さよならを、もう一度


 いつかこの日がくることは分かっていた。
 分かっていた、はずなのに。

 

 

 その日もネウロは普段と違う様子は見せなかった。ただ、デスクの上に散らばっている雑誌や新聞をゴミ箱に放り込んだくらいで。
 だから弥子はまだ信じられずにいた。
 …ネウロとの別れを。

「まぁこんなものか。ではヤコ、我が輩の不在の間のことは任せたぞ」
「…うん」

 弥子は曖昧に頷いた。
 ネウロが地上に来たのは、魔界では満たされなかった空腹を満たすため。その目的が達成された今、緩やかに体を蝕まれる地上に彼が留まる理由はない。
 それは分かっていたはずなのに。
 ネウロは事務所の窓を開け放った。
 ビルに切り取られた満天の星空を背負って彼は笑顔で手を振った。

「では元気でな、ヤコ」
「いってらっしゃい、ネウロ」

 さよならは、言えなかった。

 

 

 …それから二ヶ月。
 『現在休業中』の看板が下がったドアの鍵穴に鍵を入れてカチリと回す。
 主の消えた空間にパソコンのキーボードの音だけが聞こえる。
 メールの応対をしていたらしいあかねが弥子に気付いて嬉しそうに揺れた。

「こんにちわ、あかねちゃん。問い合わせのメール来てたの?珍しいね」

 コクン、とあかねが頷いた。
 ネウロが去った翌日、桂木弥子魔界探偵事務所は『桂木弥子が学業に専念するため』という理由で休止の案内を出した。その直後はあかねと弥子だけでは対応できないほど問い合わせのメールや電話が殺到したのだが、それも今ではめっきり少なくなっていた。
 デスクに置かれた電話のメッセージボタンが光っている。再生ボタンを押すと聞き覚えのあるぶっきらぼうな声が流れ始めた。

『あー、こちら吾代。この間の事件の調査、受けるのか蹴るのかいい加減返事くれ。依頼人が痺れを切らしてる。以上』

 一件だけのメッセージを吐き出してランプは消えた。
 ネウロがいない今、弥子だけでは事件の捜査などしようがない。だからさっさと断ればいいのだが、なんとなくそうできないままずるずると依頼の返事を保留したまま時間は過ぎていた。
 弥子はできるだけ明るい声であかねに声をかけた。

「あかねちゃん、メールの対応が終わったらトリートメントするね」

 弥子の言葉に彼女は嬉しそうに一回転してせっせとパソコンのキーを叩き始めた。
 その速度が以前より明らかに遅くなっていることを、弥子はもう気付かないふりは出来なかった。
 死者であるあかねが『生きて』いられたのはネウロの発する魔界の瘴気のおかげだった。そして彼がいない今、彼女も緩やかに本来の姿である死者に戻って行くのも不思議ではなかった。
 いずれあかねも動かなくなる日が来るのだろう。
 その日が来たら、笹塚に全てを打ち明けて、壁の中に眠っているあかねもきちんと供養して、探偵は廃業しよう。そして普通の女子高生に戻るんだ。
 弥子は何度目になるか分からない決意を胸の中で繰り返した。

 

 

「…そういえばさ、ネウロが魔界に帰ってもうすぐ2ヶ月たつんだね。あいつがいなくなってから1日1日が長くなった気がするよ」

 あかねの髪を梳きながら弥子はデスクを振り返った。トリートメントをしていると必ずと言っていいほど毒舌混じりに割り込んでくるあの魔人は、もうここにはいない。
 確実に心の中で大きくなる寂しさを無理に押し込めて弥子は軽い口調で話を続けた。

「そういえばさ、ずっと前に『ネウロが魔界に帰ることになったらどうするか』って話をしたよね。覚えてる?」

 覚えてるよ、とあかねが頷く。

「あいつさぁ、魔界に帰る時は奴隷解放宣言するとか言ってたのに、何も言わずに帰っちゃったよね。おかげで私の気持ちも立場も宙ぶらりんだよ。ホントにあのドS魔人、最後まで……」

 最後まで。
 喉の奥がぐっと熱くなって、言葉が続かなくなって、作り笑顔もできなくなって、弥子は無言で手を動かした。
『一緒にいる時は窮屈に思えるけど やっと自由を手に入れた僕はもっと寂しくなった』
 父が大好きでよく聞いていた曲。歌っていたのは誰だったろうか。
 弥子は印象に残っているワンフレーズをそっと口ずさんだ。

