| 銀糸の髪に指を絡める。 白磁の頬にそっと手を触れてアテナが自分から唇を寄せて口付けると、タナトスは快くその口付けに応えた。唇を重ねながらアテナのローブに手をかけて肩から滑り落とし、露わになった美しい肌に丁寧に指を這わせた。 敏感な部分にはまだ触れられていないのに身体が火照り出す自分自身に少なからずの羞恥を感じながら、アテナは以前から気になっていた事をそっと切り出した。 「あの…つかぬ事をお伺いしますけれど」 「…ん?」 「閨での睦み事の際には、服を脱ぐのは女性だけと言うのが…その、『普通』ですの?」 「さて、どうであろうな。互いが望む行為ならば、普通であるか否かは些細なこと…と言うのが俺の持論だが」 「………、では」 外からでも分かるのではないかと思うほど心臓が激しく動いているのを感じながら、アテナはそっとタナトスのローブを摘まんだ。 「今宵は、あなたも、服を脱いで頂けませんか?」 「………。貴女がそう望むのならば」 銀色の睫毛を伏せて穏やかに言うと、タナトスはするりと腰帯を解いて漆黒のローブを脱いだ。 ………… …肌と肌が触れ合い、そのぬくもりを感じる。 特に鍛錬らしいこともせずゆったりと過ごしているように見えたが、やはり神だからなのか、タナトスの身体は聖域の聖闘士の誰よりも美しかった。その肢体 に半ば見とれながら、アテナはタナトスの腕に抱かれて甘い快楽に身を委ねながら、ひょっとしたらこれは夢なのかもしれないと思った。 そう、これはきっと、あの金色の眠神が見せる夢。明日が来れば全てが胡散霧消する、儚い幻。 妖しい香の匂いと淡い月明かり、普通ならとても有り得ない状況が彼女から現実感を奪っていた。夢見心地のアテナは現実にしがみつくようにタナトスの肩口に噛みつき、彼の耳に唇を寄せて囁いた。 「タナトス殿。私、あなたが好きです」 「…………」 その言葉にタナトスが驚いたように動きを止めて彼女の顔を見つめた。どこまでもどこまでも透明な銀色の瞳に映る自分は笑っている。 アテナは死神の首に手を回してもう一度言った。 「あなたが、好きです」 「フフ…大神ゼウスの愛娘が、処女神の誓いを破った冥王臣下の神を好いていると言うか」 「…あなたは」 「?」 「あなたは、私をどう思っていますの?『愛おしいと思う』と言ってくれたことはありますけれど」 「…………」 死神は銀色の睫毛を瞬いてしばらく逡巡する素振りを見せ、淡く唇を微笑ませた。 「そうだな、俺はあなたが愛おしい。…愛している」 「!………、私、わたし、も」 「ん」 「愛しています。多分、きっと、ずっと以前から、あなたを」 熱い想いを目に孕んで見つめると、タナトスは銀色の眼をスッと細めてアテナの髪を梳いた。そのあたたかな手に触れて、やはりこれは夢なのだ…とアテナは 思った。あの死の神が、冥王の宿敵である私を愛しているなんて言うはずがない。眠りの神が私にこんな夢を見せる理由は分からないけど…。 アテナがされるがままに髪を梳かれていると、死の神は寝台の脇に置いてあった蜂蜜の小瓶に手を伸ばして蓋を取り、中身をアテナの胸に零した。豊かな胸をゆっくりと滑り落ちる黄金色の蜜をしなやかな指で掬い、彼女の口に蜂蜜で濡れた指を入れた。 ちゅっ、ちゅく… アテナが素直に指に絡んだ蜂蜜を舐めると、タナトスは満足そうに笑みを浮かべて口を開いた。 「本当に、今宵はどうしたのだアテナよ?貴女らしくないぞ」 「それはあなたも同じですわ。あなたも全くらしくない…ヒュプノス神は何を思って私にこんな夢を見せているのかしら」 「………。これはヒュプノスの夢、か」 タナトスは残酷なほど無邪気な笑みを唇に浮かべると、アテナの胸に零した蜂蜜を舌で掬い取り彼女に口付けた。舌が触れ合い優しい甘みが口の中に広がる。 …深く口付けを交わした銀の神は、アテナの唇を指でぬぐって静かに口を開いた。 「アテナ。俺の要望を聞いてくれるか?」 「要望?」 「そうだ。アテナよ、俺は…」 タナトスは穏やかに笑んだまま、アテナが恥じらって思わず視線を逸らすほど真摯な色を孕んだ目で見つめた。 「普段と違う貴女が見たい。これが夢だと言うのなら、叶えてくれても良いだろう?」 「………。あなたが、それを望むのなら…」 これが儚い夢でも、彼が喜んでくれるのなら、私は。 俯いておずおずと頷くと、タナトスが嬉しそうに笑う気配があった。アテナは頬を染めてタナトスを見上げた。 「私は、何をすれば?」 「そうだな、では…」 底知れない笑みを浮かべてたタナトスは楽しげに口を開いて、アテナに自信が望む行為を伝えた…。 ………… アテナは目を開いた。数回睫毛を瞬くとゆっくりと意識が覚醒して、彼女は広い寝台の隣に視線を動かした。 …隣は空っぽだった。 ああ、やはり昨夜の出来事は夢だったんだわ。 分かりきっていた事実に沈む心を感じつつアテナが身体を起こすと、女神の起床に気付いたニンフ達が世話をしにやってきた。 身支度を整え、朝食を取るために部屋を移動したアテナは、卓の上にふたり分の食器が用意されているのを見て部屋の入り口で足を止めた。 ニンフに促されるまま片方の椅子に座り、落ち着かない気持ちでそわそわしていると、無造作に束ねた大量の花を持ったタナトスが部屋に入ってきた。 「漸くお目覚めか、アテナ。しばらく待っても全く起きる様子が無くて暇で仕方が無かったから、ケルベロスの散歩を終わらせたついでに花まで摘んできてしまったぞ」 「…………」 何と言うべきか言葉が見つからずに視線を彷徨わせるアテナの姿にニヤリと笑い、銀の神は空いた方の椅子に座ってニンフに朝食を持ってくるよう命じた。 タナトスは摘んできた花を卓に広げ、一輪ずつ品定めするように眺めながら花束を作り始めた。花束に組み込まれなかった花は無造作に床に捨てられて、視線のやり場がそこしかないアテナは床に落とされた花を見つめながら口を開いた。 「あの、妙なことをお伺いしますけれど」 「何だ?」 「昨夜の事は、現実だったのでしょうか」 「さて、どうであろうな」 花を選定しながらタナトスは楽しげに答え、ローブの襟元をはだけて肩口にくっきりと残る傷…昨夜、アテナが死神の肌に残した噛み痕だ…を見せた。 「俺の身体と頭は昨夜の貴女の行為も言葉も現実として記憶しているが、俺の記憶と貴女の記憶が一致するとは限らぬ。何なら『答え合わせ』をしてみるか?」 「えっ?い、いえ、そっ…それは、別に、必要ないでしょう。あなたが昨夜の事を現実だと思っているなら、きっとそれが正しいのでしょうし」 「そうだな。俺がこうしてここにいる、それが答えで良かろう」 タナトスの甘い言葉に促され、求められるままに乱れた昨夜の自分を思い出したアテナが頬を染めると、彼はそれ以上踏み込むことなく話を終わらせた。 ビスケットと数種類の果物と紅茶を卓に並べてニンフが下がると、タナトスは瓶に半分ほど残っていた蜂蜜を全部ビスケットにかけた。それはちょっと 甘過ぎるのではないかしら…とアテナが余計な心配をしていると、彼は甘い蜜が滴るビスケットをひとかけら取って差し出した。 アテナはおずおずと唇を開いて、金色にコーティングされたビスケットを口に入れながらタナトスの指に絡んだ蜂蜜を舐め取った。死の神はアテナの口から引 き抜いた手で彼女の顎をそっと掴んで上向かせ、柔らかく口付けた。素直にその口付けを受けたアテナにタナトスはスッと目を細めた。 「…甘い、な」 「少々蜂蜜をかけ過ぎたのではないかしら」 「菓子の話ではないのだが…まぁ良い。