| 母の言葉の意図を掴み切れず、ヒュプノスはニュクスを見つめた。彼女は悲しいほど
真剣な目をしている。 痛いほどの静けさの中でニュクスは続けた。 「私があなたに授けた死を司る力は、新たな始まりを迎えるた めの終わりを与えるためのもの。決して命を弄ぶための力ではありません」 「判って…います」 「そうね、アテナと聖戦を始める前の貴方は己の力の意味を正 しく理解していました。モイライの与えた寿命を生き切った者は泣いても喚いてもどのような事情 があっても迎えに行った。そして、貴方を罵ってもどんな無礼を働いても、寿命が残っている者を手に掛けることは決してなかった。感情に流されず己を律して 力を行使できる貴方は私の自慢の息子でした」 …過去形。過去形だ。 膝に乗せたタナトスの手は隠しようがないほど震えている。 その手を掴もうと手を伸ばしかけたヒュプノスは、自分の手 も小刻みに震えていることにようやく気がついた。 「タナトス。今回の聖戦でも、前回の聖戦でも、その前の聖戦 でも、自分の力の存在意義を正しく理解していたと…胸を張って、この母に言えますか?」 「………」 「母上!……」 蒼白になっている兄の姿にヒュプノスは思わず口を開いた が、言葉が続かなかった。 感情も思考も縺れた糸のように絡まり、母に抗議したいのか 兄を擁護したいのか、そもそも何を言いたいのかも判らない。 ニュクスはヒュプノスが何か言うのを待っている風だった が、何も言わないのを見て視線をタナトスに戻した。 「返事が出来ないということは、己の力の意味を取り違えてい た自覚があると、そう解釈して良いのですね?」 「………。申し訳、ありません…」 掠れた声でタナトスは言葉を押し出した。 そうだ。 人間を塵芥と断じて戯れに命を摘むことは、己に力を与えて くれた母を裏切り、運命を紡ぐ妹達モイライを侮辱することに等しい。 聖戦ばかりに気を取られて様々なことを置き去りにしていた ことにようやく気付き、同時に己の愚かさを思い知り、タナトスは俯き唇を噛んだ。 こんな自分が夜の一族の長兄を気取るなど片腹痛い。自嘲す ら浮かびそうになった時。 「それを聞いて安心しました」 「え…?」 顔を上げると、母が優しく穏やかな笑みを浮かべていた。 「己の間違いを自覚し反省しているのなら良いのです。先ほど の私の質問に貴方が胸を張って『自分は何も間違っていない』と言ったらヒュプノス共々勘当するつもりでいました」 「………」 「タナトス。ヒュプノス。我々は神です。神は絶対的な存在で す。しかし、『絶対的』であって『絶対』ではないのです。神が間違いを犯すことが無いわけではありません。それはガイアの一族を見ても分かるでしょう?」 「…はい」 息子達の為に息子や孫を戦わせたガイア。親子で覇権を巡っ て争ったウラノス、クロノス、そしてゼウス。神話の時代の終わりまで世界を統治したゼウスでさえ、妻以外の女と数限りなく交わり諍いを引き起こした。ゼウ スの子達がもたらした災いも少なくない。 そんな大地の一族を夜の一族である双子神は冷ややかに見て きた。自分達は決してあのような醜態を晒すまいと思っていた。 思っていたのに。 少しだけ昔話をしましょうか、と慈愛に満ちた声でニュクス は言った。 「遥かな昔…貴方達も生まれる前、大地ガイアは大勢の子供を 産みました。天空を、海を、山を。しかし彼女は、命を生み育む存在を生み出しても、命を終わら せるものは生まなかった。命を終わらせるという考えそのものがなかったと言った方が正しいかもしれませんね。その頃の私達に『終わり』という概念は存在し なかったから」 「最初から後先考えない性質だったのね、ガイア伯母様は」 「だからと言う訳ではないけれど、私はいずれ必要になるであ ろう『命を終わらせる者』を生もうと思いました。しかし、その頃の世界には終わりが存在しませんでした。だからまず、『終わりを定 義する者』死の定業を司るモロスを生み、次に死の運命を司るケールを生みました。そして、長兄と長姉が定義する『死そのもの』を司るタナトスを胎内に宿す 時、私はふと 思ったのです。