| 騒々しい小娘達が立ち去ると、タナトスはおにぎりのフィルムやおでんの容器を片づけて横倒しのロールケーキをヒュプノスに差し出した。 渡されるままロールケーキとスプーンを受け取って、プリンを丸ごと巻き込んだそれを特に思う事もなく口に運んでいたヒュプノスは、タナトスが含み笑いを浮かべて自分を見ている事に気付いて手を止めた。 「あ…このケーキの感想か?正直、不味くは無いが特別美味でもない。可もなく不可も無し、普通としか言えぬ」 「驚いたか、ヒュプノス?」 「?」 兄の言葉にヒュプノスは目を瞬いた。 会話が噛み合っていない。いや、タナトスの問いはヒュプノスが言ったケーキの感想を意図的に無視したものか?だとしたら…。 タナトスはひょいと手を伸ばしてプリンのロールケーキを一口分掬って口に入れると、唇についたクリームをぺろりと舐めてうーんと唸った。 「確かに普通だ。それ以外の感想が出てこんな」 「………。『驚いたか?』とは、さっきの騒がしい娘達のことか?」 「驚いたか?」 弟神の問いはまた無視して兄神は実に楽しそうに同じ事を尋ねた。 ヒュプノスは『普通』のロールケーキを口に運びながら頷いた。 死の神に臆することなく話しかけ、その署名を欲しがり、更に手に触れる事を望む人間がいるとは。異国の人間だと言う事を差し引いても驚かずにはいられなかった。 「現在の日本人は神を信仰しなくなったと神奈子は言っていたが、本当に神を神とも思わぬ態度で接してくるのだな」 「何をとぼけた事を言っているのだヒュプノスよ。あの小娘達は俺やお前を神と思ってないのだから、神とも思わぬ態度で接してくることに何の疑問もなかろう」 「は?」 兄がさらりと言った言葉に、ヒュプノスはまた目を丸くして驚く羽目になった。 タナトスの言葉を頭で反芻してもまだ理解が追い付いていない弟神の姿に、兄神はフンと鼻を鳴らしてスプーンを突き付けた。 「自国の神すら信じなくなった日本人が、異国の神が日本に観光に来ているなどと信じていると思うか?」 「え…?あ、いや待てタナトス、先ほどの娘達は『死の神タナトスさんですよね』と確認して声をかけて来たではないか」 「『城戸ブランドモデルの』と頭についていたであろう」 「??」 「つまりな、人間達は俺の事を『ギリシア神話の死神タナトスと言うキャラを演じている異国の人間』と認識しているのだ。双子の弟にヒュプノスと名乗らせるなど芸が細かいな、程度に考えているのではないか?」 「ああ…あのネジまわしを付けた娘が『神話の本にはそう書いてあっても、こっちのタナトスさんに弟さんがいるかどうかは』と言っていたのはそういう意味なのか」 漸く兄の説明に理解が追いつき、何となく違和感を感じて引っかかっていた発言の意味に納得したヒュプノスの頭に新たな疑問が浮かんだ。 「…ではタナトスよ、人間達に神だと信じられていないことに不満を感じぬのか?」 「最初は複雑だったが、最近はまぁいいかと思うようになった。本物の神だと力説したところで証明するのは難しいし、証明して信用させたところでメリットがあるどころか要らぬ騒ぎが起きそうだしな」 「まぁ、確かに」 「神奈子が言っていた『神様扱いされても楽しくないより、神様扱いされないが楽しい方が良い』とはこの事なのだろうな。………」 穏やかな色を目に孕んで楽しげに話していたタナトスが、ふと言葉を切って複雑な顔でケーキを掬う手を止めた。何だか、嫌な事を思い出したと言いたげな表情だ。 今の話のどこに兄神が機嫌を損ねる要素があったのかとヒュプノスは首を傾げた。 「どうしたタナトス?神様扱いされない上に楽しくなかった事でもあったのか?」 「いや、そうではない。