| 椅子から立ち上がって会釈する銀と金の神々の姿に女神達は他意のない笑顔を見せた。 「おや、ヒュプノスも一緒だったか」 「なんだかんだ言ってお兄ちゃん子ねー、ヒュプノスは。あ、別に深刻な話をしに来たわけじゃないから!身構えないで楽にしていいわよ」 変に緊張してしまったがいらぬ心配だったか。 ほっとした双子神がお言葉に甘えて椅子に座ると、ベルセフォネーは空いていた一人掛けの椅子にちょこんと腰を下ろし、ヘカーテはタナトスと体が触れ合う ほどの隣に座って色気たっぷりの仕草で足を組んだ。 魅惑の太腿から目を逸らしたタナトスがベルセフォネーに視線を向けると、冥妃はいきなり本題に切り込んできた。 「神殿の前にいたオルフェウスから聞いたわよ。弟子入り志願に来た彼を門前払いしたんですって?」 「………」 話と言うのはそっちか! 一周回って嫌な予感が的中して言葉に詰まるタナトスを面白そうに見ながら、ヘカーテは死神の腕に自分の腕を絡めて体を密着させつつ甘く囁いた。 「忠犬のごとく馬鹿…ああいや、純朴な彼に私達は心を打たれてな。奴の願いを聞き届けるようお前を口説きオトすために来たのだ。了承するまで離さぬぞ、タ ナトス」 「そう言うお話でしたら私は邪魔ですね。席を外させて頂きます」 嫌な予感をビシビシと感じてヒュプノスは慌てて立ち上がった。 ヘカーテは双子神をおちょくるのが大好きだ。タナトスをいじると可愛い反応をするのが面白いし、妻帯者のヒュプノスを色香でチクチク責めて困らせるのも 楽しいらしい。 お色気系の美貌の女神に絡まれていたなどと妻の耳に入ったらいらぬ揉め事が起きかねない…と実に賢明な判断でその場を立ち去ろうとした弟神の腰帯を、貴 重な味方を逃がしてなるかとタナトスが捕まえた。 「この状況に俺を一人残して逃げる気か?それでも弟か、ヒュプノス!この薄情者め!」 「いや、お色気系美女と清純派乙女とお前の甘く濃密な時間を邪魔しては悪いと思ってな…」 「ベルセフォネー様は既婚者であろう、変な誤解を招くような言い回しをするな!」 「安心しろ、ヘカーテ様は独身だ」 「話を逸らすな、それから目も逸らすな!」 「だから私は言ったではないか、さっさとオルフェウスを弟子にしろと!お前がああでもないこうでもないとグズグズしているからこういうことになるのだ、お 前も兄なら自分の不始末に私を巻き込むな!」 「う…」 「あれ、ヒュプノスもオルフェウスを弟子にしろってタナトスに言ってたんだ?じゃあ話は早そうね」 兄弟のささやかな諍いをほほえましく見ていたベルセフォネーは、ヒュプノスがうっかり口走った言葉にパッと顔を輝かせた。 眠りの神は失言に気付いてギクリとし、その顔を見たヘカーテはますます妖艶な笑みを唇に浮かべて掬い上げるような目線でヒュプノスを見上げた。 「ほほう…つまりお前も私達と同じ意見と言う訳だ。それなら席を外す必要はないぞ。なぁベルセフォネー?」 「そうね。上司ふたり相手じゃタナトスも言いたいことが言いにくいだろうし、立場的に中立の誰かがいた方がいいでしょ」 「ほらヒュプノス、冥妃様もこう仰せだぞ」 「………」 ヒュプノスは無邪気な笑みを浮かべているベルセフォネーを見て、甘い色気を惜しみなく振りまくヘカーテを見て、そのヘカーテに文字通り絡まれている…と 言うか半ば押し倒されているタナトスを見て、何かを諦めた顔で溜息をついた。 格上の女神二柱と変なところで子供っぽい兄の機嫌を損ねてその後始末に追われるくらいなら、この場に残ってさっさと話を終わらせた方がいくらかマシだろ う。 ヒュプノスはさりげなくヘカーテの手が届かない位置に椅子を動かして座り直した。 「分かりました。では同席させて頂きます」 「うん、ヒュプノスも意見があったら遠慮なく言ってね」 「ではお言葉に甘えて…。意見と言うより質問なのですが、お二方は先ほど『オルフェウスの熱心さに感心してタナトスを口説きに来た』と仰せになりました ね」 「それがどうかした?」 