ひとひらの言の葉


 漆黒の前髪に留まった泥の指輪が謎の気配を感じ取る。ネウロはうっそりと唇の端を持ち上げて椅子から立ち上がった。

「謎の気配だ。行くぞ、ヤコ」
「………」

 応接スペースのソファで宿題をしていた弥子はワンテンポ遅れて顔を上げ、億劫そうな仕種でのろのろとテーブルに散らばったペンや教科書を片付け始めた。顔には明らかに『不機嫌』と書いてある。
 その姿にネウロは流麗な眉をわずかにそびやかした。
 分を弁えない奴隷には躾が必要だな。
 手を伸ばして奴隷人形の頭を掴む。ほんの少しだけ力を入れれば、胡桃より簡単に握りつぶせるちっぽけな人間。
 …普段なら慌てて謝りながら出かける準備をする彼女が、今日は違う反応を返して来た。己の命を掴んだ手をぼんやりと見ている。
 常とは違う反応にネウロは訝しげに眼を眇めた。

「…ヤコ?」
「………。ああ…ちゃんと宿題中断して片付けしてるでしょ?そんなに急かさないでよ、謎は逃げたりしないんだから」

 ネウロの眼と微妙にずれたどこかを見ながら弥子が言った。
 今日の彼女はどこかおかしい。
 奴隷が少しばかり臍を曲げているだけ。そう切り捨てて引きずっていくことは簡単だったが、今の弥子の態度を流してしまえば後々面倒なことになるとネウロの直感が告げていた。
 謎ひとつと弥子を秤にかける気はない。
 ネウロは拗ねたペットをなだめるように弥子の頭に柔らかく手を置き直した。

「気乗りしないのか?」
「そんなこと聞いてどうするの?私の気持ちなんてネウロは知ったことじゃないでしょ」

 返事は素っ気ない。顔も上げない。
 今日はよほど虫の居所が悪いのか。癇癪に近い感情的な抵抗はいつものことだが、こんなふうに消極的に頑に不機嫌さを露にするのは初めてではないだろうか。
 その彼女の態度に、ネウロは先ほど気配を感じた謎を忘れるほど強く興味を惹かれた。

「今は知りたいぞ?貴様が何を思って何を考えているのか。少なくともさっきの謎より今の貴様の方が我が輩には興味深い。思うことがあるなら正直に言ってみろ」
「…私だって感情のある生き物だから。気乗りしないこともあるし、気分が良くないことだってあるよ」
「ふむ」

 『生き物』か。
 ネウロは弥子の言葉を胸の内で反芻した。
 『人間』ではなく『生き物』だから、か。普段、ネウロから散々下等生物に例えられている事への皮肉か、それとも。
 どちらにせよ興味を惹かれる。
 片付けを終えた弥子は両手を膝の上に置いたまま拗ねたような顔でそっぽを向いている。ネウロは彼女の頭に手を乗せたまま尋ねた。

「さっき我が輩に掴まれた時に貴様は何を考えていた?」
「別に、大したことじゃないよ」

 僅かな沈黙が落ちた。
 ネウロがそれで納得しそうにないと察したのか、弥子はポツリと呟いた。

「苦しくないように一思いにやってねって言ったら、一瞬で殺してくれるのかな、わざと苦痛が長引くように殺すのかな、それとも殺さずに心を壊すのかなって、ちょっと思っただけ」
「………何を突然、馬鹿なことを」

 押し出したネウロの声は低く、戸惑いは隠せていなかった。
 弥子は眼を伏せたままポツポツと答える。

「突然じゃないよ。気分が優れない時にあんたに無理に付き合わされるとよく考えるよ…一瞬で死んじゃえばいっそ楽かなって。私が死んだら悲しむ人がいるか ら…お父さんが殺された時、私もすごく悲しくて辛かったから、他の誰かにあんな思いはして欲しくないから言わないけで。…あんたは『奴隷人形が突然馬鹿な こと言い出した』くらいにしか思わないだろうけど」