先日、ヘカーテ様と地上に来た時に今と同じような話をしたのだが、ヘカーテ様がご機嫌を損ねてしまってな…」 「……?今の話のどこにヘカーテ様のご機嫌を損ねる要素があったのだ?」 「『役とは言え一応お前の彼女である私の前で他の女の名を楽しそうに連呼するな!何なんださっきから神奈子神奈子と!そんなに神奈子が好きなら幻想郷に行け、そして戻ってくるな!』だそうだ」 「それはまた…妬かれてしまったか」 「俺は神奈子の信念や意見に感銘を受けたし、神奈子だけでなく諏訪子にも好感を持っているが、それはあいつらが男神でも同じだったと思う。思うのだが、あいつらが女神である以上、そんな理屈は乙女モードのヘカーテ様には通じぬ」 「それで?」 「ヘカーテ様に彼女役を頼んだのは俺だから言い訳まがいの反論をするのはまずいだろう?以後気を付けます、と謝罪してその場は終わったが、後で何かしら埋 め合わせをしておいた方がいいだろうな、これからは神奈子諏訪子ではなく八坂洩矢と言った方がいいかもしれぬ…と思っていたのを思い出した」 「そう、か…」 ヒュプノスは曖昧に言葉を切ってロールケーキを口に入れた。 そっと見れば、タナトスはラ・フランスティーを飲みながらヘカーテの機嫌を損ねた埋め合わせに何をするか考えている風だった。 石ころを飲み込むように柔らかいケーキを嚥下して、ヒュプノスは一度聞きたいと思いながら兄神の返答が怖くて聞けずにいた事を尋ねてみることにした。 いきなり本題に切り込む勇気はなく、そっと外堀に踏み込む。 「…タナトス。お前とヘカーテ様との事なのだが」 「?」 「いつまで恋仲の振りを続けるつもりだ?未来永劫続ける訳にも行かぬだろう」 「いつまでと言われてもな…。案外ずっとこのままではないか?」 弟の問いに、兄はまるで他人事のようにケロリとした顔で答えた。 ヒュプノスはクリームとプリンを掻き混ぜ、マーブル状になるそれを見ながら視線を上げずに本題を切り出した。スプーンを持つ指先が妙に冷たい。 「…もしも」 「ん?」 「もしも、信仰を集めることでお前の神の力が強くなり、ヘカーテ様を上回るほどになったら…お前は、あの方ときちんと恋仲になるとか、あるいは、その、妻として娶るとか、そういう事は、有り得るか?」 「んー………」 兄神はスプーンを咥えて思案顔になった。 数か月前に同じ事を尋ねたなら、即座に否定の言葉が返ってきたはずなのに。 クリームとプリンを混ぜるヒュプノスの手が止まった。 タナトスが口を開くまでのほんの数秒が永遠のように感じられる。 「以前なら迷わず『有り得ぬわ』と断言していたのだろうが、今は『絶対にあり得ない』などと言い切れない時代だからな…」 「………」 「まぁ要するに、俺にも分からん、と言う事だ。相手がヘカーテ様だけに余計にな」 「そう、か…」 安堵すべきなのか、いつかは兄を取られる覚悟を決めておくべきなのか分からずにヒュプノスがマーブル状になったケーキを機械的に口に運ぶと、タナトスがふと眼差しをきつくしてヒュプノスを見た。 「そう言えばヒュプノスよ。パシテアとはどうなっているのだ?お前が恋文を送ってから随分経つが、未だに会ってもいないだろう。何かあったのか?」 「いや、何もない。無難に順調にメールをやり取りしている…」 言い終わるか終らないかのタイミングで額を小突かれた。ギリギリ『小突く』の範疇だが、もうちょっと力を入れれば『殴る』という表現になりそうな力の籠もり方だ。 驚いて顔を上げれば、明らかに苛立っている兄が見えた。 「な…何だ?」 「『何だ』ではない!パシテアはお前の妻なのだぞ、妻!本来なら聖戦が終結した直後に迎えに行って然るべきだろうが!