「正直申し上げて、それだけの理由でお二方がタナトスを説得しに来たとは思えぬのですが」 ベルセフォネーはヒュプノスを見つめて数回瞬きし、ヘカーテはタナトスにしなだれかかったまま唇を妖艶に微笑ませた。 図星を突いた手ごたえを感じて、眠りの神は一歩踏み込んだ。 「他に理由があればお聞かせ頂けませんか?お二方がタナトスの意思より人間の希望を優先するのは私も気分が良いとは言いかねますので」 「わざわざ言わずとも分かっているであろう」 ヘカーテはますます艶っぽく微笑んで、タナトスの銀糸の髪にしなやかな指を絡ませた。 「あれがこいつの弟子になれば色々と面白くなりそうだからに決まっているではないか。ああ、あと最近、愛しのタナトスに絡む口実がなかったからというのも あるな」 「………」 「何故そんな迷惑そうな顔をするのだ。素直に喜んだらどうだ、相変わらず可愛くないな」 「なるほど、納得しました。ベルセフォネー様は?」 ヘカーテの話の後半は聞こえなかったことにしてヒュプノスはベルセフォネーに目を向けた。 お色気女神と死神のお約束は綺麗に無視して、冥妃は人差し指を可愛らしく唇にあてて思案顔になった。 「うーん…うまく言えないんだけど…オルフェウスにタナトスの事をもっと知って欲しいから、そしてタナトスの事を今以上に好きになってくれたら、私はすご く嬉しいから、かな」 「……え?」 「だってほら、タナトスって人間にすっごく誤解されてるでしょう?『心臓は鉄、心は青銅、捕らえた獲物は決して放さぬ』とか言われちゃって。死神なんだから寿命が尽きた 人間を冥府に連れて行くのは当たり前なのに、冷酷非情で血も涙もない邪悪な神みたいな言われ方して…私はそれが、何て言うのかな、悔しいっ て言うか歯痒いって言うか…『タナトスはあんまり素直じゃないとこもあるけど、優しくて明るくて頼りになって意外に可愛いところもあったりして、オリンポ スの神よりずっと常識的だし魅力的なのよ!私のお義兄さんのこと何も知らないくせに 勝手なこと言わないで!』って声を大にして言いたかったの。でも人間相手にそんなこと言って回るのは変だし、現実的に無理でしょ?死神に好 意的なイメージが定着しちゃったら仕事もやりづらいだろうし」 「まぁ、確かに…」 「だから…あ、『だから』じゃ繋がらないかもしれないけど、オルフェウスがタナトスの事をちゃんと分かってくれたのが、すごく嬉しくて。彼が目をキラキラ させてタナトスの事を嬉しそうに話すと、『でしょでしょ、そうでしょ、良く分かってるじゃない!』って私も嬉しくなるの」 予想外の言葉にタナトスはぽかーんとしたまま目を見開き、ヒュプノスも表情の薄い顔に少なからずの驚きを浮かべてベルセフォネーを見つめた。 冥妃は自身が司る春そのものの明るい笑顔で死の神を見遣った。 「オルフェウスがあなたの弟子になれば、きっと、もっと、嬉しいって思える事が増えるわ。そしてあなたの毎日も変化に富んで面白くなると思うの。だから、 ね?」 「全く…ベルセフォネー様は策士であられる。そのようなお話をされては断れぬではないですか」 ベルセフォネーの言葉が嬉しくなかったはずはないだろうに、不満そうな顔をしてタナトスはぼやいた。 最後まで自分の意思意向は横に置かれていたのが不服か、自分で結論を出そうとしていたのに先を越された事に拗ねているのか、理由は概ねそんなところだろ う。 相変わらず変なところで子供なんだから。可愛いなぁ、もう。 ベルセフォネーはクスリと笑って、小さな子供に接するように優しく言った。 「後で御褒美あげるから、そんな嫌そうな顔しないの。ね?」 「冥妃様!俺を子供扱いするのはおやめ頂きたい!」 「じゃあ…こほん。タナトスよ、私の無理を了承してくれたこと感謝する。後ほど褒美をとらす故、有難く受け取るが良いぞ」 「言い方を変えれば良いというものではございません!」 「ダメなの?難しいなぁ…。