双子神・神話時代 …知将…
EPISODE 7

 死の神タナトスと眠りの神ヒュプノスは、豪華な寝台に横たわり弱々しい呼吸を繰り返す男の傍らに静かに佇んでいた。
 侍女や衛兵が遠巻きに銀と金の神の姿を見ている。
 タナトスは静かに老人に言葉を落とした。

「この俺を覚えているな、シジフォス」
「………」
「全くお前は、人間でありながら大それたことを為したものよ。死を拒みたい一心で神である俺を拘束するなど…。おかげで死者を迎えに行く時はヒュプノスを同伴せよとハーデス様がご命令になる始末だ」
「………」
「さぁ、シジフォス。時が来たぞ」

 タナトスの言葉を受けたヒュプノスが懐から取り出した木の枝でシジフォスの額に触れた。
 苦しげな呼吸が穏やかになり、間隔が開き、そしてゆっくりと静かに止まった。
 タナトスは銀の短剣でシジフォスの髪を一房切り取った。

「では行くか、シジフォスよ。冥府の神々がお前が来るのを今か今かと待っているぞ」

 気を失うほど清廉で美しい笑みを浮かべて銀の神はシジフォスに言葉をかけた。




 …死者となり魂だけになれば、寿命が尽きた時の姿ではなく自身が最も充実していた時の姿になるのだろうか。いや、これは死の神を騙して拘束した時の姿だろうか。
 ジュデッカの窓に映る自身の姿を見てシジフォスは思った。
 平伏して冥王の登場を待っていたシジフォスは、玉座に主が座る気配を感じて顔を上げ、目を見開いた。
 玉座に冥王ハーデス、その傍らに冥妃ベルセフォネー、更にその両隣には双子神と夢の四神、月と氷の女神ヘカーテまでが同席している。
 神々が底の見えない笑みを浮かべているのを見てシジフォスは漸く恐怖を覚えた。
 妻に葬儀を上げるよう頼みに行く、と言って地上に戻ってしばらくは、いつ冥府に引きずり戻されるかと戦々恐々だった。しかし冥府やオリンポスの使いが彼 を冥府に引っ立てる事は無く、タナトスがコリントスの使者を迎えに来る時もシジフォスに何か言う事も無かったので、事情は分からないが自分の犯した罪は不 問になったのだろうなどと楽観的に考えていたのだが…。
 冥王は柔和な顔に穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。

「久しいな、シジフォスよ。そなたがモイライの与えた寿命を生き切って冥府に来る日を、我々は心待ちにしておったぞ」
「は、は……」
「余が敬愛する大事な兄であるタナトスに為した無礼、そして余と妃を謀った無礼、よもや忘れてはおるまいな?」
「あ…兄?」
「あら、知らなかった?ハーデスはね、タナトスとヒュプノスを『兄上』って呼んでそりゃあもう大事にして慕って甘えてるのよ」
「つまりお前は、冥界で一番喧嘩を売ってはならない相手に喧嘩を売ってしまったわけだ。良かったなぁ、コリントスのシジフォスは歴史に名を残す王になれるぞ。神を冒涜した愚か者としてな」
「………」

 女神達の言葉にシジフォスの顔が真っ青になった。神々を欺いて地上に戻った自分が連れ戻されなかったのは、自分の罪を動かぬものにするために泳がされていただけだと気付いたからだった。
 神を冒涜した罪で終わらない罰を与えられた人間の噂は聞いていたが、まさかそれが事実で、自分がその罰を受けることになろうとは。
 ハーデスはあくまでも柔らかな笑みを浮かべたまま言葉を続けた。

「そなたの罪状は改めて読み上げるまでもなかろう。コリントスの王シジフォスよ、そなたにはタルタロスでの贖罪を命じる」
「タ…タルタロス…」
「この数十年、そなたにはタルタロスのどこでどのような罰を与えるか我々は相談を重ね、相応しい場所と罰を用意した。光栄に思うが良いシジフォス。我々がそなたの為に用意した場所に連れて行ってやろう」
「………」

 恐怖で竦み上がって声も出せず立ち上がる事も出来ないシジフォスに、イケロスとモルペウスが歩み寄ると両腕を掴んで立たせた。
 では行くか、と玉座からハーデスが立ち上がり、妃を伴ってジュデッカを出て行く。その後ろに双子神とふたりの間に挟まったヘカーテが続き、シジフォスを引きずるようにして夢の四神が追った。




 神々に囲まれて竦み上がったままタルタロスの入口に連行されて来たシジフォスは、巨大な魔犬や怪鳥の姿に腰を抜かすほど驚いた。
 ケルベロス、グリフォン、ガルーダ、ワイバーン…奈落タルタロスに棲む魔物達だ。
 ハーデス夫妻はグリフォンに、双子神とヘカーテはケルベロスに、オネイロスとモルペウスはワイバーンに、イケロスとパンタソスはガルーダ に乗った。ただうろたえるばかりのシジフォスの襟首を三つ頭の巨大な魔犬が咥えると、ケルベロスを先頭に神々を乗せた魔物達は奈落の闇空に飛び立った。




