契約の時
牡牛座編

 煩わしい包帯が外される。
 眩しさに一度ぎゅっと目を瞑り、開ける。焦点が定まらず半分ぼやけた視界に見覚えのある医師の顔が映った。医師はハービンジャーの『左目』にライトを当て、目を覗き込み、彼の右目を隠して左手の指を立てて見せた。

「指は何本かな?」
「一本」
「これは?」
「三本」
「ではこれは」
「立ててねぇ」
「よろしい。手術は成功したようだね。今は視界に違和感があるかもしれないが、じきに慣れるから心配はない」
「じゃ、俺は宮に帰っていいのか?」
「まだダメだ。一週間は入院して様子見、退院後もしばらくは安静にしていなければいけないよ」
「…チッ」
「我慢してくれたまえ。せっかく繋がった視神経が切れてしまったら、その目をくれた彼に申し訳ないだろう」
「分かってらぁ、よーく分かってますよ!」

 ハービンジャーは殊更乱暴に吐き捨ててそっぽを…カーテンで半端に仕切られた隣のベッドを、向いた。
 何でもない風を装っているが、患者の姿が見えない白いベッドに不安を感じているのが傍目からでもはっきりと分かる。
 検査道具を片付けた医師は病室を出ながらついでのように言った。

「彼も術後の経過は順調だ。今は多分、屋上に散歩に行っているんじゃないかな」
「!」

 医師が出て行くのと同時にハービンジャーはベッドから立ち上がり、走りたいのを我慢して病室を出て病院の屋上に向かった。




 違和感と不快感で見づらいことこの上ない視界に苛立ちながらハービンジャーは屋上への階段を上がってドアを開け、半分だけぼやけている目で屋上を見回した。
 …屋上の柵に肘をついて町並みを眺めている長い赤毛を見つけて彼は大股に近づいた。

「シラー!」
「…………」

 見覚えのある蒼い色がひとつだけ、ハービンジャーに向けられる。右目に包帯を巻いたシラーがにこりと笑って片手を上げた。

「おはよう、ハービンジャー」
「なーにが『おはよう』だ。もう昼だぜ」
「今日初めて会ったんだから『おはよう』でいいだろ。…包帯、取れたんだね。調子はどう?」
「正直言って違和感バリバリだぜ。なんつうかこう、世界が傾いてるっつーか歪んで見えるっつーか…。医者のセンセイは慣れだって言ってたけどな」
「そう」
「後は、妙な気分だな」

 シラーの右に立ったハービンジャーは屋上の柵に腕を乗せて町並みに目を向けた。
 真っ直ぐに前を見ていても隣のシラーが視界に入る。

「左側の世界が見える、ってのはよ」
「慣れればそれが当たり前になって、何も感じなくなるさ」
「…シラーよぉ。お前の包帯はいつ取れるんだ?」
「取ろうと思えばいつでも取れるけど、義眼が仕上がってきちんと入れてもらってから外そうかなと思ってるよ」
「そうか。じゃあまだしばらくは綾波状態だな」
「そうだね」
「不都合、ねぇか?」
「んー…」

 シラーは蒼い目をくるりと回してふわりと笑った。

「時々、思わぬところにぶつかったり躓いたりするけど、逆を言えばそれだけ。慣れれば何も問題なくなるよ」
「…そうか」

 赤い蟹座の笑顔は一片の翳りもなく春風のように爽やかだったから、ハービンジャーは(精一杯頑張って、だが)笑みを返すことができた。
 …あの日。
 ハービンジャーより先にシラーが死んだその時は、なんて縁起でもない『もしも』が起きた時の話をしたあの日、シラーは言っていた。
 ――僕が世界を消すのと、世界から僕が消えるのは、『僕が世界を見捨てる』って意味では同じじゃないかなって。一生懸命世界を滅ぼすより、僕があっさりと世界から消える方がより残酷じゃない?
 そんな物騒な言葉を紡ぐシラーの蒼い目はいつも通りぶっ飛んでいて、表情は冷静で落ち着いていて、つまり彼はいつも通りイカレていて大真面目だった。
 だからハービンジャーはいつもの調子で答えた。
 ――お前が世界なんて消えちまえなんて思うこともねぇ。俺が『愛してる』って言ってやるからな。だからお前は、俺の隣でヘラヘラ笑ってればいいんだよ。
 その言葉にシラーは嬉しそうに微笑んでいた。だからハービンジャーは、シラーが本気で『僕が世界を消すか、世界から僕が消えるか』のどちらかを選択しようとする日が来るとは思っていなかった。思いたくもなかった。
 …そもそものきっかけは神話の時代まで遡るらしいが、詳しい経緯や理由はどうでもいい。重要なのは、神の僕を名乗る者が地上に侵攻して来て、難民が避難した パライストラ学園を襲って来て、パライストラを防衛していた聖闘士が殉職した、ということだ。それは聖域では珍しくもない、ありふれた出来事だった。しかし、その『あり ふれた出来事』が、危うい均衡で保たれていたシラーの精神の天秤を呆気なく傾けてしまった。
 ――僕はもう、この世界は要らないよ。
 悲しげに笑ってそう言って、世界を捨てようとしたシラーをハービンジャーは必死に引き止めた。叫んで、縋って、喚いて、吠えて、懇願して、手を握って、 説き伏せて、死に物狂いで引き止めた。世界を見捨てないでくれ、と。俺がいる世界を捨てないでくれ、と。手を離したらもう二度と会えなくなってしまう気がして、ハービ ンジャーはシラーの手を掴んで、時には抱きしめて、世界を捨てることを思い留まるように一晩かけて説得した。
 そしてシラーは、自身の右目をハービンジャーに移植するという条件で彼の『世界を捨てないでくれ』という言葉に頷いた。その時シラーは、自身の手を掴んだ大き な手を握ってポツリと言った。『世界なんて半分で十分だ』と。世界の半分と引き換えにシラーがこの世界に留まると言うのなら、その条件を拒否することは ハービンジャーには出来なかった。
 …倍に広がった世界を見回して、ハービンジャーは隣にいるシラーを見遣った。