まぁいいわ、御褒美は何がいいか考えておいてね」 「ふむ…ベルセフォネーが褒美をとらすのなら私もタナトスに何か褒美をやらねばな」 「謹んでご遠慮申し上げます」 「真顔で即答するな、それに私はまだ何も言っていないぞ」 「俺もまだオルフェウスの弟子入りを了解したとは言っておりません」 「ほーお?」 ヘカーテがにやりと笑って紫紺の瞳を眇めた。 失言をした事が分かるが具体的にどこがまずかったのか分からない死の神に、美貌の女神は殊更にゆっくりと言った。 「『オルフェウスの弟子入りを了解したわけではない』だと?ではさっきの『そんな話をされたら断れない』という発言は何だ?断れないが了解しないとは、一 体どういう意味かな?納得できるよう説明してもらおうか」 「それ、は…」 勢いで口走った言葉に突っ込まれて口籠るタナトスの姿に、ヒュプノスは内心でそっと溜息をついた。 兄神の粗忽さは頭痛の種だが、今それを言ってもどうにもならない。 後ほどじっくり説教しておかねばと固く心に決めつつヒュプノスは助け船を出した。 「タナトスよ、私がいつも言っているであろう?お前は言葉が足りない上に使い方が不適切なのだ。『冥妃様の有難いお言葉を頂いては断れぬが、入門試験の一 つもなしで人間が神に弟子入りする事を安易に了解するわけにはいかない』…こう言わねばお前の本心は伝わらぬぞ」 「あ…ああ、そうか、そうだな。ヒュプノスの言った通りです、ヘカーテ様。冥妃様達のお言葉添えがあればどんな希望も叶えられるなどと人間に思われては、 俺の立場がないではありませぬか」 「まぁ…確かにな…」 おちょくるつもりがうまい事逃げられたヘカーテは少し不満そうだったが、それ以上食い下がる気はないらしく渋々といった風に口を閉じた。 残念そうに唇を尖らせる彼女の姿に多少申し訳ない気持ちになったタナトスは、美貌の女神の手を恭しく取った。 その行動の意味を目線で尋ねるヘカーテに屈託のない笑みを見せる。 「前言を翻して心苦しいのですが、先ほど下さると仰せになった御褒美を所望しても宜しいでしょうか?」 「ん、気が変わったか。何が欲しい?何をして欲しい?」 「オルフェウスに弟子入りの入門試験を課そうと思うのですが、どのような試練がよろしいかお知恵を拝借できればと」 「何だ、そっちか」 「いいじゃないの、ヘカーテ。私達の勝手な都合を押しつけたんだし、『何だ』なんて言わないで気前良く御褒美あげましょ」 あからさまにがっかりした様子のヘカーテにベルセフォネーは明るく言って、わざとらしく声を潜めて付け足した。 「これは将来に備えた餌付けよ、餌付け。お望みのご褒美をあげて手なずけるのよ!」 「なるほど、そうか!」 「お二方、そう言うお話はもっと御内密にして頂けませぬか」 「ではタナトスよ、褒美にとっておきの情報をやろう。具体的にどのような試験を出すかはその情報をもとに自分で考えるが良い」 「とっておきの情報…ですか?」 「うむ。オルフェウスが今使っているあの竪琴は、奴の話を聞いたキュクロプス達が『タナトスの弟子になろうとするならばこのくらいの物がなくては』と言っ てわざわざ作ってやったものだ。ここ最近、神殿に閉じこもっていたお前は知らぬであろう?」 タナトスは素直に頷いた。 すっかり忘れていたが、オルフェウスが愛用していた竪琴はゼウスが星座にしたから彼の手元にはないのだった。新しい竪琴をどこからどうやって調達したの かなど考えもしなかったが…。 そうか、キュクロプス達が…。そう言えばここ最近彼らとはすっかり無沙汰だが、元気にしているだろうか…。………。 「オルフェウスよ」 神殿入口でまだ夢見る瞳で琴を奏でていたオルフェウスは頭上から降ってきた声に驚いて半ば飛びあがり、声の主を見るなり慌てて立ち上がって数歩下がって 傅き、深々と頭を垂れてからキラキラ輝く目を上げた。 「タナトス様!お久しぶりでございます、お目にかかれて嬉しいです!