それが何だ、未だにメールで文通だけだと?一体いつの時代の青少年だ!」 「え…あ…」 「神奈子も諏訪子も俺も言ったであろう、『絶対にあり得ないなどと誰にも言い切れない時代になった』と。神話の時代が終わる時、天界に帰る妻を引きとめも せず冥府に留まったお前を、聖戦をやっていた間は連絡も寄越さぬ夫のお前を確かにパシテアは待っていてくれた。だがな、聖戦が終わっても迎えに来るどころ かメールしか寄越さぬお前をのんびりと待っていてくれる保障がどこにある?パシテアがお前に愛想を尽かして他の男に乗り換える事が無いなどと言いきれん ぞ、分かっているのか?俺とヘカーテ様の仲を心配する暇があったら妻をエリシオンに呼び戻す算段でも考えろ!優先順位が間違っているぞ!!」 「………」 兄のご尤もな言い分にヒュプノスは言葉に詰まった。 そうだ、神話の時代の終わりに自分は妻と離れて暮らす道を選んだ。恋焦がれて愛して妻として迎えた女神に冥府に残るよう説得する事もせず、冥妃ベルセフォネーやアテナと共に地上に留まってくれと頼む事もせず、天界に帰る愛妻を黙って見送った。 パシテアと離れる事が辛くなかった訳ではない。それでも自分は妻ではなく主君や兄と共にいる事を選んだのだ。 妻ではなく兄弟を選んだ、その後ろめたさがパシテアを呼び寄せる事を躊躇わせているのかもしれない。その躊躇いが愛妻の心を自分から遠ざけてしまうかもしれない。 (『…そうなっても仕方がない』…以前の私なら、そう言ってパシテアを追う事もしなかったのだろうな) 兄が自分以外の誰かを心の一番高い位置に置き続けることなど絶対にないと信じていたあの頃なら、そう言って静かに目を閉じたのだろう。 タナトスさえいればいい。大好きな兄さえ自分の隣にいてくれればそれでいいと。 だが、兄はヘカーテと結ばれる未来を完全に否定はしなかった。 神奈子も諏訪子もタナトスも言った、『絶対にあり得ない、などと誰にも言い切れない時代になった』と。 それはつまり、『死が眠りの隣からいなくなる事など絶対にあり得ない』とは言い切れない時代になったということだ…。 喉の奥から込み上げる熱い塊を押し戻す様に、ヒュプノスはぼやけたマーブル模様のクリームを塗ったケーキを噛まずに飲みこんだ。 「最早、確かなものなど何もないのかもしれぬな…」 「そうか?」 色々な想いが心におさまりきらず溢れだしてポツリと呟いた言葉に、兄神があっけらかんと言葉を返してきた。 有り得ないほどの呑気な口調に驚き顔を上げれば、タナトスは深刻さの欠片もない顔で、本気で弟の発言を不思議がっている風だ。 ヒュプノスは数回目を瞬き、いや、だって…と口を開いた。 「神奈子も諏訪子もお前も言ったではないか、『絶対にあり得ない、などと誰にも言い切れない時代になった』と。それは即ち『確かなものなど何もない』と言う事ではないいのか」 「まぁ確かに、これから訪れる未来に関してはそうかも知れぬが…今まで積み重ねてきた過去は嘘でも偽りでも幻想でもない、確かな物であろう?そして確かに積み重ねてきた過去から繋がる未来は、生半可な事では揺らがぬ確かなものではないか?」 「………」 「ヒュプノスよ。お前は、我々が神話の時代から今まで紡いで来た一族の絆やハーデス様との絆が確かなものではないと思うのか?違うだろう?この絆はこれからの未来も揺るがぬ確かなものだと、自信を持って断言できるだろう?」 ヒュプノスは目を見開いた。 ああ、なんて。 なんて当たり前すぎる当たり前の事を、当たり前すぎて逆に見落としていた事を、当たり前のような顔をしてさらりと言うのだろう、この兄貴は。 泣き笑いのような表情でヒュプノスが頷くと、タナトスはにこりと笑って自信に満ちた目で言った。 