死は一度与えれば二度とやり直しがきかない絶対的なもの。決して間違いが赦されないもの。そんな重圧をたった一人に背負わせていいのだろう か。考えた結果、私は眠りを共に生もうと決めたのです」 タナトスとヒュプノスは初めて聞く己の誕生秘話に、複雑な 顔を見合わせた。 死を司る役目がタナトスだけでは重すぎるのなら、モロスや ケールと共にあれば良いのではないか。何故、眠りを死の片割れにしたのか。 そんな息子の疑問を察したのだろう、母はヒュプノスに目を 向けた。 「眠りは死に酷似しながら全く異なるもの。死は全てを奪うけ れど眠りは何も奪わない。死は終わりであると同時に始まりでもあるけれど、眠りは終わりも始ま りもない。死は一度与えたらやり直しは出来ないけれど、眠りは何度でもやり直せる。死と眠りは表裏一体、互いに最も近しく最も異なる魂を持った存在でなけ ればと思った…それが貴方達を双子の兄弟として産んだ理由」 「つまりタナトスが己の力を正しくない形で行使しようとした 時は、私がその抑止力とならねばいけなかったのですね。命まで奪わずとも良い、与えられた寿命が尽きるまで眠らせておけばよいではないか、と…」 「聖戦が始まったばかりの頃の貴方は消極的な協力に留まって いたのに、最近は積極的に参戦していた事は意外でしたよ、ヒュプノス。タナトスが聖闘士ではない星華という少女を殺そうとした時も素知らぬ顔をしていたの は本当に驚きました」 「いえ、あれは!タナトスがあの娘を本気で殺す気はないと分 かっていたので…」 「スルーしてたら天馬星座君がブチ切れて神聖衣が出現してタ ナトスと一緒にぶっ飛ばされちゃったと、そういうオチなわけね」 「それ、は…」 ケールの鋭いツッコミに流石のヒュプノスも言葉に詰まっ た、その時。 パキッ。 絶妙のタイミングでタナトスが茶菓子のクッキーを割った。 場違いな音に皆の視線が集まるのを素知らぬ顔で受け流し、割った片方を口に入れながら残った片方をヒュプノスに差し出した。 自然な流れで半割れのクッキーを受け取ってしまったヒュプ ノスは、突っ返す訳にもいかないそれを仕方なく口に入れて乱暴に噛み砕いてやった。 完璧に整った容姿の神々が一枚のクッキーを分けて食べると 言う奇妙な図に場の雰囲気が和んだ。 どうのこうの言っても仲の良い双子神にニュクスはクスリと 笑った。 「話が逸れてしまいましたね。…さっきも言いましたが、神と て間違いや失敗は犯すもの。ですが、残念ながらガイアの一族は失敗を認め間違いを反省し己を改めるのが不得意でした。でも、貴方達は違いますね?」 「勿論です」 「よろしい。天馬星座に会った時には、無関係な彼の姉を巻き 込んだことをきちんと謝罪するのですよ、タナトス」 「は。…はぁっ?」 頷きかけたタナトスは一瞬遅れて母の言葉を認識して間の抜 けた声を出した。 神であるこの俺が、人間である天馬星座に『謝罪』? いや、まぁ、確かに、聖闘士でもない天馬座の姉を殺そうと したことは聖戦の暗黙のルールに反するし、己の存在意義にも反する。間違いを犯したのなら謝罪してケジメをつけるのが筋だ。それは理屈では分かる。分かる のだが。 「タナ兄、顔に思いっきり『嫌だ』って書いてある」 「黙れ」 「顔に出るだけで口に出してはいないのだ。そのくらい許して やれ、エリス」 「お前も黙れ、ヒュプノス」 他人事のように言う弟神を睨みつけ、タナトスは乱暴に二枚 目のクッキーを口に押し込んだ。 口の中に広がる甘い香りを無理やり堪能して不快感を捩じ伏 せる。 母と弟妹達の前で自分はガイアの一族などとは違うと宣言し たのだ。人間などに頭を下げられるかと前言を翻すのは、兄としての矜持が絶対に許さなかった。 半ば自棄に近い開き直りでタナトスは母神を見遣った。 「では母上。俺は、天馬星座に謝罪をしに地上に行けばよいの ですね?それとも奴を冥界に招待した方がよろしいですか?」 「その件についてはエリスと相談した方が良いでしょう。