうが、少なくとも日本では大の男が小柄な女の子に暴力を振うのは誉められた行為じゃない。特に人前ではな」
「………」
「さっきも言ったが、笛吹はまだあんたらの素性を探ることを諦めてない。この間のヒステリアの手柄を渡したことで今は仕方なく黙っているが、何かあんたら にまずいことがあればそれを口実に突っ込んで来るだろう。あんたは目立つわりに弥子ちゃんの助手って情報が余り世間に知られてないからな。『外国人の男が 名探偵桂木弥子に暴行している』なんて通報されないように気をつけろよ」

 …つまりはそれが本音か。妹の姿を重ねている弥子が殴られたり振り回されたりするのを見るのは不快だと。
 ネウロは翠の眼をわずかに眇めた。
 人間達の善悪の基準や笹塚の心情などに興味はない、が。
 魔界生物であるネウロが悪目立ちするのも、笛吹に素性を探られるのも好ましいことではない。笹塚の忠告は謙虚に受け入れたほうが賢明だろう。それに、彼は弥子に理解のある数少ない警察関係者だ。悪印象を与えないよう気をつけるに越したことはあるまい。
 ネウロはあくまでも人のいい助手の仮面をつけたまま頷いた。

「気をつけます。僕の出身地と日本では常識とか価値観が大きく違うことがあって、今でも結構戸惑うんですよ」
「むしろ弥子ちゃんの方が戸惑ってんじゃないの?」
「そうですね、よく驚かれます。逆に僕が驚くことも多いんですけど」
「ま、『郷に入っては郷に従え』って言うからな。なるべく日本の基準に合わせた方が面倒は起きないだろ」

 3本目の煙草もほとんどが灰になって零れ落ちている。
 気がつけば玄関からはかなりの数の生徒が吐き出されていて、校門前でだべっている奇妙な二人組に好奇と疑問の混じった視線を向けていた。そしてその中にはネウロの待ち人の姿もあった。
 友人らしき少女が興奮気味に話し掛ける横で、既に生徒達の注目を集めてしまっているネウロに声をかけてこれ以上注目を集めていいものか、無視して通り過ぎるべきなのかと迷っているのが、その引きつった顔から十分見て取れた。
 …助け舟くらい出してやるか。
 ネウロはにこりと笑って片手を上げた。


NEXT



ネウロ部屋
総合目次