| 魔犬ケルベロスが冥府の闇の中を飛ぶ。 その背には今回のお騒がせの当事者となった女神達が乗っている。 …オルフェウスがガチガチに緊張しながらお披露目したイルカのショーは予想以上に盛り上がった。ショーを見物していたニンフの誰かがハーデス神殿まで冥 王と双子神を呼びに行って、結局最後はタナトスがイルカに芸をさせ、観客の拍手喝采に少し前の不機嫌など忘れてしまったかのような得意気な笑顔を見せてい た。 アテナとアルテミスが地上に帰る時にタナトスとヒュプノスが見せた自然な笑顔にも、『また冥界に遊びに来て下さい』という言葉にも嘘は感じられず、処女神達は気持ち良く帰路につく事が出来た。 地上での別れ際、彼女達は『色々な意味で貴重な体験が出来た。大人の男性に大真面目に叱られるのは初めてだったから凄くこたえたけど、きちんと叱っても らえて良かったと思う。ベルセフォネーが今まで散々主張していた双子神の可愛い一面も見れたし、イルカの曲芸も最高だった』と満足げに微笑んでいた。 …処女神達を送り届けて冥界に帰ってきた頃には日は既に暮れていた。 ヘカーテは、さて…と呟いてタナトス神殿を見遣った。 「ヒュプノスも兄貴のところにいるだろうし、謝りに行くとするかな」 「ヘカーテ…あの、私も一緒に行こうか?今回の一件は私も共犯みたいなものだし」 真剣に心配そうな顔をするベルセフォネーに、ヘカーテはクスリと笑って片手を振った。 「気持ちだけ有難くもらっておくよ。奴らが腹を立てている相手はお前じゃなく私だからな、お前が一緒だと逆に話がややこしくなる」 「そっか。じゃあ、頑張って…って言うのは変かな。うまくいくといいわね」 「大丈夫、任せとけ」 …とは言ったものの。 ハーデスの神殿に帰るベルセフォネーの背中を見送ってヘカーテは浅く嘆息した。 軽い気持ちでおちょくったつもりだったが、タナトスは常になく腹を立ててしまったらしい。イルカの曲芸を皆に絶賛されて上機嫌の時にも、さりげなくヘカーテを避けていたし…。 どうしたものかな、と考える美貌の女神の頬をケルベロスがぺろりと舐めた。女神達を送り届けた仕事に対するご褒美を催促しているらしい。 「ああ、報酬か。すまないが今の私は手ぶらなんだ、神殿まで送ってくれれば奮発するが」 ヘカーテの言葉に魔犬は鼻面を擦りつけてペタリと伏せた。送っていくからご褒美を奮発してくれと言う事だろう。 ありがと、と言いながら魔犬の背に乗ったヘカーテはふと呟いた。 「モノで釣ると言うのもアリか…」 一方その頃、ヒュプノスはタナトス神殿の離宮で兄を相手にチェスの勝負をしていた。 神殿を尋ねたのはタナトスが無駄な結界を張らない理由を聞くためでもあったが(簡単に破られると分かっていて結界を張ったら、ヘカーテ様が機嫌を損ねて 拗ねたりふくれたりして余計面倒な事になるであろう?と言われてヒュプノスはあっさり納得した)、ヘカーテの訪問を予想したタナトスが同席を頼んだためで もある。 美貌の女神が死神をおちょくって怒らせるのはもはや日常茶飯事だが、今度ばかりは兄もすんなりと和解する気は無いらしい。 眉間に普段の三割増しくらいの皺を刻み、豪奢な長椅子のクッションに半ば寄りかかりタナトスは苛々と口を開いた。 「寝室に友人を連れて入りこむだけでも赦しがたいのに、何故そこで俺をおちょくるのだ。からかいたければ姫君達が帰った後でよかろう、何故あの場なのだ!」 「あの場でからかうのが効果的だと思ったのであろう。…色々な意味でな」 「とにかく!今日と言う今日は簡単に謝罪を受け入れる気は無いぞ!泣き落としにも色仕掛けにも引っかからぬからな!」 「………。そうか。で、お前が私に求める役割は何だ?」 つまり今までは泣き落としや色仕掛けに引っかかっていた訳か…とは思ったが。 