アテ ナから伝言を預かってきたようですから」 「ああ、そう言えば…」 「人間どもの耳には入れられぬ真剣な話らしいが」 兄達の視線を受けたエリスは紅茶を含んで唇を湿らせると真 面目な顔で頷いた。 「前置きとかもろもろは端折って本題に入るけど。アテナはま ず兄貴達と…いい?ここ大事よ?ハーデス殿抜きで、兄貴達『だけ』と、和平に関する相談をしたいから、地上に来てほしいんだって。言葉は丁寧で話は回りく どかったけど、言いたい事はつまりそういうことらしいわ」 「…冥王軍の大将抜きで和平交渉だと?」 「うん、私もそこ突っ込んだ。むしろ逆じゃないの?うるさい お目付け役なしで大将同士サシで話し合いするんじゃないの?って。そしたらはっきりきっぱり言われたわ。『私はまず、お兄様方とだけお話をしたいので す』って」 エリスは『お兄様方』という単語を殊更に強調した。おそら くアテナもその言葉を強調したのだろう。双子神、死と眠りの神、ハーデスの側近…タナトスとヒュプノスを差す単語は他にもあるのに敢えて『お兄様方』とい う言葉を選んだ。 アテナは戦女神であると同時に知恵の神でもある。言葉の選 択に何か意図があるのか。 勘ぐる兄達に、それでね…とエリスは続けた。 「最初は断ったのよ。だってそうでしょ?聖戦は私とは関係な いってタテマエでも、兄貴達に大怪我させたアテナにいい感情持てるわけないし、なんでそれしきの伝言 のためにこの争いの女神エリス様がパシリになってやらなきゃいけないのよ。停戦状態になってるんだし聖域の聖闘士の一人でも冥界に寄越せば十分でしょ、な んならアテナ様御自ら冥界入りしてもいいんじゃないの、って」 「もっともな反論だな」 「そしたらね、『私の聖闘士であっても人間には知られたくな い話があるのです。冥界で話をしたらハーデス殿の耳にも入ってしまうでしょう?現時点では 100%の確証がない故に、それは避けたいのです』って言われたの。あ、アテナの言う『現時点』って言うのは3年か4年前、ちょうど異世界の死神介入の事 件で世の中が騒がしい頃だから今は違うかもだけど…とにかく気になる物言いじゃない?だからそこ追及したんだけど、『その話は私の最後の切り札だから何の 確約も頂けないまま詳細を明かす訳にはいきません』って言われちゃってさ。アテナのパシリを引き受けるからちょっとだけでも教えてよ、内容次第で兄貴達の 反応も変わるかもしれないじゃんって食い下がってやっと、漠然とした話を聞き出したんだけど…」 エリスは言葉を切り、紅茶をぐるぐると掻き混ぜた。 彼女らしからぬ歯切れの悪い話し方にタナトスは苛々と指で 卓を叩いた。 「前置きはいい。アテナの匂わせた『最後の切り札』となる話 とは何なのだ?」 「間違ってても怒んないでよ、タナ兄。アテナが漠然としか言 わないから、あくまでも私の想像なんだからね」 「くどい!」 「…アテナはね、ベルセフォネー様の現在の消息を掴んでるみ たい」 「……!!」 エリスの言葉を聞いた途端、双子神の顔色がサッと変わっ た。 ベルセフォネー。 それは冥王の妃、ハーデスが生涯をかけて愛したたった一人 の女神の名だった。ハーデスの全てと言い換えても大袈裟ではないほどの存在。 春の花が綻ぶように愛らしい笑顔は今も彼らの記憶に残って いる。 『私が地上のどこにいても必ず見つけてね。約束よ、ハーデ ス』 あの日。 双子神が最後にベルセフォネーに会った時も、彼女はいつも の愛くるしい笑顔でそう言った。 あの日、あの時、ハーデスの時は止まった。過去も未来も現 在も、己の時間の全てを愛する妃に捧げて。 ベルセフォネーを探し出し、再会する。それが彼らの戦う理 由だった。 …タナトスは低く呻いた。 「我々が数千年かけても見つけられなかったベルセフォネー様 を、アテナは見つけたということか…?」 「何度も言うけど、アテナの遠回りで回りくどい話から私がそ うじゃないかなーって想像してるだけだからね」 「いや、『和平交渉における最後の切り札』と言ってお前にそ んな話をするからにはそれなりの情報を掴んでいるのだろう。ベルセフォネー様とアテナは神話の 時代から仲の良い友人同士であったし、神話の時代が終わった後も地上でしばらく交流があったはずだ。