「…あのさ、シラー。仮に、の話なんだけどよ」
「うん、何?」
「俺がお前より先に死んだ時のこと、話しておきてぇんだ」
「…………。は?」

 驚きで目を見開いたシラーは、ハービンジャーが笑っているのを見て不思議そうに首を傾げた。
 ハービンジャーは穏やかに笑いながら、自前の藤色の目を指差してあの日の会話をなぞった。

「俺がお前より先に死んだその時は、俺の目をお前にやるよ」
「え?」
「そしてお前の一部になって、お前と一緒に世界を見るんだ。…俺は、お前と一緒に生きたい」
「…………」
「『君と一緒に生きたい』ってーのは、ロマンチックな言葉なんだろう?シラー」
「…………」

 ハービンジャーの言葉に、シラーはフフッと笑った。

「『あなたは死なないわ。私が守るもの』」
「…………」

 返ってきたのは、あの日ハービンジャーが告げたのと同じ言葉。
 片方だけの蒼い目が楽しげに眇められている。その蒼は以前と同じようにどこまでも透明に透き通って、以前と同じように盛大にぶっ飛んでいた。つまりシラーは冷静にイカレていて、即ち至って正常だった。
 …ああ、アイツの殉職で行方不明になっちまってたいつものお前が戻って来た。
 腹の奥から込み上げる熱い喜びを噛み締める余り怒ったような顔になりながら、ハービンジャーはシラーを引き寄せて骨も折れよと抱きしめた。

「あいたたたたっ!ちょ、ハービンジャー、いきなり何!?」
「馬鹿野郎、なーにが『あなたは死なないわ。私が守るもの』だよ!それは俺の台詞だっつーの!よーしシラー、遠慮はいらねぇ、俺の胸で泣け!!」
「はぁ?意味不明なんだけど」
「いいから!俺の胸で泣けばいいんだって!!」

 ガシガシガシ!
 長い赤毛を引っ掻き回してハービンジャーはシラーの頭を自分の分厚い胸板に押し付けた。
 抱きしめる腕の力の入り具合で事情を察したのか、シラーは抵抗をやめて溜息混じりにハービンジャーの胸板に額をつけた。
 シラーを拘束したままハービンジャーは世界に目を向けた。二つの目で見る世界はひどくぼやけている。
 …ハービンジャーは思う。
 シラーの半分は、彼の世界の半分は、パライストラ学園を守って殉職したアイツと一緒に消えたのだ。だから己に残されたのは、己が全力で守るべきは、シラーの残り半分なのだ、と。
 それでいい、とハービンジャーは思う。
 お前に残った半分の世界が、俺の世界の全てだ。
 自前の藤色の目で見る半分と、お前の蒼色の目で見る半分を合わせた世界が、これからの俺が守る世界の全てになる。
 熱い雫が頬を伝うに任せて、隻眼の蟹座を抱きしめたまま、オッドアイの牡牛座は倍に増えた世界を見つめた。



 なぁ、シラー。
 俺がお前を守るから。お前とお前の世界を必ず守るから、だから。
 …だから。
 


 お前は
 ここで笑っててくれよ。


END



星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達


 病んでて暗めの後編、にするつもりが何だか甘いラブコメになってしまった感のある後編です。例によってラスト一文に苦しんだものの今回は実質一日で話を 書き上げることができて、内容的にも個人的な満足度は高めの一本になりました。私の書くハビシラの一つの結末がこのSSだと思います。これがハッピーエン ドと言えるかどうか難しいところではありますが、こんな終わり方もアリかなと。
 このSSに取り掛かる少し前にツイッターで興味深いツイートが流れてきまして。「話を作る時どのように作るか?」がテーマで、「1:完成した台本通りに キャラを動かす」「2:ポイントだけを決めてキャラを動かす(ので、ストーリーが途中で変わることがある)」「3:何も決めず、キャラが動くに任せる」と 三つのパターンが提示されていました。私はほとんど2で、時たま3になるのですが、今回は2で始まって3で終わった話でした。最初の予定は「何かのきっか けで世界に絶望したシラーさんが世界を捨てようとする(自らの死を選ぼうとする)」「ハビさんがそれを止めて、シラーさんは『世界なんて半分で十分だ』と いう台詞を言って自分の片目をハビさんに移植する」「シラーさんがハビさんにあげる目は右目(ハビさんがシラーさんより先に死んだ時は自前の右目をシラー さんにあげるため)」だけが決まっていました。
 で、途中まで書いて「シラーさんが世界を捨てようと思うきっかけって何だろう?」と考え、シラーさんの精神バランスの支えになっている片方の柱、玄武君 の死ではないかなと思いつき、そこからはハビさんとシラーさんがひとりでに動き出してくれました。と言うわけでこのSSは『契約(天秤座編)」と多少リン クしています。ただ、明確に『玄武の死』を書くのは躊躇われたので、Ω二期のパライストラ防衛線を意識した描写と『傾いた天秤』という表現にしました。