それで、あの…」 「ベルセフォネー様より話は伺った」 タナトスは半歩後ろでにこにこしている冥妃をちらりと見遣ってオルフェウスに視線を戻した。 ふーっと息をついて口を開く。 「正直、お前の諦めの悪さは予想外だった。加えて冥妃様のお心を動かすほどの熱心さを持っているのであれば、お前の弟子入り志願を受け入れてやってもよか ろうという気になった」 「本当ですか!?ありがとうござ…」 「ただし!」 喜びにぱぁっと顔を輝かせたオルフェウスの感謝の言葉を死神は有無を言わさぬ威圧感で遮った。 「無条件で人間の頼みを聞き届けるほど俺は甘い神ではない」 「タナトス様に弟子入りするだけの価値が僕に有るか否か、お試しになるという事ですか」 「察しが良いな」 死神は驚きに銀色の眼を僅かに見開き、浅く顎を引いた。 オルフェウスは先ほどまでの弾んだ表情が嘘のようにきゅっと顔を引き締めた。どのような試練を課されるのか、真剣な眼差しで銀色の神を見上げる。 タナトスはオルフェウスが抱える純白の竪琴を指差した。 「その竪琴は我が従兄弟のキュクロプス手製の品と聞いた」 「左様でございます。名高き冥界の鍛冶屋の皆様にお造り頂いた品のためにも、僕はどのような試練でも乗り越えて御覧に入れます」 「ふん…ハーデス様の課した試練も乗り越えられぬ者が大層な口を」 「同じ過ちは二度と繰り返しません、絶対に」 「………。キュクロプス達はこの冥界の遥かに地下深く、タルタロスに居を構えている。妻同伴でタルタロスに降りてキュクロプス達に会い、竪琴の礼を言って 帰って来るのだ。時間は十日与えよう。期限内にこの神殿まで戻ってこれたら弟子入りを認めてやって良い」 「承知致しました。僕の本気を分かって頂くためにも、僕のために竪琴を造ってくれたキュクロプス様達のためにも、僕のためにお言葉添えをしてくださった冥 妃様の御恩に報いるためにも、必ずや十日以内に戻って参ります」 真摯な瞳に強い決意を滲ませてオルフェウスは力強く頷いた。 オルフェウスがタルタロスに向かって十日目の夕方。 タナトスは神殿の入口に立っていた。 オルフェウスはまだ戻ってこない。 他の神々とも相談して十日の期限を与えたが、人間の足でタルタロスとエリシオンを往復するには少ない時間だったろうか。それともキュクロプス達に大歓迎 されて帰るに帰れなくなっているのだろうか。いや、時間制限があるのだから彼らが無駄に引きとめるとも思えないが…。 そんな事を考えている自分に気付き、タナトスは忌々しく舌打ちした。 オルフェウスが期限までに戻らなければ、神々の面目を立てた上で面倒な弟子入りなど認めずに済むのだ。むしろ願ったり叶ったりではないか。どうして俺は 奴の帰りを待ってやっているのだ? 死の神は神殿の入口に腰をおろして腕を組み、苛々と指で腕を叩いた。 オルフェウスの弟子入りを認めろと勧めたベルセフォネーも、結果を気にしているヒュプノスやハーデスも、人をからかうのが大好きなヘカーテも、今日に 限って姿すら見せない。 落ち着かない溜息を吐いて、彼は仏頂面で頬杖をついた。 …夜が更けてもオルフェウスはまだ戻ってこない。 まぁ、夜明けまでに戻ればギリギリ十日目の範囲に入れてやっても良い。だからさっさと戻ってこないか! タナトスは苛々と神殿の床を指で小突きながら弟子入り志願の人間を待ち続けた。 …そして。 十一日目の朝になっても、オルフェウスは戻ってこなかった。 ご立派な事を言っていたが、所詮は妻を取り戻す約束も守れぬ愚かな人間。期待などした自分が馬鹿だったのだ。 理由の分からない虚しさを悪態で埋めながらタナトスは神殿の奥に戻って行った。 寝台で横にはなったがどうにも気持ちが落ち付かず眠りにつく事が出来ない。 ヒュプノスの力でも借りるかと思った時、何重にも張り巡らせた薄衣を断りもなく開けてその弟神が無遠慮に部屋に入ってきた。 「タナトス。目は覚めているか?」 「入る前に声くらいかけろ、無礼者」 「ああ、それは悪かった」 「全く悪いと思っていないだろう。