我々の知らぬ何かを知っていても不思議ではない」 「エリス。アテナはベルセフォネー様に関してどのように話を していたのだ?」 「んーとね、『最近になって昔のことを色々と思い出したので す。貴女のお兄様達と聖戦を始めるずっと前のこと。あの頃の私達は敵味方に分かれて戦うなど考 えもせず、楽しく交流していましたね』とか、そんな話で始まって、『お兄様達と初めてきちんとお話をしたのはハーデス殿がベルセフォネーを冥界に攫った時 でしたわ。お二人とも問題解決のために一生懸命で、ハーデス伯父様は良い臣下に恵まれたのねってアルテミスと話していたの』とかそんな昔話をしながら、 『ハーデス殿とお兄様達は今もベルセフォネーを探していらっしゃるのかしら』みたいな感じで、当たらず障らず核心に触れそうで触れなくて、焦れったくなっ て追求したんだけど、最後の切り札だから今は言えないの一点張りでさぁ」 死と眠りの神は無言で視線を合わせた。 時が止まったあの日から、ハーデスの全ては冥妃ベルセフォ ネーのためにあり、双子神の全ては主君ハーデスのためにあった。 そして今。 戦女神の招待に応じれば止まった時が動き出す可能性がある のなら、何を躊躇うことがあろう? 「エリス」 「はーい、了解」 「…まだ何も言ってないぞ」 「兄貴達が地上に行く準備とアテナとの仲介役、やればいいん でしょ?大丈夫、任せといて。実用性のある観光ガイドブック買ってくるから!」 「観光だと?何を馬鹿な…」 「いや待て、タナトス。先ほど母上がおっしゃっていたではな いか、『地上は我々の予想以上の速さで進化している』と。この機会にじっくりと地上の様子を見てくるのも大切かもしれぬぞ」 「ああ…それもそうか…」 「そーそー。特に兄貴達が眠ってたほんの二十年ちょっとで地 上の文明はものすごい速さで進化したんだよ。例えばねぇ…」 エリスが身振り手振りを交えて面白おかしく地上の話をする と、兄弟姉妹達が遠慮のない質問やツッコミをぶつけ、母はそれを柔らかく微笑みながら見ていた。 久々に一堂に会した夜の一族は、長らく離れていた時を埋め るように語り明かした…。 ――家族会議の後、早速エリスはアテナに伝言を届けに地上 に向かった。向こうもそれなりに準備が必要だろうし返事が来るまでしばらくかかるだろうと思い、タナトスとヒュプノスは家族達とのんびり寛いでいたら、予 想外の速さで正式な招待が来た。 アテナ側が話し合いに対して真剣な姿勢を見せてきた以上、 冥界側も相応の対応をしなければならない。 名残を惜しむ家族と早々に別れて双子神はエリシオンに戻っ てきていた。 地上に向かう前に挨拶を…とハーデスの神殿を訪ねると、主 君は既に目覚めていた。 寝台に力なく横たわり、元から色白の貌を更に蒼白にして、 それでも冥王は臣下の姿を見ると体を起こして出迎えようとした。 タナトスはハーデスをそっと制した。 「ハーデス様、ご無理をなさらず。どうぞ横になっていてくだ さい」 「すまぬ、二人共。まさかニュクス殿の手を煩わせることに なってしまうとは」 「何も問題になっておりませぬ故、母の件はお気になされます よう。むしろ謝らねばならぬのは御身をお守りできなかった我々の方です」 「そなた達、そんな他人行儀な言い方をして…実はものすごく 怒っているのか?」 ハーデスは深い湖を思わせる翠の瞳に不安げな色を滲ませて 二人を見た。 そんな主君の姿に双子神は一瞬目を見開き、クスリと笑っ た。 「ご安心を、ハーデス様。『ああ、またアテナにやられたか』 と呆れはしておりますが、怒ってなどはおりません」 「聖戦が始まってからは主君と臣下の礼儀を弁えねばならぬと 常に意識しておりましたから、その癖が抜けぬだけです」 「そうか、それなら良いのだ。そなた達まで失うことになって は、余は…」 「ハーデス様?」 「夢を、見ていたのだ。遠い昔の夢を」 促されるまま寝台に体を横たえてハーデスはポツリと言っ た。 遠くを見つめて独り言のように呟く。 