双子神・神話時代 …矜持…
後編

  魔犬ケルベロスがタルタロスの濃密な霧闇の中を飛ぶ。
 タナトスの背中にへばりつくようにしがみ付くヘカーテは闇空に藤色の長い髪を舞わせて周囲を見回したが、どんなに目を凝らしても何も見えない。タナトス は『目が慣れれば大丈夫ですよ』と言っていたが、タルタロスの最深部とやらに入ってかなりの時間がたつのにヘカーテは碌に周囲が見えないままだった。
 一方、夜から生まれたタナトスは真っ暗闇の中でもきちんと見えているらしく、手に握った銀の大鎌で襲ってくる魔物達を片手間に叩き落としながらケルベロ スに指示を出していた。とは言え、ヘカーテは魔物が叩き落とされる悲鳴を聞いて初めて、何かが襲って来ていたらしいと分かるのだが。
 …場所を教えてもらおうにも目印も無いしそもそも何も見えないのでは、ひとりでマンドレイクを取りに来るのは無理じゃなかろうか。それともケルベロスに『マンドレイクの場所まで行ってくれ』と命令すればそこまで行ってくれるのだろうか。
 そんな事を考えていると、ケルベロスがゆっくりと降下を始めた。微かな衝撃で魔犬が地面に降り立った事が分かる。

「マンドレイクはこの洞窟の奥に群生しています。ケルベロスは入れませんので、ここからは歩いて行きますよ」
「はぁ、洞窟…」

 タナトスが指差した方を見ても何があるのか全く見えない。恐る恐るケルベロスから降りたヘカーテはタナトスの後をついて歩き始めた。
 …何せ周囲がほとんど見えないので、先を行くタナトスの髪と大鎌が放つ淡い銀の光だけが頼りだ。足元が見えない上に平坦な道ではなく、普段の踵の高いサンダルを履いて来た事を今更ながら後悔したが、流石に裸足で歩くのは気味が悪い。
 時折タナトスが大鎌を振り回すと悲鳴と共に鮮血が飛び散り、何かを蹴飛ばす仕草をするとこれまた悲鳴と共に何かが転がり落ちて行く音がした。
 進む先にいる魔物や幽鬼はタナトスが排除してくれているようだが、後ろから襲われたらどうしよう…そんな不安が頭をよぎった直後、突然何かがヘカーテに抱きついて来た。
 反射的に逃げようとしたはずみに地面のくぼみに足を取られて転んだ途端、その『何か』が彼女に覆いかぶさってむき出しの肩を掴み、首筋に牙を立てようとした。

「キャーーーーーーーー!!!!」

 ヘカーテが転ぶ音に振り返ったタナトスが彼女の絶叫に驚き、亡者に咬み付かれかけているヘカーテに一瞬意外そうな顔をして、慌てて駆け寄り亡者を引き剥がし放り投げた。投げられた亡者の悲鳴が尾を引いて小さくなり消えて行く。
 タナトスは地面にへたり込んだヘカーテの傍らに膝をついた。

「大丈夫ですか?」
「あ、うん…転んだ拍子にちょっと足を挫いただけ」
「一体どうなさったのですヘカーテ様?背後からならともかく正面から飛びかかってきた亡者など、あなたなら容易く対処できるでしょう?」
「見えてたら叩き落としてやったんだが、見えなかったから…。お前は目が慣れれば大丈夫と言っていたが、未だに目が慣れなくて、全く周りが見えないんだ」
「ちょ、ヘカーテ様。そういう事は早くおっしゃってください!今回は転んだ程度で済みましたが、足でも踏み外したら奈落の底に転落しますよ!」
「え!?」

 タナトスが真顔で言った言葉にヘカーテは目を丸くして、恐る恐る地面を探りつつ手を伸ばした。…ヘカーテが転んだ場所から二歩か三歩離れたところで地面が途切れていた。
 そう言えばさっき、私を襲った亡者の悲鳴が糸を引くように小さくなって消えたけど。よくよく考えたら投げられた亡者が地面に落ちる音がまだ聞こえないけど、それは、つまり…。
 気付いた途端に背筋がスーッと寒くなった。震える手でタナトスのローブを掴んで立ち上がろうとした途端、挫いた足に激痛が走った。
 暗いし怖いし足は怪我するし、散々だ。
 ヘカーテが半べそ顔でタナトスを見上げると、銀の神はわざとらしく溜息をついて彼女を抱き上げてその背に銀色の翼を広げた。翼が放つ光は松明よりは多少明るい程度だが、周辺は見えるようになった。
 確かな足取りで歩くタナトスにしがみついたままそーっと下を見ると、良く今まで足を踏み外さなかったなと思うほど道は狭い。

「足元は見ない方がよろしいですよ」
「そ…そうだな」
「さ、あそこがマンドレイクの自生地です」

 ヘカーテが震える声で頷くと銀の神が顎をしゃくった。
 示された方を見ると洞窟の行き止まりらしき場所が小部屋のようになっていた。光を放つ苔が生えているらしく中は仄かに明るい。
 足を挫いているヘカーテをそっと地面に降ろして座らせると、タナトスは群生するマンドレイクを見回した。