…で、何の用だ」 オルフェウスの話なら聞きたくないぞ。 言外に匂わせると、金色の神は分かっていると言いたげに目を細めた。 「珍しい客が来ているぞ」 「客?」 「ハーデス様もベルセフォネー様もヘカーテ様もオネイロイも歓迎に集まっている。来ていないのはお前だけだ」 「それは強制か?」 「冥王ご夫妻はお前が起きていたら連れて来いと。へカーテ様は叩き起こしてでも連れて来い、と仰せだったが…どうする?」 「………」 要するに強制なのだな。 タナトスは乱暴に体を起こして寝台から降りた。 冥界の神が総出で出迎えるほどの客ならば冥王臣下の自分が顔を出さない訳にはいくまい。 柔らかく微笑んで部屋を出るヒュプノスの後を、不機嫌な感情を抑えるように意識しながらタナトスは付いて行った。 神殿の入口で待っていた「珍しい客」の姿を見た途端、タナトスは自分が不機嫌だった事も忘れて目を丸くした。 長身の死神でさえ見上げるほどの巨大な体躯、額にはギョロリと大きな一つだけの眼。 双子神の従兄弟で幼馴染のキュクロプス達だった。 逆光に慣れた目で良く見れば、彼らの肩にはオルフェウスとエウリュディケが担がれている。 一つ目の巨人達は死神の登場に嬉しそうに腕を広げた。 「久しいな、タナトスよ。せっかくの午睡を邪魔してしまったか?」 「いや、そんなことはない…が、お前達がどうしてここに?」 「数日前に、お前に弟子入りしたがっていると噂の夫婦が我々を訪ねて来てな。聞けばお前に弟子入りするための試練を課されたとか」 「しかし彼らは相当疲れていたし、我々のところに来るだけで既に5日以上かかっていたらしい。このままでは期限に間に合わぬと思ってな、少しばかり手助け をしてやろうと思ったわけだ。ちょうどお前達の顔を見たいと思っていたしな!」 「この生真面目な男は我々の助力を最初は拒んだのだが…。困った時に機転を利かせられるか否かも試験のうちなのだろうと言ったら納得してくれた。お前の事 だ、人間とニンフが十日でタルタロスとエリシオンを往復できないことなど予測していたのだろうともな」 複雑に沈黙するタナトスの前に、お人好しの鍛冶屋達は詩人夫妻を降ろした。 オルフェウスは恭しく傅いて頭を垂れた。 「タナトス様。オルフェウス、只今御前に帰還致しました」 「ん……」 「それで、その…今日は何日目でしょうか?タルタロスでは時間の感覚が曖昧で…」 「………」 オルフェウスは不安げな顔でタナトスを見上げた。彼の隣ではエウリュディケが祈るような表情で見つめている。 冥界の神々は無言で柔らかく微笑み、キュクロプス達は期待に満ちた眼差しで死神の言葉を待っていた。 タナトスは細く長く息を吐いて。 「残念ながら、十日目だ」 ぶっきらぼうに告げた。 その言葉にオルフェウス夫妻はぱぁっと顔を輝かせ、キュクロプス達は歓声を上げた。 「ほ、ほ、本当ですか!正直もうダメかと思っていたのに、僕、間に合ったんですか!!」 「よかったよかった!」 「歓迎の宴などせずに全力で走ってきた甲斐があったというものだな!」 「おめでとう人間よ!タナトスの元、更に腕を磨くのだぞ!」 「はい!ありがとうございます!タナトス様、どうか今後ともよろしくお願いいたします!」 歓喜に身を震わせながら深々と頭を下げるオルフェウスがくすぐったくてたまらなくて目を逸らすと、傍らにいたヒュプノスと目が合った。 これで良いのか? 金色の眼差しの無言の問いに、僅かに口元を捻じ曲げて見せた。 ああ、良いのだろうよ。 …皆が、こんなに喜んでいるのだから。 ――その夜。 エリシオンでは華やかな宴が開かれていた。 オルフェウスの弟子入り記念、キュクロプス達の歓迎、翌日には地上に帰るベルセフォネーの送別会を同時開催しようというハーデスの提案だった。 タナトスとヒュプノスが竪琴と横笛の演奏を披露し、夢の神々は歌を歌い、ヘカーテが華麗な舞を見せ、ハーデスは『隠れ芸』と称してキュクロプスお手製の 兜で姿を消して見せた。 