「思い出してみる 君がどんな顔だったか 凍り付いてた心のドアをあっけなく開いた君…」
「?」
「あ、ちょっとお父さんが好きだった曲を思い出して。なんか、私とネウロの初めての出会いってこんな感じじゃない?お父さんが殺されて凍り付いてた私の心のドアを、ネウロはあっけなく開けちゃって。それからはもう振り回されっぱなしでさ」

 俯いて視線を落としたまま、弥子は独り言のように続けた。あかねは黙ってされるがままで聞いている。

「突然お父さんがいなくなって、私の心の部屋が一つ空いて、その片付けも整理も出来ない内にネウロが無断でそこに住み着いちゃって、いつの間にかそれが当 たり前になって、いつも一緒にいて…。なのにどうしてだろ、あいつの顔をはっきり思い出せないの。あの翠の眼は印象に残ってるんだけど…。お父さんが好き で良く聞いてた歌も、歌ってた人の名前も歌詞も思い出せなくて。私も好きであんなに何度も聞いてたのに、ネウロともあんなに一緒にいたのに」
「…………」
「恋をしているのかも本当は分からないけどもう一度君に会いたいんだ…」

 頭の片隅に残っていた歌詞をうろ覚えのメロディに乗せて歌った瞬間、弥子の目から涙が零れた。
 あかねが慰めるように優しく弥子の手に絡まった。
 弥子はあかねを抱き締めるようにして泣きじゃくった。

「なんで…」
「………」
「一緒にいる時はあんなに鬱陶しかったのに、散々ひどい目にあわされたのに、どうしてこんなに寂しいの…」
「………」
「会いたいよ…ネウロ、もう一度会いたいよ…」

 この場所にはあかねしかいないから、弥子は声を出してみっともなく泣いた。
 …腕に絡まったあかねが弥子の袖を引っ張った。
 ぐすん、と弥子は鼻をすすり上げた。

「なぐさめてくれてありがと、あかねちゃん。…何?」

 そうじゃない、と言うようにあかねが手(?)を振って、上を指した。
 ずっと下を向いていて首の筋肉が疲れているのを感じながら弥子は顔を上げた。

「……………」

 …一瞬、自分が見ているものが信じられなくて弥子は何度も瞬きをした。ごしごしと袖口で目と頬を拭って、もう一度目を開いた。

「ネ…ウロ…?」
「我が輩の顔を忘れたか、この下等生物が」

 見覚えのある顔、聞き覚えのある声。
 弥子はしばらくぽかんと口を半開きにしていたが、ようやく動き出した脳味噌で間抜けな質問を押し出した。

「本当に、本物の、ネウロ?」
「信じられないなら信じさせてやろうか」
「いやいやいや結構です、信じます信じます」

 そうだ、どんな変装の天才だって、重力を無視して天井に立ったり、手袋を填めた手を鈎爪に一瞬で変化させたりできるはずがない。
 ネウロがいる。ここにいる。
 弥子がようやく事実を認識すると、ネウロは天井から床に降りて来た。
 …その楽しげなニヤニヤ笑いを見て、弥子はようやく根本的な問題に気付いた。
 全部見られてた、全部聞かれてた!ネウロに会えなくて寂しいと言ったことも、みっともなく泣いていたところも、全部。
 弥子はあかね用のタオルを掴んで涙と鼻水で濡れた顔をごしごし拭いた。絶対に真っ赤になっているに違いない顔をタオルで隠して、目だけを覗かせてネウロを睨む。

「あんた、いつからここにいたのよ」
「ほんの少し前だ」
「戻って来たなら声くらいかけてよね」
「声がかけづらい雰囲気だったのでな、タイミングを探っていたのだ」
「…趣味悪い」
「御挨拶だな。貴様のお望み通り、こうしてもう一度会いに来てやったのに」

