| …神話の時代。 珍しくヒュプノス神殿を訪れたタナトスは、窓際に置いた卓に着き、組んだ手に顎を載せて真剣に何かを悩んでいる弟の姿に首を傾げた。 オリンポスの女神パシテアとの「遠距離恋愛」も無難すぎるほど無難に問題なく続いているし、これと言ってヒュプノスが頭を悩ませる問題もないはずだが…。 気になると我慢できないタナトスは、つかつかと弟に近づいて単刀直入に尋ねた。 「ヒュプノスよ。何を悩んでいるのだ。パシテアと喧嘩でもしたのか?」 「………。ああ、タナトスか。パシテアは関係ない…いや、ある意味関係あるか…あるから悩んでいるとも言える…」 「何があった?」 卓を挟んでヒュプノスの反対側に腰を降ろし、弟の返答はほとんど無視して本題を尋ねた。 眠りの神は眉間に皺を寄せたままボソリと答えた。 「正妃ヘラ様から大神ゼウスを眠らせてくれと頼まれたのだ」 「以前あれほど大変な事になったというのに、またそんな事を頼んできたのか?」 ヒュプノスが頷いた。 …以前、ヘラクレスを手助けしたい女神ヘラに依頼され、ヒュプノスが大神ゼウスを眠らせた事があった。妻に嵌められたことに気づいたゼウスは怒りの矛先 をヒュプノスに向け、彼を厳しく罰しようとした。それを知ったヒュプノスは早々にオリンポスから逃げ出したが、怒りの収まらぬゼウスは執拗に彼を追いか け、本気で身の危険を感じたヒュプノスは母である夜と仲裁の女神ニュクスに助けを求めたのだ。流石の大神ゼウスも偉大な祖母の妹神を相手に喧嘩を売るよう な真似は出来ず、渋々ながらヒュプノスを罰する事を諦め引き下がった…という事の顛末をヘラが知らないはずはないが…。 何か引っかかるものを感じながらタナトスは少し違う疑問を口にした。 「…で、お前は何を悩んでいるのだ。角の立たない断り文句か?それとも依頼を引き受けるか断るかか?」 「引き受けるか否か、だ」 「あれだけ散々な目に遭いながらも悩むと言う事は、ヘラ様の依頼に関して何か条件を出されたか。…パシテア絡みの」 「そうだ」 「依頼を拒否したらパシテアとの交際は認めぬ、とかか?」 「逆だ」 「逆?」 「依頼を引き受ければパシテアを私の妻にしてやる、と言われた」 「ん?………」 タナトスは腕を組み考え込んだ。 何か、今、一連の疑問というか違和感をすっきり解決する答えが見えかけた気がしたのだが…。 手が届きそうで僅かに届かないもどかしさを感じながら死神は質問を重ねた。 「依頼を受ければパシテアを妻として娶れるのであろう?何を悩む事があるのだ。大神ゼウスを怒らせるリスクを差し引いても十分な報酬だと思うが」 「私とヘラ様の間で縁談を纏めてしまって良いものだろうかと…。パシテアは私を好いてくれていると思うが、妻になっても良いとまで思っているかどうかは分からぬ故、彼女の意向を無視して話を進めるのは…」 「………」 タナトスは弟神の言葉と今までに出てきた事実を頭の中で反芻した。 ヒュプノスが大神ゼウスを眠らせた結果、大変な騒ぎになった事を女王ヘラは知っている。 それなのにヒュプノスに同じ案件を依頼してきた。 女神パシテアは大神ゼウスと女王ヘラの娘だ。 ヒュプノスとパシテアの交際は無難過ぎるほど無難で全く問題ない。パシテアの身分に気を使って控え目に交際を続けるヒュプノスが問題なほどだ。 ヘラは結婚を司る女神だ。 大神ゼウスは夜の一族と波風立てずにやっていきたいと考えている節がある。 …いくつかのパーツがすっきりと納得できるひとつの答えを導き出して、タナトスは優柔不断な弟の背中を力いっぱい押すことにした。 「ヒュプノスよ。今回の一件、恐らく大神ゼウスもパシテアも承知だ。安心して依頼を受けて報酬を受け取るが良い」 「な…何を根拠に?」 「相変わらずお前は、難しく考えるあまり目の前の事実を見落とす奴よな。いいか?ヘラ様は結婚を司る女神だぞ。そのヘラ様が、自分の娘の意思も確認せずに 縁談を報酬として出してくると思うか?娘の意思を確認せずに縁談を進めて大失敗してみろ、結婚の女神のメンツ丸潰れではないか。しかも相手は冥王ハーデス 直近の臣下で夜の一族の次兄だぞ、破談になった時に周囲に与える悪影響は計りしれぬ。いくら大神ゼウスの正妻ヘラとはいえ、独断でそこまでのリスクは冒せ まい。そう考えると、煮え切らぬお前に業を煮やしたゼウス夫妻とパシテアが、お前の本気度を測るのを兼ねて舞台を用意したと考えるのが妥当であろう?」 「………」 タナトスの言葉にヒュプノスはただ絶句して眼を見開いた。 言われてみれば確かにそうだ。結婚の女神ヘラが、自分の娘が不幸になるかもしれない結婚話を進めるなど有り得ない。 兄神は得意げに言葉を続けた。 「それに、大神ゼウスは夜の一族を必要以上に警戒している。政略結婚的な意図があるとまでは言わぬが、夜の一族の次兄が娘婿となれば、ひとつの安心材料に なるであろう。娘を通して冥界の動向をさりげなく探れるし…ああ、探るという言葉は不適切か…あまり大地の一族と関わりたがらぬ夜の一族と交流するきっか けになる、と言おうか。そうすると、お前とパシテアの結婚を機に冥界の神々と親しくなって懐柔しておこう、万一にも反乱など起こされないように…という大 神ゼウスの意図が見えてこぬか?」 「ああ…」 ヒュプノスは感嘆のため息を漏らして兄神を見つめた。 この数日間、己を悩ませた問題にあっさりと『答え』を出してしまうとは。 タナトスは屈託のない笑みを見せた。 「だからヒュプノスよ。『パシテアを妻に娶るための試練を受けてくる』と皆に宣言して、堂々と大神ゼウスを眠らせに行くが良い。予め話を大きくしておけば、大神ゼウスがお前に対して罰も与えず娘との結婚を認める展開に説得力が出る故な」 「……お前と言う奴は…」 しかめっ面をしたいのにうまく出来ず、ヒュプノスは半端な泣き笑いのような顔で兄を見た。 「その言葉…信用するぞ、タナトスよ。依頼を受けたは良いが大神ゼウスが怒ったその時は、きっちり責任を取ってもらうからな」 「俺はタルタロスの母上の神殿で事の次第を見守っているからな、失敗したらパシテアを連れて逃げてくるが良い。一緒に母上の後ろに隠れてやるぞ」 「…それは頼もしい」 今度こそ間違えようのない笑顔を浮かべて、ヒュプノスは立ち上がった。 愛する女神を妻として迎えに行くために。 |
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| WEB拍手お礼用SSの、10回目専用に書いた話です。拍手に置いていた時は『死神がキューピッド』というアレなタイトルでした(苦笑)。 最後の『一緒に母上の後ろに隠れてやるぞ』というセリフがお気に入りの1本です。 |