 弥子の目に涙が滲んで頬を滑り落ちた。
 奴隷人形が泣いたところでネウロの心は1ミリだって動かないと分かってる。だから涙を隠すことも、泣くまいと努力することもしない。ネウロにとって、弥子の心など明日の天気よりも関心の無いことなんだから。
 頑なに口を閉ざした弥子の態度が彼女の言わんとすることを雄弁に語っている。
 きっと心も同じように固く閉ざされているのだろう。無理矢理こじ開けようとして壊れてしまっては面倒だし、何より知性の欠片もないやり方はネウロの美学に反する。
 ネウロはしばらく考えて、弥子の頭に乗せた手を頬に伸ばした。流れた涙を拭い頬を撫でる。一瞬弥子は体を固くしたが、ネウロの意外な行動に戸惑った風だった。

「何故泣く?」
「…悲しくて、辛いから」
「何がだ?」
「私にとっての『桂木弥子』は世界に一人しかいない大事な自分だけど、あんたにとってはいくらでも変わりのいる道具の一つに過ぎないんだなって改めて思って」
「………」

 僅かにネウロの眉が動いた。
 先を促すように頬を撫でる手を動かすと、弥子は堰を切ったように言葉を吐き出し始めた。

「私が私に対して感じてる価値が10だとすると、お母さんや亡くなったお父さんは8とか9で、叶絵は6とか7で、他のクラスメイトも笹塚さんも吾代さんも アヤさんも『桂木弥子』に対してきっと1とか2とか3とか4とかの価値を感じてくれてる。でも、お父さんと入れ代わりで一番私の近くにいるあんただけが、 『桂木弥子』に対して価値を感じてない。ネウロにとって私の価値は限り無くゼロに近い…」

 一番身近にいて、誰よりも一緒に過ごす時間が長い相手が自分と言う存在に価値を見い出していない、それが辛いのだと。
 縺れて絡まった糸のような弥子の心をネウロは十分理解することが出来た。
 彼は背筋を伸ばして立ったまま弥子の頬に触れた手をゆるゆると動かしている。

(不快だ)
(何が?)
(ヤコが何も分かっていないことが)
(言葉にしなくても分かっていると思っていたのに)
(一から十まで言葉にして伝えねば分からんのか、下等生物が)
(…いや)

 ネウロは翠の目から鋭い光を消して、わずかに視線を逸らした。

(こうして言葉にされるまで苦悩を分からなかった我が輩がヤコを責めるのは筋違いと言うものか…)

 分からないのなら分かるように説明してやらねばなるまい。しかしこうして視線を合わせないまま物を言ったところで弥子は受け入れないだろう。
 …ならば。


 …不快だ。
 自分の気持ちを上手く言葉に出来ない。心も気持ちも感情もぐちゃぐちゃに絡まって、どこからほどけばいいのか分からない。どう言う言葉を使えば自分の考えをネウロに伝えることができるのか分からない、だから思うままに言葉を続ける。

「私が私に対して感じてる価値が10だとすると、お母さんや亡くなったお父さんは8とか9で、叶絵は6とか7で、他のクラスメイトも笹塚さんも吾代さんもアヤさんも『桂木弥子』に対してきっと1とか2とか3とか4とかの価値を感じてくれてる」

 でもそれよりも何よりも不快なのは、辛いのは、悲しいのは。

「でも、お父さんと入れ代わりで一番私の近くにいるあんただけが、『桂木弥子』に対して価値を感じてない。ネウロにとって私の価値は限り無くゼロに近い、『桂木弥子』から『探偵としての知名度』を引いたら、もう何も残らない」

 弥子の気持ちを、並外れた頭脳を持つネウロは簡単に理解する。でも、人とは違う彼は頭で理解はしてくれても心で分かってくれることはない。
 意外なほど優しく頬に触れていたネウロの手が離れた。

「ヤコ」
「………」

 らしくない真剣な声が聞こえた…その時。
 不意にネウロが膝を折り、床に手を着き、弥子に向かって恭しく頭を下げた。

「……!?」
「ヤコ」

 ネウロはもう一度、真摯な色を帯びた声で弥子を呼んだ。
 その意図が分からず、弥子はただ呆然としてネウロを見つめるしか出来ない。

「確かに我が輩は今まで色々なものに貴様を例えて来た。無生物に例えたことも確かにある。しかし、貴様のことを『変わりはいくらでもいる無価値な人間』と評したことは一度もないつもりだ」
「………」