「で、幾ついるのです?それから必要なのは成熟したものですか?それとも未熟なものですか?あいにくと成熟したものはここには無いようですが…」
「たくさんあるに越した事は無いな。ところで成熟してるかどうかはどうやって見分け…ってキャーーーーー!!!??」

 目の前に生えていたマンドレイクがいきなりモコモコと地面から這い出し、二股に別れた根を足のように動かして徘徊し始めたのを見てヘカーテは再度悲鳴を上げてタナトスの足にしがみついた。

「何?何?マンドレイクは植物じゃないのか!?」
「植物ですよ」
「じゃあ何で歩いてるんだ!?」
「成熟したら自ら地面から這い出て歩きだす植物ですから。…と言うかヘカーテ様、文献を調べていたのに御存知なかったのですか?」
「そんな事、書いてなかった!」
「………」

 何か突っ込んでやろうかと思ったが、女王様で姐御キャラのヘカーテが半べそ涙目で本気で何かを怖がるなどと希有な光景にお目にかかれた事だし、これ以上追い詰めるのも気の毒だろう…とタナトスは口を噤んだ。
 ひょいと手を伸ばして成熟したマンドレイクを捕まえて持参した袋に放り込むと、まだ足にしがみついていたヘカーテに袋を渡した。バタバタと暴れる袋をおっかなびっくり受け取った美貌の女神に悪戯っ子のような笑みを見せる。

「では未熟なマンドレイクを採取しますね」
「…わざわざそんな断りを入れるとは、採取するときに何かあるのか?」
「特に問題はありませんよ。引きぬく時に人間が聞くと狂死する悲鳴を上げますが、神である我々には煩いだけですから」
「え?」

 言うだけ言ってタナトスは手近なマンドレイクを一本引きぬいた。
 キィィィェェェェィィィィィ!!!!
 マンドレイクが耳をつんざくような絶叫を上げた。思わずヘカーテもびくりとしたが、死の神は意に介する様子もなく次から次へとマンドレイクを引きぬいている。目の前にポンポン投げられてくるマンドレイクをそおっとつまみ上げてヘカーテは袋に押し込んだ。
 根こそぎ取ってしまうのもまずいですから、とタナトスがマンドレイクを引きぬくのをやめた頃には、持参した袋はマンドレイクでパンパンになっていた。




 …もぞもぞ動くマンドレイクの袋を抱えたまま、タナトスに抱きかかえられてケルベロスに乗ったヘカーテは、そっと彼の様子を伺った。
 数日前の不機嫌顔が嘘のような楽しそうな顔をしている。
 ハーデスと話したことでヘカーテに負けた傷心が多少癒えていたし、今回のマンドレイク採取の諸々でそれなりに自尊心を満足させる事が出来たのだろう。

(私がコナゴナにしてしまったプライドは完全回復とは行かないけど、とりあえずの仲直りは出来た…かな)

 ヘカーテは微かに唇に笑みを乗せて、死神の胸にそっと頬を寄せた。




 …ケルベロスに乗ってタルタロスに行っていた死神と氷の女神がエリシオンに戻った時はすっかり日が暮れていて、ハーデス夫妻とヒュプノス、夢の四神は心配そうな顔でふたりの帰りを待っていた。
 タナトスに抱きかかえられて魔犬から降りて来たヘカーテに柔らかな笑顔を見せたベルセフォネーは、彼女が抱えている袋がもぞもぞ動いているのを見て目を丸くした。

「おかえり、ふたりとも。ところでヘカーテ、そのもぞもぞ動いてる袋は何?」
「今回の戦利品、冥界のマンドレイクだ。見るか?」

 袋を開けた途端、マンドレイクが一匹(一本?)袋を飛び出してとことこと逃げ出した。
 ヘカーテはまた大袈裟なほどビクッとしたが、ベルセフォネーは平然とした顔でマンドレイクを追いかけるとひょいと掴んで戻ってきた。

「成熟したマンドレイクが見つかったのね、ラッキーじゃない。ちょろちょろ動くから、逃がさないように気をつけてね」
「………。ベルセフォネー、お前、あれを見て驚かないのか?」
「え?マンドレイクって歩きまわる植物でしょ。どこに驚く要素があるの?」
「………」
「流石は冥妃様。マンドレイクが地面から出て来ただけで悲鳴を上げて俺に抱きついて泣き出したヘカーテ様とは段違いに肝が据わっておいでですね」
「ええ?ヘカーテ、たかが歩く草を泣くほど怖がったの?」

 タナトスがわざとらしくしれっとした顔で言うと、ベルセフォネーが目を丸くしてヘカーテに尋ねた。
 美貌の女神は真っ赤になって死神の発言を否定した。

「なっ…泣いてない、泣いてないぞ!ちょっと驚いただけだ!」
「そっか。驚いてタナトスに抱きついてキャーキャー悲鳴上げてただけなのね」
「うぐ……」
「おかげさまで貴重な体験が出来ましたよ」