うっかり指摘しようものなら兄の苛々の何割かが自分に向く事は十二分に分かっていたので、そこは触れずに自分の役どころを尋ねた。 「正直、俺だけではヘカーテ様に太刀打ちするのは無理だ。ウヤムヤと絡め捕られてなし崩しになるのが目に見えている故な、要所要所で援護して欲しいのだ」 「分かった、出来る範囲で協力しよう」 …チェスの勝負が中盤に差し掛かった頃、離宮の扉がノックされた。 「タナトス、いるか?私だが」 「…どうぞ」 「夜分すまぬな…と言うべきかな」 豪奢な扉から完璧な曲線を描く身体を滑り込ませてヘカーテは微笑んだ。 双子神の予想が正しければ謝罪目的の訪問のはずだが、相も変わらずの女王様オーラ満載のご登場だ。 それでも多少は後ろめたさがあるのか、一応タナトスに断った上で程々の距離を開けて彼の隣に座った。タナトスは物理的な意味の搦め手も警戒しているのか、長椅子から体を起こしてわざわざ自分とヘカーテの間にクッションを置いた。 ヒュプノスは手近な卓を引きよせて駒を落とさないようにそっとチェス盤を移動させた。ヘカーテが帰った後に勝負の続きをするためだ。 双子神の大袈裟な行動にヘカーテは肩をすくめて口を開いた。 「そんなに警戒せずとも良かろう?私は大真面目かつ誠実に謝罪に来たのだから」 「謝罪とおっしゃいますと、何に対してでしょう」 「お前達の午睡の最中にアテナとアルテミスを連れて無断訪問した事と、皆の前でタナトスをおちょくったことだ。本当に本気で悪かったと思っているのだぞ?…信じてもらえぬかもしれないが」 事務的なヒュプノスの質問にヘカーテはへこんだ顔で答えた。 反省している気持ちに嘘が無い事は信じるが、信じる事と赦す事は別だ…そう言いたげな顔でひたすら無言の兄をちらりと見てヒュプノスは兄弟を代表して口を開いた。 「無断訪問の件はハーデス様の取りなしで解決したと我々は認識しております。私もタナトスも既に腹を立ててはおりませぬ」 「そうか、それは一安心だ。私の軽率な行動でアテナやアルテミスにまで迷惑をかけるわけにはいかないからな。…そうなると私が謝罪して赦しを乞うべきはタナトスをからかった件か…」 「………」 タナトスは仏頂面でヘカーテから視線を逸らしたままだ。 すんなりと謝罪を受け入れる気はない、今回はそれくらい腹を立てているのだと言う意思表示だろう。謝罪の対象から外れたヒュプノスが席を外す様子が無いところを見ても、搦め手で攻めても弟神に阻止される可能性が高い。 …ここは直球で行くか。 方向性を決めたヘカーテは、死神との間にデンと置かれたクッションにしなだれかかって死神の顔を覗き込んだ。 「タナトス」 「何です」 「ごめんなさい」 「………。『もうしません』と続かないのですか」 「ん、アテナやアルテミスの前ではもうしない」 「俺をおちょくること自体を止める約束をしようとは思わぬのですか」 「私は出来ない事は約束しない主義だ。からかった時のお前の可愛さは捨てがたいからな」 「………」 ケロリと言い放った美貌の女神をタナトスはじろ、と睨んだ。 実力的にも格上の上司でなければ、女性であっても殴ってやるところだ…と握り締めた拳を長椅子にグリグリと押しつけた。 現時点では口の挟みようが無いヒュプノスはヘカーテの手の内を読み切れず沈黙するのみ。 色っぽい姿勢でクッションを抱き込んだまま、氷の女神は思案する仕草を見せた。 「…というわけであくまでも今日の一件について赦しを乞いたいのだが、言葉だけでは足りないだろう?何を付けたものかな。…お前の気が済むまで殴らせてやると言うのはどうだ?」 「俺が全力で殴ったところでヘカーテ様はビクともしないでしょう。