「余はヘカトンケイルの伯父上達と一緒に冥府に向かっている のだ。用意したセリフを何度も練習しながら、うまく言えるだろうか、ニュクス殿の一族は何の相談もなく一方的に冥王を名乗る余を受け入れてくれるだろう か、彼らとうまくやっていけるだろうかと心配しながら」 「懐かしい話ですね」 「…そなた達が余を受け入れてくれた時の喜びは今もはっきり と覚えている。我々三人で新たな冥府を作りだす相談をして、そなた達の兄弟姉妹の意見も聞い て、ああでもないこうでもないと盛り上がって…楽しかったな、あの頃は。どうして余はそれを忘れていたのだろう。そなた達二人と共に冥府で暮らした日々は あんなにも楽しくて幸せだったではないか…」 ハーデスは心が痛くなるような微笑みを見せた。 死と眠りの神は言葉もなく冥王を見つめた。 「余は人間に言った、お前達の留まる事を知らぬ欲望は嘆かわ しいと。…余も同じだ、余の欲望も留まる事を知らぬ。そなた達と暮らしていた日々は十分に幸せであったのに、更に多くを望んでしまった。その結果がこれ だ。余は欲張りすぎたのやも知れぬ…」 「何をおっしゃるのですハーデス様!」 「ハーデス様は多くを望んでなどおられぬ。愛する妻に会いた いと願うことのどこが欲張りだと言うのです」 「だがベルセフォネーは見つからぬ。本当に地上にいるのかす ら分からぬ。あの再会の約束すら真実であったのか…」 バシッ! …ハーデスが呆然とタナトスを見上げた。 主君を張り倒した死神はその胸倉を掴み上げ、顔を睨んだ。 臣下にあるまじき無礼を、眠りの神は黙って見ている。 「タナトス…?」 「目は覚めましたかハーデス様?まだ寝ぼけているならもう一 度殴って差し上げますが」 「いや、大丈夫だ。ありがとう、おかげで目が覚めたぞ」 ハーデスが先ほどよりはシャンとした目で微笑んだのでタナ トスは手を離した。 殴られた頬をさすりながら、それでもハーデスは嬉しそう だった。 「懐かしいな。そなたに殴られるのはベルセフォネーを攫って 来た時以来だ。…それにしてもタナトスよ、弱音の一つも赦してくれぬとはお前は本当に厳しい奴よな」 「今のお言葉、ベルセフォネー様の耳に入ったら一発殴られる だけでは済まないかと思いますが」 「殴られた後に小一時間ほどお説教、更に一週間はお怒りが静 まらぬでしょうね」 「数千年かかっていまだ見つけられずにいるからな、何とか見 つけても喜ぶ前に怒られそうな気がするが…。…わが妃ベルセフォネー…一体どこにいるのか…」 「………」 寂しそうに遠くを見る主君の姿に、双子神は無言で目配せし た。 アテナがベルセフォネーの情報を掴んでいるらしいという話 は、自分達で確認するまでハーデスの耳に入れるべきではない。アテナが切り札にしている以上それなりに確かな根拠があるのだろうが、万が一にも間違いだっ た可能性を考えれば今はまだ伏せておいた方がいい。 臣下の沈黙を違う意味に解釈したらしいハーデスは、多少努 力が見えるものの無理のない笑顔を浮かべた。 「ところで…エリス殿から話を聞いたのだが、アテナから和解 交渉の話が来ているそうだな?」 「ええ、何故かハーデス様ではなく我々を名指しで」 「余がそなた達におんぶに抱っこだとアテナに見抜かれてし まったか。情けない話だ。…タナトス、ヒュプノス」 「は」 「アテナがそなた達を指名したことにも何か事情があろう。余 はまだ満足に動けぬ故、そなた達に余の権限を預ける。交渉の結果、そなた達が下した決断を余の決断として皆に通達する。そのつもりでアテナとの交渉に臨ん で欲しい。…よろしく頼む、兄上達」 ハーデスの言葉と柔らかな微笑みがあたたかな熱を持って死 と眠りの神の心に響いた。 やはりこの方は我等の主君、全てを賭けて仕えるだけのお 方。 そっと差し出された手を二人はしっかりと握った。 「お任せを、ハーデス様」 凍りついた貴方の心を開くあの方を、貴方が全てを賭けて愛 したあの女神を、必ずや見つけて参ります…! |
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