 楽しげに笑っているタナトスを見て、どうやら兄の機嫌は直ったらしいと察したヒュプノスがどことなく面白くなさそうな顔で尋ねた。

「ところでタナトス、いつまでヘカーテ様を抱きかかえているつもりだ?降ろして差し上げないのか」
「ああ…ヘカーテ様がタルタロスで亡者に襲われた時に足を挫かれたのだが、捻挫しているかもしれないから下手に歩かせると悪化するかもしれぬと思ってな」
「亡者に襲われた?ヘカーテ様が?」
「ヘカーテが亡者を襲った、の間違いではないのか」
「タルタロスは真っ暗で何も見えないから、亡者に気が付かなかったんだ!そもそもお前達、私を何だと思ってるんだ!」
「ああ失礼、少々意外でしたので」
「まぁ目的は達成できたんだから、捻挫くらい安いもんでしょ。ね?」

 ベルセフォネーの言葉にヘカーテはチラッとタナトスを見上げて、うん、まぁ…と頷いた。
 どうやらタナトスと仲直りは出来たようだし、目的の冥界産マンドレイクも十分な数が手に入ったし、後はマンドレイクを使って目的の薬を作るだけだ。
 何やら上機嫌で『神殿までお送りしますよ』と申し出てくれた死の神に身体を預けて、ヘカーテは嬉しげに微笑んだ。





 数日後、冥府。
 仕事が一段落したので皆でお茶でも…と神々が紅茶や茶菓子を準備をしていると、ヘカーテが鮮やかなルビーレッドの液体を入れたピッチャーを持ってきた。コップになみなみと注ぐと、極上の笑顔と共にタナトスに差し出した。

「タナトス。特製ジュースを作ってみたんだけど、味見を頼めるか?自分では結構美味く出来たと思うんだけどな」
「…頂きます」

 一口飲んでタナトスは怪訝そうな顔で唇をぺろりと舐めた。
 決して不味くは無い。しかし美味いかと聞かれると返事に詰まる、微妙な味だ。

「何と言うか…不思議な味ですね。何が入っているのです?」
「柘榴をベースにハーブを何種類か」
「なるほど、不思議な味わいはハーブのせいですか」
「それとマンドレイク」
「………」

 ヘカーテの言葉を聞くなりタナトスは卓に置いてあったナプキンを引っ掴み、口に含みかけたジュースを吐き出した。
 美貌の女神は目を丸くしてたちまち眉を吊り上げた。

「どうして吐き出すんだ!」
「吐き出しますよ当たり前でしょう!ちょ…何ですかマンドレイク入りって!おかしな味がするわけです、入っているのもハーブじゃなくて薬草でしょう!?そもそもマンドレイクが入ってる時点でこれはジュースじゃなく薬じゃないですか!一体どんな怪しい効果が出るんです!」
「怪しい効果なんて出ないぞ!お前が私に惚れるだけだ!!」
「十分怪しいです!!」

 タナトスは一口『ジュース』を飲んだだけのコップを卓に叩きつけるように置いた。
 見慣れたいつもの夫婦漫才に冥界神々はいつものように突っ込みを入れる。

「ちょっとヘカーテ、マンドレイクが入ってるなんて正直に言っちゃダメじゃない。ハーブで止めておかないと」
「そうですね。マンドレイク入りは言ってもいいけど、効果は言うべきじゃなかったですね」
「突っ込むポイントが違うだろうパンタソス!」
「そんな気にしなくていいでしょうタナトス様。どうせ飲んだところで効果があるとは思えませんし」
「お前も突っ込むポイントが違うぞオネイロス!」
「そもそもヘカーテよ、そなたは薬の力に頼ってタナトスの心を手に入れてそれで本当に満足なのか?己の心に恥ずべきところは無いのか?惚れているならばこそ正攻法で行くべきだと余は思うが」
「うっ…鋭い突っ込みだなハーデス」
「全く持ってハーデス様のおっしゃる通りです。このような卑怯な手段をお使いになることは私も反対です」

 ヒュプノスがハーデスの言葉に深く頷くと、やおらジュースの残ったコップとヘカーテの手にあったピッチャーを取り、何も躊躇うことなく窓から中身を全部外に捨てた。
 ただでさえ足を怪我しているヘカーテが咄嗟にヒュプノスを止めることなど出来るはずもなく、他の神々も予想外の展開に止めに入るタイミングを見事に逃してしまった。

「あ」
「あーっ…」
「ちょ、ヒュプノス」
「情け容赦ないな…」

 ヘカーテ特製の惚れ薬ジュースを惜しげなくエリシオンの花々に注いできたヒュプノスは、涼しい顔で呆然としているヘカーテに空になったピッチャーを返した。
 …その光景を見て、神々は皆同じ事を思った。
 ヘカーテの恋の最大の障害は、タナトスの素直でない性格ではなく、ふたりの神格の差でもなく、筋金入りのブラコンお兄ちゃんっ子であるこの眠りの神だ。


     END      

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