些細なことだ」 文字通り蜜のように甘い朝食を終えると、タナトスは弟神に瓜二つの無色透明な微笑を浮かべて卓の端に寄せてあった花束を差し出した。薄紅、赤、橙、黄色、白…楽園エリシオンに咲き乱れる花を絶妙の配色で美しく纏めあげたそれは、まるで花嫁のブーケのように見えた。 「この花束はエリシオンの花で作ったもの。それらは冥界の神々の小宇宙で守られている故、エリシオンの中にある限り永遠に美しく咲き続けるのだ」 「…………。ではもし、私がエリシオンの外にこの花束を持ち出したらどうなるのです?すぐに枯れてしまうのですか?」 「その花束はこの俺、死の神の小宇宙で特別に守られている。貴女が地上に戻ったとしても、俺があなたの事を心に留めている限りその花に『死』は訪れぬ」 「…素敵だわ」 受け取った花束に顔をうずめて芳しい香りに目を閉じるアテナを見遣り、タナトスは凍りつくような微笑みを唇の端に浮かべて踵を返し、部屋を出て行った。 …それが。 アテナがタナトスの姿を見た最後になった。 アテナは長椅子に半ば横たわって、卓に置かれた花束をぼんやりと眺めていた。 銀の神と共に夢のような一夜を過ごしたあの日から一体何日経ったのか。冥界の神々の力で守られた花はけして枯れることはなく、神の楽園に四季は存在せ ず、タナトスもヒュプノスもあの日を境にふっつりと顔を見せなくなった為に、聖域の様子を伺い知ることすらできなくなった。双子神はどうしているのか、身の回りの世話をするニンフに尋ねても答えは返って来ない。 どうしてあの日、部屋を立ち去るタナトスに声のひとつもかけなかったのか。 何度目か分からない後悔を噛み締めながらアテナはそっと花束に手を伸ばした。冥界の神々の小宇宙で守られているためか、美しい花束はひやりと冷たかった。 「会いたい…」 心に収まりきらず溢れる想いをポツリと呟いたその時、部屋の扉が開いてアテナはハッと身体を起こした。 …部屋に入って来たのは、死の神と似て非なる小宇宙を纏った眠りの神だった。 タナトスではなかったことに僅かな落胆を感じつつ、弟神が現れたのなら兄神も姿を見せるかもしれないと微かな希望を抱いてアテナは椅子にきちんと座り直した。 「お久しぶりですね、眠りの神。あなたともお兄様とも随分長らくお会いしていないような気がしますが、何かあったのでしょうか?」 「特別なことは何もない。私もタナトスも己の職務をこなして変わりなく日々を過ごしている。次の時代の聖戦にもまだ時間がある…聖戦が近付けば我々もあなたを解放する故、その点は心配しなくて良い」 「そう、ですか…。………」 変わりなく過ごしているなら何故、彼は姿を見せてくれないのだろう…。 俯き指を組んでは解し何か言いたげにしているアテナを見て、卓の上に置かれた花束を見て、ヒュプノスは常と変らぬ無表情で口を開いた。 「タナトスに会いたいか、アテナ?」 「!………、はい」 女神の直感は警鐘を鳴らしていたが、これがヒュプノスの罠であっても今より状況が悪くなることはないはずだと、心に芽生えた不安を切り捨てて頷いた。 アテナの反応にヒュプノスは金色の目を眇め、はっきり分かるほどに唇に笑みを浮かべた。 「では身を清めて、服も新しいものに着替えて来るが良い。私はここで待っていよう」 「…分かりました」 ヒュプノスの指示の意図は分からなかったが、言われた通りにアテナが湯浴みを済ませ新しいローブを纏って部屋に戻ると、金の神は花瓶に飾ってあった花を一輪取ってアテナの髪に挿した。 無言で説明を求めるアテナの視線から眼を逸らして、ヒュプノスは卓の上に置いてあった花束を取った。 「この花束にはタナトスの小宇宙が感じられるが…これはタナトスが貴女に贈ったものか?」 「…ええ」 「ではこれを持って行くべきだな」 アテナが戸惑いながらも素直に花束を受け取ると、では行こうか…とヒュプノスが腕を差し出した。 