 風を切る音が大きい。魔犬の息が首筋に当たるたびに背筋がぞくりと震える。眼下に広がるのは闇と無限の地獄。地に足がつかない恐怖に身体はがくがくと震え、もしケルベロスが自分を離したらどうなるのかなど考えることすら恐ろしい。
 そんなシジフォスの怯えに気付かないはずは無いだろうに、タルタロスで終わらない贖罪を続ける人間を見つけては、タナトスは逐一足を止めては実に楽しそ うに彼らの解説をしてくれた。他の神々も彼のそんな『寄り道』を咎めるどころかにこにこしながら解説に耳を傾け、他愛もないおしゃべりをしている。
 襟首を咥えたケルベロスの唾液が背中に流れ込み肌を焼き、シジフォスは苦悶の声を漏らしたが、神々は素知らぬ顔でやれあの罪人はこの罪人はと楽しそうに話をしながら至ってのんびりと奈落の空を飛んだ。
 どんな罰でも甘んじて受けるからいい加減に地面に降りたい。さもないと頭がおかしくなりそうだ。
 シジフォスが両手で頭を抱えた時、頭上からタナトスの声がした。

「さぁシジフォス、あそこがお前の為に用意した贖罪の場所だ。あの場所を選んで下さった冥妃様のお慈悲に感謝するのだぞ」
「………?」

 銀の神が指差す先には小高い山があり、そこからふと視線を動かすと、鬼が回す焼き串に身体を拘束されて炎に炙られている人間が見えた。
 鬼が串を回した時、炙られている人間の顔が見えてシジフォスは驚愕に目を見開いた。

「サルモネウス!?」

 それは、シジフォスを差し置いてテッサリアの王になったサルモネウス…シジフォスの実の弟だった。
 身を焼かれ立ち込める煙に咽せて涙を流すその男がシジフォスに気付いた。

「シジフォス兄上?何故ここに!?」
「お前こそ何故ここに!」
「フ…兄は大神と冥王を欺き、弟はゼウスを名乗り大神の真似をし、神の逆鱗に触れてタルタロスに堕とされる…流石は兄弟だな。見事なまでの愚か者ぶりだ」
「祖父、父、息子と三代にわたってタルタロスで罰を受けているあの連中には負けるがな」
「いやいやヘカーテ様。やらかした事の大きさでは明らかにこの兄弟が上でしょう。与えられた罰の重さも段違いでこちらが上です」
「シジフォスよ。罰を受けるならひとりより兄弟の方が良いだろうというベルセフォネーの心遣い、感謝するのだぞ?」

 思わぬ『兄弟との再会』に引き攣る兄弟に笑顔を見せながら、神々は山の麓に降り立った。
 ケルベロスにぞんざいに地面に落とされて強か腰を打ったシジフォスがぎくしゃくと立ち上がると、満面の笑みを浮かべたタナトスが魔犬から降りて来た。乱暴に彼の襟首を掴んで立たせると山の麓に置かれた岩を顎でしゃくった。

「見ろ、あれがお前の贖罪の道具だ」
「………岩…?」
「有難く思うが良い、シジフォス。他の罪人どもと違って、お前は罪を償えばここから出て新たな命と運命を与えられるのだ」
「え!」

 怯えきっていたシジフォスは死神の言葉にパッと顔を輝かせた。
 今度こそ本心から神への感謝と賛辞を口にする罪人に冷たい含み笑いを見せて、タナトスはシジフォスを岩の前に連れて行った。他の神々も笑みを浮かべたまま後に続く。
 タナトスは山の頂上を指差した。

「あの山の頂上は僅かにへこんでいる。この岩をあの山の頂上まで押し上げて、そのへこみに落とし込めばそれで良い」
「え?この岩を、あの山の頂上まで運べば私は罪を償ったことになるのですか?」
「その通りだ。実に寛大な処罰であろう?」
「え、ええ!神々のお慈悲に心より感謝いたします!」

 何だ、たったそれだけで赦されるのか。
 山の頂上に岩を押し上げるのは大変だが、鎖に繋がれて飢えや乾きに苦しんだり、禿鷹に内臓を喰われたり、鬼に火炙りにされる事を考えれば嘘のような生ぬるい罰だ。
 神々の冷ややかな微笑の意味を疑問に思う事すらなく、シジフォスはイケロスとパンタソスが持って来た手枷と足枷を大人しく填めていそいそと大岩に手をかけた。