集まった皆は時を忘れるほど盛り上がり、宴を楽しんでいた。 夜も更けて宴もたけなわと言う頃、タナトスは少し離れた所から皆を眺めていた。 オルフェウスは飽きもせず竪琴を奏で、エウリュディケは夫に寄り添い、アルゲスとオネイロスはああでもないこうでもないと演奏に口を出し、ステロペスと ハーデスとモルペウスは酒を飲み交わしながら何やら盛り上がり、早々に酔い潰されたヒュプノスはヘカーテの膝枕で眠りこけ、イケロスとパンタソスはそんな 父を心配しながら起こす様子はなく、プロンテスに薄情者と笑いながら突っ込まれ何やら言い返している。 心にある何となくもやもやしたもの、それは何と言う言葉で表す感情なのか、掴みどころのない決して不快ではない想い、それは何なのか…ぼんやりと考えを 巡らせながら甘い果実酒を啜っていると。 「タナトス、楽しんでる?」 片手に杯、片手に酒瓶を持った冥妃がやってきた。 ええ、それなりに…と無難な言葉を返すと、彼女は隣に腰を降ろして曇りのない笑顔で口を開いた。 「今回はありがと。嬉しかったわ」 「…あの状況で本当の事は言えぬでしょう」 「うふふ、そういうことにしておきましょ」 「………」 「ねぇタナトス、私が以前あなたに『オルフェウスを弟子にしたら御褒美をあげる』って言ったこと覚えてる?」 「ええ、覚えておりますが。……?」 「明日には地上に帰るから、今のうちに御褒美をあげるわね」 「有難く頂戴いたします」 差し出された盃を恭しく受け取る。 注がれた酒の上に薄紅色の花弁が浮かび、冴え冴えとした夜の光が映り込んでなかなかに美しい。 なるほど粋な褒美だなと思いながら口をつけると。 「あなたが今感じているその気持ち、感情の名前を教えてあげる。それが、私からの御褒美」 「え?……」 「それはね、『嬉しい』って言うのよ」 「『嬉しい』…?」 「そう、『嬉しい』」 タナトスが鸚鵡返しに呟いた言葉を、ベルセフォネーは丁寧に繰り返した。 嬉しい、だと? この死を司る神の俺が、人間に対して『嬉しい』?? 戸惑い言葉を失うタナトスにベルセフォネーはにっこりと笑った。 「人間が喜ぶ姿を見て嬉しいって思うのは、神々にとって至極真っ当で常識的な事なのよ。人間が喜ぶ理由が自分の存在だったり、与えた何かだったりすると もっと嬉しいと感じる、それも当り前の事」 「………」 「私も今、喜んでいるオルフェウスを見て嬉しいって思ってるわ。私だけじゃない、ハーデスもヒュプノスもヘカーテもオネイロイもキュクロプスも、皆が嬉し いって思っているの」 タナトスは驚きで目を見張り神々を見遣った。誰も辛気臭い顔などしていない、心から楽しそうに笑っている。輝くほどの笑顔を振りまくオルフェウスを見て 笑っている。 とても、嬉しそうに。 ああ、そうか。そうなのか。 心を柔らかく満たす今まで知らなかった感情、心地よいこの想いは『嬉しい』と言う名前なのか。 タナトスは銀色の瞳を優しく眇めた。 「冥妃様」 「なーに?」 「俺も、嬉しいです」 皆が喜んでいる事が。 皆が笑顔でいる事が。 皆が嬉しいと思っている事が。 珍しく素直な心情を吐露したのはきっと、冥妃様おてづからの粋な酒のせいなのだろう。 ベルセフォネーは何も言わず柔らかく微笑んだ。 その優しさに感謝しながら花びらの浮かんだ酒を飲み干して、冷酷非情な死の神は心地よい感情に銀色の体をそっと委ねた…。 |
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| タナヒュプの兄弟漫才と、女神達の双子神いじりが書いててすっごい楽しかったです。特にヘカーテのタナトスいじり。双子神2012をかいてた時はこんな漫才やる予定は欠片も無かったのに…。 ベルセフォネーにとっての双子神は実兄に近い義兄みたいな存在。オリンポスの男神がアレなのばっかりなので、マトモな双子神のことが好きなのです。 |