むしろ俺が虚しくなります」 「蹴ってもいいが」 「同じです」 「じゃあ私が小宇宙をお前以下のレベルまで下げて…」 「そんなお情けは要りません!」 「じゃあ色仕掛け」 「飽きました」 「泣き落とし」 「ウザイです」 「逆切れ」 「出て行け」 「そう来たか…今日のお前は手強いな」 「当たり前です」 …何だか夫婦漫才の様相を呈してきたな。 突っ込みどころ満載の掛け合いを複雑な表情で聞きながらヒュプノスは思った。 ヘカーテがペースを握りつつあるが、彼女に巻き込まれないようタナトスもかなり頑張っている。それにヘカーテが直球勝負で来たせいで、参謀型ヒュプノスの出番は、今のところだが、全く無い。 意外な苦戦に、美貌の女神は浅く溜息をついて懐を探った。 「仕方ない、最後の手段だ」 「?」 「これを返すから手を打たないか?」 ヘカーテが差し出した物を見てタナトスだけでなくヒュプノスも目を丸くした。 掌に乗っていたのは、彼女が先日タナトスから半ば無理やり貰って行った巻貝だった。 その日の事は、タナトスも偶然その場に居合わせたヒュプノスもはっきりと覚えている。 部屋に飾ってある貝を見た瞬間に欲しくてたまらなくなったらしく、ヘカーテは貝を握り締めて『この巻貝、私が貰っていいだろう?いいよな!?』と目を輝かせてタナトスに詰め寄った。 無論、タナトスも最初は断った。自分が気に入って貰って来たものだし、ヘカーテは海の神々と浅からぬ縁があるのだし、海界に行って好みの貝を探してくればいいではないか…と、ご尤もな反論もした。 しかしヘカーテは引き下がらなかった。欲しい欲しいどうしても欲しい、私ひとり置き去りで海界に遊びに行ってお土産もくれなかったんだから貝の一個くらい良いではないか、女の頼みで貝の一つもプレゼントできないほどお前は小さい男ではないだろう、とゴネにゴネた。 タナトスも半ば意地になって氷女神の要求を突っぱねていたが、半べそ顔で拗ねるヘカーテを見兼ねたヒュプノスが『そこまで欲しいとおっしゃるのなら差し上げれば良いではないか。お前はイルカも貰ったのだから』と彼女の肩を持ち、タナトスは不承不承ながら折れた。 分かりました差し上げます、どうぞお持ちください…と、嘆息交じりにタナトスが言った時のヘカーテの喜びようと言ったらなかった。 貝を抱きしめて大はしゃぎして、タナトスに抱きついてキスをしてありがとうありがとうと何度も礼を言って、満面の笑みで貝に頬ずりして、弾むような足取りで神殿に帰って行った。 あそこまで喜んでくれるのなら奪われ甲斐があったというものか…と、タナトスは貝を強奪されたことすら忘れかけていたのだ。 見れば、ヘカーテは名残惜しそうな目で巻貝を見つめている。 …本当は返したくないが、和解のためなら手放すのもやむなしと思ったと言う事か。 タナトスは内心で溜息をついた。 確かに気に入って貰って来たものではあるが、一度女性に『プレゼント』したものを取り返すというのは(ヘカーテの喜ぶ姿を覚えているだけに)流石に気が引けた。どうのこうの言って彼は根は優しいのである。 タナトスは貝から視線を外してぶすっと答えた。 「…お断りします」 「え」 「俺から奪って行った物を返されてもプラスマイナスゼロではありませぬか。それに、ヘカーテ様がその貝をお気に入りなことも良く存じております。そんな物を返されても始末に困ります。お持ち帰り下さい」 「………」 ヘカーテは微妙な顔で差し出した巻貝を引っ込めた。 お気に入りの貝を手放さずに済んだのは嬉しいが、タナトスが自分を許していないと言う状況に何ら変化はなくどうしたものかと考えているのだろう。 …しばらくの沈黙の後、ヘカーテが口を開いた。 「じゃあ、ラッコはどうだ?」 「は?」 「ラッコを調達するからそれで手を打たぬか?」 「…ラッコとは何です」 「海に住むカワウソの仲間だ。