「あ…あの、もしも、最初の一回で岩を頂上のくぼみに入れる事が出来たら、私は解放されるのでしょうか?」
「無論だ。その可能性も十分にありうる故な、我々はしばらくここでお前を見物しているぞ」
「はい!私の反省の気持ちに嘘がない事、御覧に入れます!」

 シジフォスは自分の体よりも大きな岩を全力で押した。
 ごろりと動いた岩を必死に山の上へと転がり上げる。歯を食いしばり、足を踏ん張り、手を突っ張って頂上を目指す。
 …頂上はすぐそこだ。
 タナトスが言う僅かなくぼみとやらに岩を嵌めようとした次の瞬間。
 ごろん、ごろごろごろん!!
 必死に頂上まで押し上げた大岩は、くぼみを通り越して反対側に転がり落ちてしまった。

「何をしている、シジフォス?反対側に転がって行ったではないか」
「惜しかったなぁ、じゃあもう一回挑戦するか!」
「もうちょっと見物しててやるから頑張れよー」

 神々の声にシジフォスは急いで山の反対側に走り、もう一度岩を頂上に運び始めた。
 先ほどは頂上まで来たと思って油断してしまった、今度は慎重に…そう思って丁寧に運んだ岩は、またしても頂上のくぼみに嵌める寸前で山の反対側に転がり落ちてしまった。
 …ひょっとしてこの岩は、決して頂上に押し上げる事は出来ないのでは…。
 だとしたら、『寛大すぎる罰』も神々の意味深な笑みも全て説明がつく。
 脳裏をよぎった恐ろしい考えを慌てて振り払い、シジフォスは三度岩に挑み始めた。




 …タルタロスに連れて来られてどれほどの時がたったのか。
 自分は一体何度、大岩を山の頂上寸前まで運んだのか。
 山から転がり落ちた岩に両手をついて、シジフォスはぜいぜいと荒い息を吐きながら絶望の色に染まった眼で岩を見つめた。
 皮膚が裂け、爪が割れ、関節が悲鳴を上げても休む事は許されない。何故なら。

「兄上!何をのんびり休んでいるのだ!あと少しで頂上に岩を運べたではないか!怠けるな、働け!!」

 近くで永劫の罰を受けている弟サルモネウスの怒声と同時に天から落ちて来た雷がシジフォスを襲った。
 最早悲鳴を上げる体力も気力もない。
 痺れ、震える手足を叱咤してシジフォスは終わらない苦行を再開した。
 …あれは一体いつのことだったか。
 無駄な努力を繰り返すシジフォスを冷ややかな笑みを浮かべて眺めていた死の神は、贖罪の場を立ち去る前に炎に炙られているサルモネウスにこう言った。

『シジフォスが岩を頂上に押し上げ罪を償ったその時は、兄弟のよしみでお前も一緒に開放してやろう。ただし条件がある。シジフォスが贖罪を怠けたその時はお前が神に代わって罰を与えるのだ』

 死神の甘い囁きを聞いたサルモネウスは、僅かな希望に縋りつき、一時の休息すら見逃さぬほどにシジフォスを急きたてた。
 …本当は二人とも分かっているのだ。
 神々を軽んじ、謀り、冒涜した罪は永遠に償う事は出来ないのだと。
 目の前に吊るされた希望に手が届く日は永遠に来ないのだと。
 それでも手を伸ばさずにはいられない、足掻かずにはいられない人間の姿を神々は嘲笑っているのだと…。




 この愚かな兄弟の事を冥界の神々は酒の肴に面白おかしく語り、永遠に終わらない兄弟の贖罪はオリンポスの神々を通していつしか人間に伝わり、皮肉にもシジフォス王は『果てない徒労』を意味する『シジフォスの岩』と言う格言の中に己の名を残すことになった…。

END


星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達


  ここで終わったら唐突過ぎるかなぁ、と思ったのですが、どこまで書いても終わらないような気がしたので7話で完結としました。7話で完結したSSが結構多 いし、それなりにキリもいいかなと。タナトスがシジフォスをいたぶりに来るとか、星矢達がタルタロス見物に来るとか、そんな話も考えていたのですがダラダ ラしそうだったのでまた別の機会に。
 シジフォスの贖罪を書くにあたり、もう一度主な罪人を調べてみたら…シジフォスの弟サルモネウスも神を冒涜した罪でタルタロスに堕とされていると改めて 発見。どーしょもない兄弟ですね。ちなみにシジフォスの妻メロペは、夫の愚行を恥じるあまり姿を隠してしまったそうです。
 それから、シジフォスの一件があってからタナトスとヒュプノスは一緒に死者を迎えに行くようになった、という設定にしました。シジフォスの一件まではタ ナトスひとりで死者を迎えに行っていたようなので、この事件がきっかけだったと。ただし、双子神が一緒に迎えに行くのは自然死・病死の時のみで、事故・事 件・戦で死んだ者はやっぱりタナトスひとりで迎えに行ってます。