 いつもは弥子の上から尊大に見下ろしてくる翠の眼が、今は彼女の下から謙虚に見上げて来る。
 ネウロの言葉を否定できないことに気付いて、弥子はぎこちなくソファに座り直した。
 ゾウリムシ、ワラジムシ、ナメクジ、セミ、果ては便所雑巾まで…ネウロの弥子への暴言はあげればキリがない。けれど、ネウロに価値の無い人間だと言われた記憶は弥子にはなかった。

「ヤコ」

 ネウロは僅かに目元を和ませて弥子の手を取った。
 まるでお姫様を迎えにきた王子様みたい…と一瞬思って、弥子はどきりとした。偽物の貌とは言えネウロって結構かっこいいんだよね、改めてそんなことを思う。

「ひょっとして気付いていなかったのか?仮染めとは言え、この我が輩がこうして膝を折り、頭を垂れて『先生』と呼ぶのは貴様だけなのだぞ?」
「………」
「我が輩の正体、目的、あらゆる意味での真の姿…その全てを知っているのは、ヤコ、貴様一人だけなのだぞ?雑用の吾代とて知っているのは我が輩が人間では ないと言うことだけだ。あのXですら、我が輩が謎を喰う魔界生物だと言うことは知っていても、地上に来た理由も真の姿も知らないのだぞ。笹塚やアヤなどわ ざわざ言うまでもなかろう。…ヤコ」

 ネウロはまっすぐに、弥子の目を見つめた。
 渦を巻く翠緑の瞳は一度呑まれたらもう逃げだせない底無し沼のようで、なのに強く惹き付けられる美しさがある。
 弥子は自然にネウロと視線を合わせていた。

「我が輩は…少なくとも地上に来てからは、貴様一筋だぞ?」
「え…」

 どきん、と心臓が跳ねた。
 それはそうだけど、だけど、でも、それって。

「…嘘」
「嘘?」
「だってネウロ、私よりもずっと、あかねちゃんに優しいじゃない」

 言ってしまってから、何だか焼きもちを妬いているみたい…と弥子は思った。
 いや、恋愛感情抜きでそうなのかもしれない。あかねはその能力をネウロに高く評価されているから。
 複雑な顔で口を噤んだ弥子を見てネウロはゆるりと握った手を唇に近付けた。あかねから口の動きが見えないように隠して低く呟く。

「アカネは死者だ」
「だから?」
「死者に対してはその土地の流儀に応じて敬意を表するのが我が輩なりの美学だ」
「……あかねちゃんに対しては地上の価値観を基準に接して、私に対しては魔界の価値観を基準に接してるってこと?」
「分かっているではないか」

 ネウロが満足そうに笑った。

「ヤコよ。貴様は我が輩が自分を偽らず本来の自分で接することができる数少ない人間で、我が輩が頭を垂れ、我が輩の全てを知る地上にたった一人の人間なのだ。それでも自分は我が輩にとって価値の無い存在だと思うか?むしろ得意な気分にならないか?」
「うー…悔しいけど、ちょっと、なった」

 渋々、弥子は頷いた。
 頑なだった弥子の表情がやっと弛んだのを見てネウロはわずかに微笑んで立ち上がった。

「よし、では行くか」
「え?行くって…どこに?」
「何が『どこに?』だ。謎を喰いに行くのに決まっているだろう。…全く余計な手間を取らせて…」
「え、せっかくいい気分だったんだからもうちょっと浸らせてくれたっていいじゃない!」

 弥子が不満げに抗議すると、ネウロは楽しそうに目を細めた。

「いつものヤコに戻ったな。安心したぞ」
「…その言い方だと、私の様子が普段と違うからネウロが心配してたみたいに聞こえるんだけど」
「そうだな」
「そうだなって…」

 その言葉の真意を問いかけて、答えは既に与えられていることに気付いて弥子は言葉を飲み込んだ。
 『名探偵・桂木弥子』を前提にするものであっても、ネウロはネウロなりの基準で桂木弥子という存在に価値を見い出している。
 …ずっと心のどこかに刺さっていた冷たい刺が溶けて行く気がした。

「私、少しは自惚れてもいいのかな」

 独り言のような弥子の呟きには答えず、ネウロは事務所を出ていつものように自分のペースで歩いて行く。
 その背中を急ぎ足で追う弥子の足取りは、しばらく前に事務所を訪れた時よりずっと軽くなっていた。


END



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