「新しくどんな絆が生まれるか分からぬと言う意味なら、絶対も確かなものもないだろう。だが、今まで我々が築き紡いで来た絆が途切れる事は決してないと、俺は思う。…ただの勘で根拠は無いがな」 「…お前の勘が何よりも確かな根拠だ」 そうだな、タナトス。 私は何を恐れていたのだろう。もしも、もしもお前とヘカーテ様の間に新たな絆が生まれても、それが私とお前の絆を断ち切ることは決してないのに。 心に降りていた冷たい霜が溶けて温かな想いが満ちてくる。凍えていた指先もいつの間にかぬくもりが戻っていた。 プリンとクリームが混ざりきって淡いベージュ色になったケーキを穏やかな表情で口に運ぶ弟の姿に、どこか安心したような表情を浮かべてタナトスは穏やかに言った。 「…本当は、ハーデス様が冥王を名乗って冥界に降りて来て、俺とお前が冥王の臣下になると決めたあの日に言っておこうと思って何となく忘れていたのだがな」 「ん?」 「ヒュプノス。我々の立場や肩書が何になろうと、俺がお前の兄である事、お前が俺の弟である事、我々が世界で唯一の双子の兄弟神である事は決して変わらない。この先何があってもそれは絶対に揺るがぬ事実だ」 「!………」 「そして、俺にとって一番大事で可愛いのがお前だと言う事もまた変わらぬ。何と言ってもお前は、『母上が俺に最初に与えてくれた弟』という宝物なのだからな」 「………!!」 「お前は特別だ、ヒュプノス」 兄神の言葉は愛の告白にも似て。 ヒュプノスは胸の奥から込み上げる熱い塊を必死に飲み下しながら、何度も瞬きして滲みかけた涙を誤魔化した。 そんな弟神の反応に、兄神はしてやったりと言いたげな満足そうな笑みを浮かべてロールケーキの最後の一切れを口に入れた。 釣られて口に入れたプリンのケーキは妙に甘い。最初に口に入れた時よりも美味く感じられるのは気のせいだろうか。 (ああ、そうか…私はこの言葉が欲しかったのだ、ずっと) 言わずとも伝わる間柄ではあっても、きちんと言葉で伝えて欲しかったのだ。『俺にとって一番大事で可愛いのがお前だ』と。『お前は特別だ』と。 そんな短い言葉をこんなにも欲していたなんて。 「私もだ、タナトス」 「ん?」 言わずとも伝わる間柄だからと、きちんと言葉で伝える事の無かった想い。 「私にとって一番大事なのもお前だ。お前は私の唯一の兄で、私に母上が最初に与えてくれた宝物だからな。お前は特別だ、タナトス」 「フン。そんな当たり前の事、わざわざ言われずともとっくに知っていたわ」 「…そうか」 「ま、ヒネクレ者のお前が素直に心情を吐露した事は褒めてやっても良い」 「フフ…今日だけは有難くその言葉を受け取っておくとしよう」 「『今日だけは』は余計だ。いつも有難く受け取れ」 「ならば有難く受け取りたくなるような物言いをしろ」 「………」 「………」 タナトスは唇を曲げる仕草で不満を表現しつつ、変わり種フレーバーの紅茶を飲みつつヒュプノスをじろりと見た。 「では聞くがなヒュプノス」 「何だ」 「俺が一番大事で特別ならハーデス様ご夫妻やパシテアは何なのだ。二番目以降か?」 「ハーデス様ご夫妻は別格、パシテアは格別だ。彼らに関しては順位付けは意味を為さぬ」 「詭弁だな」 「ならお前はどうなのだ」 「俺?」 「私が一番大事で特別ならハーデス様ご夫妻やヘカーテ様は何なのだ。二番目以降か?」 「ハーデス様ご夫妻は別格、ヘカーテ様は別物だ。あの方々はランキング対象外だ」 「その返答は私の模倣ではないか」 「偶然我々の意見が一致していて、偶然お前が先に発言しただけの事だ」 「…そうか。