お前が私の謝罪を受け入れてくれるなら、旧知の海の神に頼んでラッコを分けてもらってくる」 「………」 動物好きのタナトスの表情が動いた。 ぐらり、と心が揺れたのが手に取るように分かるが現時点では何も言えず、ヒュプノスは歯痒い思いで様子を見守るしかできなかった。 タナトスは好奇心を隠しきれない目で尋ねた。 「その、ラッコとはどのような外見の動物なのです?カワウソに似ているのですか?」 「まぁそれなりにな。…言葉で伝えるのは難しいな、何か描くものはないか?」 紙とペンを渡されたヘカーテはなかなか絵ごころのあるラッコを描いてタナトスに差し出した。 紙を受け取った死神は食い入るように絵を見つめている。 手ごたえを感じたらしいヘカーテが更に畳みかけた。 「ラッコはな、潮に流されないようにコンブ…海藻を身体に巻きつけて寝るんだ。水槽で飼っていても、コンブを入れれば巻き付けて寝るぞ。それから綺麗好きだから猫のように毛づくろいもする」 「………」 「餌は魚や貝だが、貝を食べる時は腹の上に貝を乗せて、別の貝を手に持って、こう…コンコンコン!と叩きつけて割って食べるんだ。その可愛らしさと言ったら、言葉や絵で伝えられるものではないぞ」 「………」 タナトスはバリケード用に置いたクッションに身を乗り出すようにしてヘカーテの話を聞いている。 美貌の女神は最後のひと押しとばかりに最大の殺し文句を囁いた。 「雄と雌とセットで調達するから、赤ちゃんラッコが生まれる楽しみもあるぞ」 「………!!」 「どうだタナトス、ラッコで今回の事は赦してくれないか?な?」 ヘカーテは懇願するようにタナトスを見つめて彼のローブの胸元を可愛らしい仕草で摘まんだ。 思わず頷きかけたタナトスはヒュプノスを見遣った。 「…ヘカーテ様はこうおっしゃるが、お前はどう思う?」 「どうと言われても。私が『お前は物で釣られるのか』と苦言を呈したところで、ラッコ提供を条件に和解するのだろう?」 「う…まぁ、それは…ほら、あれだ、ヘカーテ様の反省のお気持ちに嘘は無いと言う事は良く分かった故な、きちんと謝罪されているのに受け入れぬと言うのも…」 「お前の気持ちが決まっているならば好きにするが良い。ただし、何かトラブルがあっても『何故あの時反対しなかった』などと私に文句を言うなよ」 どんなトラブルがあるのかと怪訝そうな顔をする兄にヒュプノスは淡々と告げた。 「ヘカーテ様が旧知の神に頼むとはいえ、一両日中にラッコを調達するなど無理であろう。ラッコが到着するまでの間にお前がヘカーテ様と諍いを起こさぬとは限らぬ」 「だから?」 「その時、ヘカーテ様に『お前が折れぬのならラッコの話は白紙にしてやる』と言われたらどうするつもりかと思ってな」 「………」 弟の尤もな指摘にタナトスは言葉に詰まったが。 普段なら余裕綽々の態度で『ラッコ到着までの間はお前をからかい放題だな』くらいのことを言い放つヘカーテがひしゃげた顔で俯いたまま黙っているのを見て、これ以上和解を引っ張るのは気の毒な気がしてきた。 ヒュプノスも概ね似たような感想を持ったのだろう、少々言いすぎたかと気まずそうな顔をしている。 …タナトスはバリケードにしていたクッションをどけるとヘカーテを抱き寄せるようにして、巻貝を握り締めたままの手を恭しく取った。 「ではヘカーテ様、取引と行きませぬか」 「取引?」 「ラッコが到着するまで、ヘカーテ様ご執心のこの巻貝を『人質』として俺が預かります。ヘカーテ様にはラッコの件を忘れぬようそこに置いてある人形を一つお持ちいただいて暫定和解としましょう。そしてラッコが到着したら貝をお返しすると言う事で如何でしょう?」 「………」 「異議は?」 「…ん、ない」 短く答えてヘカーテは唇を柔らかく綻ばせた。 