「…随分と大袈裟ですわね」 「ふふ…こういう事は大袈裟にした方が面白いだろう」 「そういうものでしょうか」 …ヒュプノスにエスコートされて歩くエリシオンの風は清めたばかりのアテナの肌を心地よく撫でて行く。 清めた身体、新しい服、髪に挿した花、ブーケのように美しい花束、そして想いを寄せるひとの弟のエスコート。 (何だかこれから式を挙げる花嫁みたいだわ…) そんな考えが浮かんで、アテナは頬を染めて視線を足元の花々に落とした。 女神をエスコートする眠りの神はただ笑みを浮かべて無言のまま歩いていた。…兄の元ではなく、嘆きの壁に向かって。 …エリシオンを出て神の道を抜け、嘆きの壁に降り立って冥界三巨頭に迎えられた時にはアテナの貌からは笑顔が消えていた。 足元から不吉な予感が這いあがってくる。ヒュプノスの腕を掴んだ手は小刻みに震え、眠りの神の穏やかな微笑みが恐ろしく冷たいものに見える。 ヒュプノスに向かって傅く冥界三巨頭を見て、ゆっくりと視線をヒュプノスに向けると、背筋が凍りつく様な金色の眼差しと眼が合った。 アテナは小刻みに震える唇を開いて尋ねた。 「あの、これは…どういう事、なのでしょう」 「おかしなことを問う。知恵の女神でもある貴女が、神の小宇宙を封じられたままエリシオンを出て冥界三巨頭の前に連れて来られて尚、自分の置かれている状況を把握できないと?」 「…………あなた…」 アテナは目を見開き、手をヒュプノスの腕から離し、タナトスに貰った花束に縋りつくように抱きしめて、じりじりと後ずさった。 ヒュプノスはぬくもりの欠片も無い穏やかな笑みを浮かべて冥界三巨頭に目をやり、静かに口を開いた。 「アテナの神の小宇宙はあの首輪で封じられ、処女神の誓いも既に破られた。故に今の彼女は人間の女も同然。我々の手元で飼う理由は失せた故、お前達にくれてやろう。時が来たら指示する故、それまでは好きに使うが良い」 「ハ」 「眠りの神…あなたは私を裏切ったのですね!よくも…!!」 「裏切ったとは人聞きの悪い」 ヒュプノスは唇の端に笑みを乗せたまま底の見えない眼をアテナに向けた。 不気味なほど穏やかな光を孕む眠りの神の眼は、タナトスとアテナの夢のような一夜を甘く彩ったあの蜂蜜と同じ色をしている。 「私は『タナトスに会いたいか?』と尋ねただけ。『会わせてやる』などと言った覚えはない…貴女が勝手に期待しただけのこと」 「っ……。こんな…勝手にこんなことをして、眠りの神よ、いくらあなたでも…」 「『勝手に』…?今宵の貴女は本当に、全く知恵の女神らしくない。私が独断で貴女の処遇を決めたとでも思っているのか?」 「え…」 「このことは」 聞きたくない、とアテナは思った。 その先を聞いたら全てが終わってしまう気がして思わず耳を塞いだが、そんなささやかな抵抗は何の意味もなさなかった。 「タナトスも承知だ」 「…………」 耳を塞いだ手が滑り落ちて、その拍子に指がぶつかって髪に挿した花が床に落ちた。エリシオンを離れて神の力が及ばなくなり、茶色く枯れ果てた花が。 はぁっ… 苦しい息を吐いて、アテナは腕から落ちかけた花束を何かに縋りつくようにして抱き直した。 死の神から贈られた花はまだ美しく咲いている。この花に死が訪れないと言う事は、彼はまだ、アテナを心に留めていると言う事だ…。 ギリギリで踏みとどまったアテナを楽しげに眺めながらヒュプノスは話を続けた。 「タナトスは飽きっぽくてな…どんな面白い玩具を見つけてもすぐに飽きてしまう。滅多に手に入らぬ戦女神という珍しい玩具も例外ではなく、身体も心も我が物にした途端に飽きてしまったらしい」 「…やめて」 「あれには飽きた、次の聖戦までまだ時間はあるがもう要らぬと言いだしたのでな、私はこう頼んだのだ。