ならばそういう事にしておこう」 「………」 タナトスはまだ何か言いたげだったが、ヒュプノスがロールケーキを食べ終えてスプーンを置いたのを見て、頭の良い弟と口喧嘩をするのはやめようと言う気 になったらしい。変わり種フレーバーの紅茶を飲み干しながら立ち上がってゴミを近くのゴミ箱に放り込むと、いつもと同じ得意気な笑みをヒュプノスに見せ た。 「さて、次は何を見たい?定番の観光名所か?ネタ系の観光名所か?」 「そうだな…では、定番のネタ系観光名所を頼もうか」 「よかろう。ならばこっちだ!」 困惑するどころか鷹揚に頷いてタナトスは先に立って歩き出し、ヒュプノスは慌てて紅茶の残りを飲み干して立ちあがった。 これから永劫に続く未来でもきっと、自分はこうやってタナトスを追いかけて行くのだろう。 何よりも、誰よりも大事な兄を、ずっと。 後ろも見ずにさっさと先に行く兄神を追うヒュプノスの唇は、最上の喜びで柔らかく綻んでいた。 数日後。 ヒュプノスは浮き浮きと弾むような足取りでタナトス神殿を訪ねていた。 兄から誘ってくれるのを待たなくても自分から誘えば良い、という当たり前の事を知ったので、自分なりに調べた地上の名所観光に兄を誘おうと思ったのだ。 …が。 神殿の私室の扉を開けてみればまた兄がいない。何となくだが、前日あたりから留守にしているような雰囲気だ。 オルフェウスでもいないかと部屋の中を見回していると、どこにいたのか小さな猿が駆け寄ってきてヒュプノスのローブの裾を掴んで器用に肩まで上がってきた。 「おや、ジャックではないか」 「キャッ!」 名前を覚えていてもらったのが嬉しかったのか、猿は明るい鳴き声を上げた。何となくだがニコニコしているように見えて、ヒュプノスも口元を綻ばせた。 …そう言えば、タナトスはジャックの事を『主人の外出くらい伝えられる』と言っていたな。 ヒュプノスは冗談半分で肩に乗っているジャックに声をかけた。 「ジャック。私はタナトスに会いに来たのだが、あいつは外出中か?」 「キキー、キャッ」 何だか、『ええ、そうです』と言われた気がするな…と思っていると、ジャックは袖を滑り降りて書棚に走って行き、器用に引き出しを開けてメモらしき紙を掴んでまたヒュプノスの肩に駆け上がると目の前に差し出した。 賢い猿に感心して頭を撫でてやりながらヒュプノスはメモを広げた。そこには見覚えのある兄神の文字。 『先日チラと話をしたが、ヘカーテ様に対する失言の埋め合わせとして地上のオンセンに行ってくる。三日後には帰る予定だ。慰安旅行を兼ねている故オルフェウスとエウリュディケも 連れて行くから、イルカやジャックの世話はお前に任せる。餌の場所などは知っていると思うが、分からなかったらジャックに聞くが良い。緊急の用事があれば携 帯に連絡しろ。ついでに土産の希望が有れば携帯にメールするが良い。考慮してやらん事もないぞ』 …………。 メモを持ったヒュプノスの手がワナワナと震えた。眠りの神の肩に乗っていたジャックがその横顔を見るなりビクッとして一歩下がり、肩から滑り落ち書けて慌ててローブに掴まった。 ヒュプノスは唇を捻じ曲げ眉を吊り上げメモを睨みつけていた。 あの馬鹿兄貴、『彼女』とお泊まり温泉旅行だと?主君と弟には声もかけなかった癖に弟子夫妻は連れて?何だそれは。慰安旅行?馬鹿を言え、それはダブル デートと言うのだろうが。『俺にとって一番大事で可愛いのがお前だ、お前は母上が俺に最初に与えてくれた弟という宝物だ、お前は特別だ』??片腹痛いわ。 言動と行動が矛盾しているではないか!! 兄神が帰ったら何と言って文句をぶつけてやろうか…凄まじい怒りの小宇宙をバリバリと撒き散らしながらヒュプノスが考えていると、その姿を見ていた ジャックが肩から滑り降りて先ほどの書棚に走って行って、別のメモを持ってヒュプノスの肩に駆け上がり金紗の髪をぐいぐいと引っ張った。 