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…本殿の扉をアテナのために開けたヒュプノスは独り言のように言葉を紡いだ。 「貴女をここに滞在させたタナトスの判断は誤っていたとしか思えぬ」 「…………」 「今の状況で貴女が神話時代の記憶を取り戻し、それがきっかけで聖戦が終わったとしても、様々な者の心にしこりや翳りが残るに違いない。そのような『ハッピーエンド』は、我々も貴女も望んでなどいないはず」 「…………」 「恐らく今はまだ、『その時』ではないのだ。来るべき時が来れば貴女は記憶を取り戻し、誰の心に影を落とすこともなく聖戦は終わるだろう。だからアテナよ、貴女は早く地上に帰った方が良い。次の時代にも聖戦は起こるのだから」 「それは予言ですか」 「いや、…」 ヒュプノスは金色の睫毛を伏せ、言葉を切り、逡巡し、アテナから目を逸らしたまま微かな声で続けた。 「これは、頼みだ」 「…………」 「タナトスが…あのタナトスが判断を誤るなど滅多にない事。貴女の存在は兄を惑わせる。これ以上貴女がここに留まっても良い結果に繋がるとはとても思えぬのだ。それは貴女も気付いているであろう」 「…………」 「アテナよ。恐らく三日以内にタナトスが貴女を地上に返す決断をするだろうが、万が一、タナトスが判断を迷った時は貴女の意思でここを去って頂きたい」 「…………。もしもタナトス殿が決断せず、私も地上に帰るのは嫌だと言ったらどうなさるのです?」 「その時は私が力づくでも貴女を地上に返す。今宵の貴女が何をしていたかを聞けば、タナトスも文句は言うまい」 「!…………」 「目を閉じ、口を噤み、耳を塞いで地上に帰り、ここでの記憶は封じて次の時代に転生するが良い。それがお互いの為だ」 「…………」 黙り込むアテナに慇懃に一礼してヒュプノスは場を立ち去った。 …アテナは手枷の鎖をきつく握り締めた。 死の神への淡い想いは叶わぬことなど、最初から分かっていた。タナトスが天界や海界の神を愛した事は一度も無いし、アテナは天帝ゼウスが寵愛する処女神だ。愛される事も無ければ愛する事も許されない間柄だったのだ。 アテナは涙の浮きかけた目を何度も瞬いた。 (ここでの日々は夢だった。そう、眠りと夢の神が見せる夢だったのよ) (夢から醒める時が来た、ただそれだけのこと) (…………) (これが夢ならば…次の時代に転生すれば記憶からも消えてしまう幻ならば…) 己の中には残らずに儚く消えてしまう夢幻ならば。 せめてあのひとには、あのひとだけには、私と過ごした日々を記憶に留めておいて欲しい…。 あくる日の夜、タナトス神殿。 数人のニンフが果物の皿を掲げ果実酒のピッチャーをタナトスに差し出した。差し出された果物を口に入れつつ杯に酒を注がせていたタナトスは、訪問者の気配を感じて手を止めた。 …アテナの姿を認めた死の神は彼女の意を問うように首を傾げて見せた。 「大事なお話があります」 「…ほう」 面白そうに笑みを浮かべたタナトスは目線と手の動きでニンフを下がらせ、自分の座っている長椅子の開いたスペースを顎でしゃくった。隣に座れ、と言う意味らしい。 差し出された杯に形ばかり唇をつけて、アテナは用意していた台詞を口にした。 「私、地上に戻ろうと思います。恐らく今はまだ、私が記憶を取り戻すべき時ではないのでしょう」 「奇遇だな、俺も同じことを思っていたぞ。…ならば貴女の送別会でも始めるか?」 クク、と喉の奥で笑ったタナトスは果物籠から柘榴を取り出してアテナに差し出した。女神ベルセフォネーが冥王ハーデスの妻になる切り札になった冥界の果実だ。 複雑な気持ちで柘榴を一粒口に入れたアテナは意を決して顔を上げタナトスを見据えた。 「…今宵は、あなたと交わり共に夜を過ごそうと思ってここに来ました」 「フッ…いいだろう。地上に戻れば味わえぬ蜜の味、最後に存分に堪能するがよい」 「私が最後に望むのは真似事の夜伽ではありません。禁忌を犯す覚悟でここに来たのです。ですからあなたも私の覚悟に応えてください」 「…………」 タナトスは葡萄を摘まんだまま目を見開き、アテナをしげしげと見つめ、彼女が本気で言っているらしいと察すると眉間に皺を寄せてフンと鼻を鳴らした。 口に入れた果実を乱暴に噛み砕きながら死の神は呆れた顔で口を開いた。 「何を言い出すかと思えば…。奉仕されることしか出来ぬ小娘を愛でる趣味など俺は持ち合わせておらぬわ」 「では私があなたに奉仕すれば、あなたは私の覚悟に応えてくれるのですね」 「…何?」 一度大きく深呼吸して、アテナはタナトスを長椅子に押し倒すようにして横たわらせ、彼の腰帯を解いて服をはだけた。 …拒否は、されなかった。 自身のローブも肩から滑り落として肌を晒すとそっと彼の体に重なる。