『私はあれを壊して遊びたいから手を貸してくれないか』と。一度希望を与えてから絶望に突き落として粉々に壊れる様が見たいのだ、と」 「やめて、聞きたくありません!」 「タナトスは快く私の頼みを聞いてくれた。…アテナよ、貴女は私が兄に何を頼んだか分かるか?」 「もう…やめて…」 「あの女は愚かにもお前を愛している。だから最後に甘い夢を見せてやってくれ。一夜を共に過ごし、その腕に抱き、出来る限り望みに応え、乞われた時には『愛している』と囁いて、お前の力で死を奪った花束を贈ってくれ、と」 「…嘘」 ヒュプノスの優しく無機質な言葉が鋭利な刃物のように心を抉り、アテナの中で何かが音を立てて崩れて行った。 夢のような甘い一夜。 優しい声。優しい笑顔。この身体を抱きしめた優しい腕。愛しているという言葉。自分が貴女を想う限り死は訪れないと贈ってくれた花束。 アテナは骸骨のように蒼白になった顔で震える声を押しだした。 「うそ、です」 「その通り。全ては嘘、全ては偽り。何もかも私がタナトスに頼んだこと。あの日のタナトスは貴女の為に行動したのではない、私の遊びの為に行動したのだ」 「そんな…嘘です!だって、だって、あの方は…」 「貴女の元から戻って来たタナトスは涙ぐむほど笑っていたぞ。腹を抱えてな」 「!………」 「いくらなんでも途中で何かがおかしいと気付くだろうと思っていたがいつまでたっても気付かぬから、笑いを堪えるのが大変だったと。指示通り『愛している』と 言ったら『私もです』と返して来たと。誇り高き処女神であったあの女が、俺の要求に応えてあられもない姿を晒してあんな行為やこんな行為をしたのだぞと、 わざわざローブをはだけて貴女が付けた傷を見せながら、事細かに報告してくれた。タナトスがあそこまで楽しんでくれたのなら私も提案した甲斐があったとい うものだな」 アテナがタナトスに付けた傷跡と全く同じ場所を指しながらヒュプノスは残酷な微笑を浮かべて言った。 …傅いたまま笑いを噛み殺す冥界三巨頭の姿も、もうアテナの眼には映っていなかった。立っていられないほど膝が震え、ヒュプノスの言葉を理解することを防衛本能が拒絶している。 嘘、これはきっと悪い夢。眠りの神が私に見せている幻。早く、早く幻を払って夢から醒めないと… 顔色を失い立ちつくすアテナに金の神は底無し沼のような笑みを見せて、彼女が抱きしめた花束をスッと指差した。 「アテナよ。全ては現実、何もかもが真実だ。タナトスとの一夜も、私の言ったことも、嘘偽りはひとつもない。見るが良い、それが何よりの証拠だ」 「…………」 見たくない。見てはいけない。 そう叫ぶ心の声をまるで別人のもののように聞きながら、死者のように蒼白になったアテナが視線を花束に落とすと、美しかった花は急速に色を失い、萎れ、茶色く乾き、散り始めた。 (その花束はこの俺、死の神の小宇宙で特別に守られている。貴女が地上に戻ったとしても、俺があなたの事を心に留めている限りその花に『死』は訪れぬ) タナトスが最後に残した言葉が頭の中を回っている。 俺が貴女の事を心に留めている限りその花に死は訪れぬ。 俺が貴女の事を心に留めている限り… 死の神の小宇宙で守られていた花に『死』が訪れた、それが意味する者は、つまり。 つまり… 視界が歪み、捩れ、回り、色を失う。 アテナががくりと膝を折って床に手をつくと、頭上から冷ややかなヒュプノスの声が降ってきた。 「全く哀れなものよ。泥臭い大地の小娘が清廉なる夜の兄上の寵愛を受けられるはずなど無いのに、最後の最後までその当たり前の事実に気付かぬとは…」 踵を返したヒュプノスの足音が遠ざかる。 見開いたままのアテナの眼から涙が溢れて頬を伝い、枯れて散らばった褐色の花弁にポツリと落ちた…。 ……… …………… 薄暗い神殿に足音が響く。 タナトス神殿の奥まった一角にある部屋をヒュプノスが訪ねると、タナトスが待ちかねていたように椅子から立ち上がった。 「漸く来たか、ヒュプノス。余りにも到着が遅いから迎えに行こうかと思っていたぞ」 「タナトスよ…そんなに急ぎの用件ならばニンフを使いに寄越したりせずに小宇宙で私を呼べば良かろうに」 「そこまで急ぐ用でもないと思ったのだが、ただ待っているだけの時間というのは長く感じるものだな。まぁ良い、これを見ろ」 そう言ってタナトスは地上の光景を壁に設えた背の高い鏡に映し出して見せた。鏡に映っているのは一見何の変哲もない人間の男で、タナトスがわざわざ弟を呼び出してまで見せる価値があるとは思えなかった。 得意気な顔をしている兄神を見遣り、ヒュプノスは軽く首を傾げた。 「お前が見せたいのはこの人間の男か?」 「そうだ」 「この男がどうかしたのか。ざっと見たところ特におかしな点は感じられぬようだが…」 「『ざっと』では駄目だ。『じっくり』観察してみろ。この男の気配、小宇宙、魂をな」 「………?」 タナトスの言葉を怪訝に思いつつ、神経を研ぎ澄ましてその男の気配を探っていたヒュプノスが眉根を寄せた。神であるヒュプノスが意識して探らなければ分からないほど微かに、その人間の男は神の気配を纏っていた。 弟神の反応に満足げな笑みを見せてタナトスは楽しげに話し始めた。 「聖域の復興はどの程度進んでいるかと思って地上の様子を眺めていたら偶然見つけたのだ。あの男、人間でありながら魂だけは神のそれだぞ。興味深いだろう?」 「…だから?」 「次の聖戦ではあの男を冥闘士として使えぬかと思ってな。冥闘士となる魂は魔星に選ばせるのが我等の流儀ではあるが、あのように興味深い魂を持っている人間なら例外扱いしても良いとは思わぬか?」 「私が駄目だと言ってもお前は聞かぬだろう?好きにするが良い」 「相変わらずつれないなヒュプノスよ。聖戦も所詮は遊び、遊びなら存分に楽しめば良いものを。………」 笑いながらそう言ったタナトスが、ふと何かを思い出した顔で言葉を切った。 どうかしたか?とヒュプノスが目顔で尋ねると、タナトスは思案顔で腕を組み弟を見遣った。 「ふと思い出したのだがな、アテナはどうした?お前があれを壊して遊びたいと言ったから俺もそれなりに手を貸してやったはずだが」 「…クッ」 「何故笑う、ヒュプノス」 「ああすまぬ、今頃になってお前がそんな事を言い出すとは思わなくてな」 「…………」 「そう睨むな、タナトス。お前のおかげであの女を壊して遊ぶのは存分に楽しめた、感謝している」 「壊したのは良いがその後はどうした?お前の事だから後始末もきちんとしただろうが」 「我々はあの女で存分に遊んだからな、嘆きの壁に捨てて来た。どうやら冥闘士達が拾って遊んでいるようだが、時が来れば私がきちんと次の時代に送り出す故、お前は遊び終わった玩具など気にするな。むしろ新しい玩具を確実に手に入れる作戦を考えるが良い」 「そうだな。まずは天貴星か天英星にこの男の魂を追いかけて記録し、次の命となっても追跡できるように命じておくか。それから…」 地上を映す鏡を見ながら楽しげに語るタナトスの中にはもう、アテナに対する関心は欠片も残っていない。彼の興味は既に次の聖戦とその駒に向いている。 それでいい、タナトス。お前が心に留めるのは冥界、私とハーデス様だけで良い。高潔で清廉な夜のお前が大地の泥に汚れる必要も理由もどこにもないのだから。 楽しげに語る兄の姿に、ヒュプノスは穏やかな光を孕む黄金色の眼を眇めて満足げに微笑んだ。 |
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