こんな事でもなければお目にかかれない、少女のような可愛らしい笑顔。この笑顔に騙されて彼女を赦してはまた数日後に痛い目を見て、次は騙されないぞと何度心に誓ったことか。 きっとまた数日後に彼女におちょくられて腹を立てる羽目になるのだろう、と双子神は微かに苦笑した。 その苦笑の意味するところを察したのかヘカーテはバツが悪そうな顔になって、ふと身体を伸ばしてタナトスに口付けた。 「………」 「ありがとう、タナトス。お前は優しいな、やっぱり私はお前が好きだぞ」 「それは…どうも」 「あ、勿論ヒュプノスの事も好きだからな」 「ついでのように言われても嬉しさ半減ですが」 ヒュプノスが穏やかな笑みを浮かべて答えると、ヘカーテはにこりと笑って、さて…と身体を起こした。 「暫定だがタナトスとの和解も成立したし、私はこの辺で」 「え…お帰りですか?」 「いくらお前との和解のためとはいえ、目の前で山になっている仕事をほったらかして海界に行くわけにはいかないからな。それでなくとも今日はハーデスに仕事を押しつけてしまったし、少しでも片付けておかないと」 意外そうな顔のタナトスの質問に、ヘカーテは至ってまともな言葉を返してきた。普段なら『帰って欲しくないのか?それなら朝まで付き合うぞ』くらい言うのに…とヒュプノスも意外そうな顔をしている。 「それに今日はお前達の午睡を邪魔した上にチェスの勝負まで邪魔したようだからな。これ以上兄弟水入らずの時間を邪魔しては悪いだろう。…あ、ゲームはお前が勝つ方に賭けておくぞ」 「はぁ…」 曖昧な生返事をする兄の手がまだヘカーテの腰を抱いたままだということに、ヒュプノスはちゃんと気付いていた。 珍しくおとなしい美貌の女神をこのまま帰すのが勿体なく思えてきたのだろう。 …馬鹿兄貴が。 内心で呟いてヒュプノスは椅子から立ち上がった。 怪訝そうな顔をするヘカーテに真意の見えない微笑を見せる。 「ハーデス様に呼ばれておりますので私はこれで失礼します。…そうなると確かにチェスはタナトスの不戦勝ですね」 「ハーデスが?お前だけを?」 「ええ。タナトスとヘカーテ様の和解がどうなったか結果が出たら報告に来いと。一番公平な見解を報告できるのが私だとお考えなのでしょう」 ハーデスに呼ばれているなど無論大嘘、ヘカーテを帰したくないらしい兄の為の方便だ。 弟の配慮を薄々察したのか、ヒュプノスの言葉が嘘だと見抜いているはずのタナトスは口を噤んだままだ。 ヘカーテは椅子から立ち上がりかけた中途半端な姿勢で固まっている。 仕事をするならハーデス神殿に行かねばならないが、ヒュプノスが報告に向かうなら時間をずらした方がいいだろうか…そんな事を考えているような顔だ。 さりげなくヘカーテを抱き寄せながらタナトスは言った。 「ではヘカーテ様、ヒュプノスの後を継いで俺とチェスで勝負して頂けませぬか?」 「…ふむ。ヒュプノスが報告を終えて帰ってくるまでの時間潰しには丁度良いか」 ヘカーテが納得したように椅子に座り直すと、タナトスが勝負途中のチェス盤を引き寄せて椅子の上に置いた。一手先すら考えずに直感で駒を動かすタナトス と、先の先のそのまた先まで読んで駒を動かすヒュプノスの勝負は全く先の展開が読めない。中盤に差し掛かっていたらしい盤面をしげしげ見たヘカーテは何と も言えない困った顔になった。 眠りの神がどんな策を弄して駒を配置したのかさっぱり分からない。ついでに死神の策もさっぱり分からない。いや、策など無い事が分かると言うべきか。 「うーん、これは…」 「私はヘカーテ様の勝利に明日のティータイムのおやつを賭けますよ」 「え?ちょ、ヒュプノス、そんなプレッシャーをかけて行くな!」 