「何だ!………」 思わず怒鳴りかけたヒュプノスの前に別のメモが差し出された。 苛々しながらメモを開くと。 『確かに俺はお前が一番大事だし特別だと思っている。しかしそれとこれは話が別だ。ついでに言っておくがお前とパシテアとの復縁が順調ならば俺はお前達夫 婦を誘ったぞ。地上から帰って来てからお前はパシテアに何かしらアクションを起こしたか?何もしてないだろう。ハーデス様でさえ妃の帰還が時間の問題と なったのに、お前は一体いつまでヤモメでいるつもりだ?俺にぶつける文句を考えている暇があるならパシテアを呼び戻す言葉でも考えろ。先日も言ったが優先 順位を間違えるなよ、この非リア充が』 ヒュプノスの頬がビキビキと引き攣った。 ご丁寧にも、弟がどんな反応をするか見越した上で二枚目のメモを用意してあったとは。 …確かに自分は、兄と地上に行ったあの日から今日までの数日間にパシテアに対して何も行動を起こさなかった。しかしそれはどう行動すべきか考えていたた めであって、妻を呼び戻す意思が無いわけでは決してない。今回、兄を地上に誘おうと思ったのもその相談をしたかったからだ。 なのに。 それなのに、あの馬鹿兄貴は!言うに事欠いて『この非リア充が』だと?言いたい事は分かるが、もっと適切な言い方があるだろう。覚えたばかりの人間の下らぬ言葉を嬉々として使って、お前はそれでも古の神か!! ヒュプノスは懐に入れてあった携帯を取り出して、兄にメールを出すため猛然とキーを打った。 『リア充爆発しろ!!』 |
| 星矢部屋 | 総合目次 | SS・2012時代 | SS・神話時代 | SS・蟹座達 |
| 予定よりちょい長くなりましたが、書きたかった要素は全部入れて「兄弟」シリーズはここで完結です。タナトスはヒュプノスをどう思っているのか、ヘカー
テとの今後の関係をどう考えているのか。出番は多い割に心理描写が少ないタナトスの心情をここできちんと披露できて、カッコいい事も言わせたし(つも
り)、何だかやり遂げた感があったりします(笑)。そしてヒュプノスも妻をエリシオンに呼んでまた一緒に暮らす事をちゃんと真面目に考えてるんだよ、とい
うのも書けて良かった。 他の誰かに大好きな兄を取られる事を心配するヒュプノスに、「俺がお前の兄だと言う事は何も変わらん」と言うタナトス、と言うネタは「黎明」の頃からあ りました。随分と長いキャッチボールになりましたが、「黎明」ではなくここで言ってもらって良かったとSSを書き終えた今では思います。 終盤の後日談は入れない方が後味がいいかなぁと悩んで、「結局、表面上は元通りになりました」という終わり方にしたかったので入れることにしました。こ のシリーズは時間軸的に「幻想」と「感謝ノ心」の中間に位置する話です。なので、この一件を経てヒュプノスはちょっとだけタナトスに対して素直に気持ちを 告げるようにはなってます。 双子神以外のキャラが(名前は出るけど)顔出ししないSSって、案外これが初めてかもしれない…。 そして終盤、「置いてけぼり食らったヒュプがタナトスに『リア充爆発しろ』とメールする、というオチは神託のように降りてきました(笑)。知らず知らずにヒュプも地上の変な文化に感化されてると言う、そんな感じです。 あとは細かい部分ですが、ヒュプノスがロールケーキのクリームとプリンを混ぜてマーブル模様にするくだりは、LCで杳馬がやってたような、「複雑な感情が縺れて絡んでいる心情」の演出です。で、それが混ざりきった=気持ちの整理がついたと。 |