冷ややかな銀色を見つめながら唇に口付けて肌に手を這わせた。 (男性も女性も、快楽を与える手段に大きな差異はないはず…彼がいつも私にそうするのと同じようにして、反応が返ってきたら、ヘカーテがあの時していたように…) 跳ねる心臓を感じながらアテナはタナトスの服の中に手を差し入れ、熱を孕むそれに触れてビクリと震え、恐る恐る愛撫した。服をはだけて唇と舌を這わせ、胸で包み込むようにして刺激する。 されるがままになっていたタナトスが、ハ…と呆れたため息を吐いた。 「拙い奉仕だな。…いや、処女神であるはずの貴女がこのような行為の知識を持っていたことを疑問に思うべきか?」 「このような場面で無粋なお言葉ですこと」 「フフ…確かにそうだ。では俺も真摯に貴女の相手をするとしよう」 「!」 乱れた服をさっと整えて立ち上がると、タナトスはアテナを抱き上げて寝室に向かった。 …寝台に横たわったアテナは熱く火照りだす体を感じながら自身を組み敷くタナトスに両手を伸ばした…。 ………… ………………… アテナは目を瞬いた。 まだ覚醒しきっていない意識を感じながら視線を動かすと、自分が天蓋付きの寝台に寝かされていることが分かった。 (ここは…どこ?) タナトス神殿に拘束されていた時にあてがわれていた部屋ではない。 状況を確認しようと体を起こしかけ、アテナは違和感に気付いた。いや、違和感が無い事に気付いたと言うべきか。 彼女の両手に填まっていたヘパイストスの手枷がない。必死に手繰った記憶の糸は、タナトスと共に寝台に入っていったところで途切れている。 …まさか。 驚きで意識が覚醒したアテナは寝台から降りて部屋の扉を開けた。 「誰か。誰か、いませんか!?」 …侍女に付き添われたアテナがニケの杖を持って椅子に腰を降ろすと、謁見の間に控えていた蟹座の黄金聖闘士と祭壇座の白銀聖闘士が恭しく一礼した。 「貴女様が冥界の神を追って姿を消された故に御身を案じておりましたが」 「無事のお帰りを心よりお喜び申し上げます、アテナ」 「セージ、ハクレイ。心配をかけたようで申し訳ありませんでしたね。…それで」 アテナはざわめく胸を感じながら気になっていたことを努めて冷静に尋ねた。 「奇妙なことを聞くようですが、一体何があったのですか?私の記憶は意識を失う前で途切れているのです」 「…死と眠りの神が聖域を訪れたのです。冥衣も纏わずに、手枷を填めたアテナ様を抱いて、アテナの聖衣を携えて、堂々と真正面から」 「『手枷を外す鍵は聖域に置いてあるから地上に帰れ、と言っても冥界に居座り続けた故、我々自ら送り届けに来てやったぞ』などとぬけぬけと言い放ち」 「手枷を外すと言う口実で図々しくもスターヒルに入り込み、アテナ様の手枷を外すと再び神の道に消えていったのです。『その時が訪れたならまた会おう』と言い残して」 「…………。彼らは何か他に言っていましたか?」 「いえ、何も」 「死の神は訪問理由を言っただけ、眠りの神は一言も喋りませんでした」 「そう、ですか…。…………」 セージとハクレイの態度に不自然なところは無い。何かを隠している様子も無い。双子神は本当に、アテナを返しに来た理由しか話さなかったのだろう。 二人を下がらせたアテナは大きく息を吐いて椅子に体を預けた。 体に違和感は感じない。聖域でアテナの純潔を調べる事など出来ないが、アテナの覚悟や死の神への想いは届かぬまま終わったのだろうという気がする。彼女の想いを受け入れることはなく、しかし明確に拒絶するでもなく、タナトスは再び手の届かない場所に行ってしまった。 きっとそれは死神のせめてもの心遣いなのだろう、とアテナは思う。全てをあやふやにすることで甘い夢を壊さずにおいてくれたのだと。 (聖戦はいつか終わる。私達が分かり合える時は必ず来る。あなたもそう思っているからこそ、『いつか』の未来に禍根を残さないように夢は夢のままにしておいたのでしょう) 恋い焦がれ追い縋って必死に手を伸ばして、一度は届いたその手から、想い続けた相手はするりと逃げてしまった…痛みに疼く胸をアテナはそっと押さえた。 身体が朽ちるまでこの時代を生きたとしても、きっともう、夜闇の眷属である双子神に会うことは叶わないだろう。 ならば、アテナがこの時代で為すべき事はたったひとつ。 甘い夢と淡い想いは記憶の奥底に沈めて次の時代に転生することだけ。 (その時が訪れたならば、また会いましょう…死の神よ) 心を決めたアテナが自分自身を抱きしめると、頬を熱い涙が伝い落ちた。 『その時が訪れたならば』 死と眠りの神々が残した言葉、それは戦女神との再会の約束、あるいは契約。 ――――『その時』が訪れるのは約五百年の後。 |
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