「それでは私はこれで」 美貌の女神にあくまでも爽やかな笑顔を見せて、ヒュプノスは兄の離宮を出た。 …後ろ手に扉を閉めると同時に深々と溜息をついて、金の神は心底本音で呟いた。 「…馬鹿兄貴が」 ……… 意識は半分覚醒しているが、身体はまだ眠っている…そんな状態だった。 髪が梳かれ、優しい手が頬に触れた。 少し遅れて額に口付けが落とされる。続いて頬に。 懐かしい感覚だった。 幼い頃、母や姉がこうしてくれた気がする。 …唇に甘く口付けされて、微かな息苦しさを感じてタナトスは睫毛を震わせ目を開けた。 「漸くお目覚めか。もう良い時間だぞ、タナトス。ヒュプノスが叩き起こしに来ないのが不思議なくらいだ」 「………。ヘカーテ、様」 目にかかる銀色の髪を払って視界に映った美貌の女神の名を呟く。 彼女はタナトスの隣に身体を横たえたまま、肘で上体を支えた姿勢で目を細めた。 普段は結い上げている髪を降ろしているだけで随分と受ける印象が違う。藤色の髪が華奢な肩を包んでいる。その肩や鎖骨の柔らかな線が美しいと思ったが、素直な感想は告げずに別の言葉を口にした。 「てっきりもうお帰りになったものかと」 「ん。私も目が覚めた時に帰ろうかと思ったのだが」 ヘカーテが小首を傾げると、藤色の髪がさらさらとタナトスの頬に流れ落ちた。 「部屋に結界が張ってあったのでな、『黙って帰るな』という意思表示かと」 「…あれは『立ち入り禁止』の意思表示ですよ」 分かっていて言っているでしょう? 目顔で尋ねると、分かっていて言っているとしか思えない言葉が悪戯っぽい笑みと共に返ってきた。 「つまり何か?私がとっくに帰っていることを期待していたのに、目が覚めたらまだ隣にいたからがっかりしたと、お前はそう言いたいのか?」 「残念ながら違います。むしろ正反対です」 「ふうん?」 ヘカーテの期待に満ちた眼差しの意味を正しく理解したタナトスは、銀色の眼を眇めて柔らかに極上の笑みを浮かべた。 「目が覚めたら無くなっていると思ったものがまだそこにあったら、嬉しくなるでしょう?」 彼女の望む言葉を甘く囁いた死の神は、美貌の女神の柔らかな肌をそっと抱き寄せた。 |
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色々と悩みつつ、蛇足の最後にちょっと甘めのシーンを入れたくて、書いては消し書いては消ししていたら例によってゴムバンドのごとく伸びまくる蛇足その1
です。タナトスとヘカーテの掛け合いは書いてて一番楽しかったシーンかもしれない。 最後のちょい甘い?部分を入れたくて作った蛇足です。何に遠慮したのか我ながら控えめな表現におさまったなぁと思いつつ、この程度のぼかし具合でちょうどいいのかもとも思ったり。 ヘカーテとタナトスの和解部分は書いては消し書いては消し。「アテナやアルテミスの前ではもう悪戯しない」理由を聞かれて、 ヘカーテ 「双子神の寝顔を見ていた時のアテナやアルテミスの反応が予想外に良くて、彼女達が双子神に本気で惚れたら嫌だから」 双子神 「彼女達は処女神ではないですか」 ヘカーテ 「アテナはともかくアルテミスは処女神を返上するかもしれない。つまり焼き餅だよ、言わせるな恥ずかしい」 的な会話を入れようかと思って話がうまく繋がらなくてさんざん悩んで没に。そしていつの間にかタナトスが動物好きキャラに…。 ちなみにアルテミスが処女神を返上するかもしれない理由→アルテミスは人間の狩人オリオンに恋をして、処女神を返上することを考えていた(が、後に姉を 溺愛するアポロンの策略により自らの手でオリオンを殺してしまう。この一件は、アスクレピオスの死者蘇生・アポロンによるキュクロプスの殺害・ヘラクレス 絡みのタナトスの受難など、様々な事件の元凶になった)。 |