 ネウロはとても楽しそうに大袈裟に両手を広げてみせた。弥子は照れくさいのと腹立たしいので顔をタオルで隠したまま尋ねた。

「……。大体、どうしてあんたがここにいるのよ。魔界に帰ったんじゃなかったの?」
「もう二度と地上には来ない、と言った覚えもないが」
「…………………」

 ネウロの言葉に2ヶ月前のことを思い出して、ようやく弥子は気がついた。
 確かにネウロは『魔界に帰る』と言った。が、『もう二度と戻らない』とは言わなかった。
 言われてみれば確かにそうだ、ネウロ不在の事務所の管理を指示したのも、吾代に謎探しを続けさせたのも、弥子を解放しなかったのも、全て戻る意志の現れではないか。
 勝手にこれが今生の別れだと勘違いした自分が恨めしい。
 弥子は恥ずかしさを隠そうと半ば逆切れして怒鳴った。

「だ…だってあんた、また戻って来るなんて一言も言わなかったじゃない!」
「貴様も承知していると思ったから言わなかっただけだが。貴様は別れ際こう言ったではないか、『いってらっしゃい』と。あれは近い内に再会することを想定した挨拶ではないのか?」
「………………」

 グゥの音もでない。
 タオルを掴んだまま真っ赤になって黙り込んだ弥子を見てネウロはますます嬉しそうな笑みを浮かべた。

「それにしても…貴様が我が輩に会えないことを泣くほど寂しがっていたとは…こんなことならもっと早く戻ってくれば良かったか?」
「…………」

 決定的な場面と言葉を見られてしまったせいで何も言い返せず、弥子はむくれたまま俯いた。
 ネウロはそんな弥子の態度がよほどお気に召したのか、満面の笑みを浮かべて彼女の顔を覗き込んだ。意地でも眼を合わせるもんか、とそっぽを向いた弥子の顎を掴んでぐっと持ち上げる。

「ヤコ」
「…………」
「この我が輩が、こうして貴様に会いに戻って来たのだぞ?何か言うことがあるだろう」
「…………」
「ヤ、コ」
「…言いたい事はいっぱいあるよ」

 ぶっきらぼうに言うと、ネウロはほぅ、とわざとらしく目を見開いて茶目っ気たっぷりに眇めた。
 意地でも顔なんか見てやるもんか、と目を逸らしたまま弥子は口を開いた。

「そういうあんたも寂しくて戻って来たんじゃないの、とか、あかねちゃんが完全に動かなくなったらどうするつもりだったの、とか、私が誤解してること分かってたんじゃないの、とか、戻ってくることを言わなかったのはわざとじゃないの、とか」
「ふむ。それで?」
「…………」
「他に言いたいことはないのか、ヤコ?」

 涙が乾いた後が残る頬、赤くなった目や鼻、そして散々泣いた余韻で震えている唇。
 からかうような口調とは裏腹に優しく撫でて、ネウロは弥子の頬をくいっと引っ張った。

「本当に言いたいことは何だ?言葉にしないと分からんぞ」
「……………」

 分かってるくせに。
 弥子はムクれたまま意固地に黙り込んだ。
 …嬉しい。
 ネウロがこうして戻って来たことが、本当に嬉しい。
 気を緩めたらその嬉しさが顔に出てしまいそうで、嬉し泣きしてしまいそうで、だからネウロの顔は見れない。
 でも。
 この状況で正直に気持ちを言うのは癪に触る。
 弥子がささやかな抵抗をしていると、その手にそっとあかねが触れた。

『いってらっしゃいって言って彼を送りだしたのなら、最適な言葉があるじゃない』

 目が合った瞬間、彼女の言わんとすることがテレパシーのようにすぐ分かった。
 …そうだね。
 無理に作った不機嫌顔をやめてあかねに頷いてみせ、弥子はやっとネウロを見上げた。
 懐かしい顔が、目の前にある。
 やっと正直に言う気になったか、とネウロが期待に満ちた笑みを見せた。
 ああ、なんて。
 弥子は思う。
 なんて憎たらしくて、そして可愛い奴なんだろう。
 弥子はクスリと笑って、自分の正直な気持ちを唇に乗せた。

「おかえり、ネウロ」

 期待していたのとは違う言葉だったらしく、ネウロはきょとんと眼を丸くした。
 ささやかな意趣返しだったが、弥子は十分満足だった。

「…で、あんたの言うことは?私に会えないのが寂しくて魔界から戻ってきたんでしょ?」

 弥子の言葉にネウロは更に目を丸くして、フ、と笑った。…彼女の言葉を否定はしなかった。

「ただいま、ヤコ」

 

 …桂木弥子魔界探偵事務所、本日より営業再開。


END



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