| 天馬星座の聖衣
が神々しい光を放つ。 「タナトス!お前は所詮、死を弄ぶだけの二流の神だったようだな!」 まっすぐに迷いない眼をした黒髪の少年が叫び、直後、体を貫くほどの衝撃がタナトスを襲った。耐えきれず膝をつき、前のめりに倒れる。 (バ…馬鹿な…神である俺が、人間に敗れるなんて…神が…人間に……!) 人間如きに! 視界が霞み、体の感覚が鈍くなる。 双子の片割れが倒されるのが分かっても指先すら動かせない。 主君ハーデスが真の肉体と共に目覚めた小宇宙を感じた直後、彼の意識は闇に呑まれた。 ――爽やかな風が吹き、光が柔らかく降り注ぎ、可憐な花が咲き乱れる極楽浄土エリシオン。中央には冥王ハーデスの神殿があり、そこから東西に少し離れた 丘の上には鏡に映したかのように左右対称の白亜の神殿がそびえている。 まるで双子のような建物の片方、西の丘に建つ方に彼はいた。 絹糸のような銀色の髪、どこまでも底のない透明な銀色の瞳とそれを縁取る銀色の睫毛。秀でた額には五芒星の徴があり、その顔も肢体も決して人間にはあり えぬ完璧さで非の打ちどころがない。 神殿の主、死を司る神タナトスだ。 「何故……」 知らず呟いた言葉が風に乗って舞う。 …時は数刻前。 小癪なアテナの聖闘士に敗北を喫するという最悪の極みのような夢で目を覚まし、それが夢でなかったことを思い出して行き場のない怒りを自分が寝ていた寝 台に力いっぱい叩きつけ、過ぎたことに憤っても何の得にもならぬと無理やり自分を納得させ、まずは今の状況を確認しなければ、ここは一体どこなのだ妙に見 覚えのある部屋ばかりだがと神殿の入口まで来て、眼前の光景に怒りも忘れて見入っていたのだ。 エリシオンの光景は記憶の中にあるそれと変わらない。戦女神との聖戦すら夢か幻だったかのように。 「何故、無事なのだ…?」 「エリシオンが有ることがそんなに不思議か?」 「!」 甘くからかう女の声に目を向けた死の神は、声の主を認めてそれなりに礼儀に叶った会釈をした。 冥王ハーデスの側近に親しげに声をかけてきたのは女神ヘカーテ。現在の身分こそ冥妃ベルセフォネーの侍女兼親友だが、オリンポス十二神に勝るとも劣らぬ 神格と実力の持ち主だ。冥界の諸々に介入することは少ないが、立場的には冥王と双子神の間…つまりタナトスの上司にあたる。 「ご無沙汰しております、ヘカーテ様。相変わらずどこを見れば良いのか判らぬ程のお美しさで何より」 「なんだその意味不明な褒め言葉は」 ヘカーテは気を良くした様子も悪くした様子もなく紫水晶の瞳を細めて笑った。 長くしなやかな薄藤色の髪を宝石のピンで留め、纏う漆黒のローブは彼女の悩ましげな曲線を描く身体を隠しているようでいて逆に強調し際どく肌を露出する デザインだ。 言葉通りの意味なのだが…と思いながらタナトスはエリシオンを見回した。 「ところでヘカーテ様。何故エリシオンが無事なのか理由をご存知ですか?」 「むしろ私は、お前やヒュプノスが『エリシオンが無事のはずがない』と思っていた理由が判らんが」 「ヒュプノスは俺より先に目覚めたのですか」 「数日前にな。お前と同じように、神殿の入口で『何故エリシオンが無事なのか』と言いたげな顔で突っ立っていた」 「そのヒュプノスは『エリシオンが無事のはずがない』と思っていた理由を言わなかったのですか」 「『エリシオンが無事のはずがない』と思ってはいたが、無事なエリシオンを見て大体の事情を察したそうだ。…お前は察せないのか?」 「…生憎と先ほど目覚めたばかりなので」 この言葉を発したのが兄弟や人間達なら罰を与えてやるところだが、相手が相手だ。軽く眉根を寄せて控え目に不快感を見せながら無難な言葉を返すと、美貌 の女神は面白そうに微笑んだ。中途半端な者なら震え上がるタナトスの不穏な小宇宙をそよ風のように受け流して。 「ならばまず私の質問に答えてくれ。お前は何故、エリシオンが無事のはずがないと思っていたんだ?」 「この冥界は、冥府タルタロスと地上の狭間、エレボスの闇にハーデス様が造られたもの。ハーデス様のお力を遥かに超える負荷には耐え切れぬはず」 「ふむ。真の肉体で目覚めたハーデスとお前達がアテナや神聖衣を纏った聖闘士共と全力でぶつかりあったら、エリシオンはそのエネルギーを支えきれず崩壊す ると…お前達は考えていたわけだな」 「エリシオンだけでなく冥界全てが、です」 「なるほどな」 頷いたヘカーテは、魅惑的な流し目をくれつつ艶っぽい唇に指を当ててくすくすと笑うばかりで質問に答えてくれる様子はない。そろそろ我慢の限界が来たタ ナトスは唇を曲げた。 「質問に答えて頂けないのなら俺はヒュプノスを探しに行きますが」 「いくら馬鹿でも可愛い息子達だ、危機に瀕しているのを知って放っておけなかったのだろうよ」 「………!」 「冥界全てを消滅から救うとは…流石は偉大な夜の女神ニュクス様というところか。まぁ『救った』と言ってもここと第一獄以外は見事なまでに瓦礫の山で柱一 本も満足に残っていないがな」 「……母上が…」 呆然とタナトスは呟いた。 双子神の母、夜の女神ニュクス。 その統治下に争いは無いと称えられるほどの神格を持つ仲裁の女神は、己の息子達が主君ハーデスに従い戦女神アテナと戦うことを…勝ち目のない戦を始める ことを許してくれた。それが貴方達の意思ならば、と目を閉じてくれた。 (何かあった時に罰を受けるのは俺とヒュプノスだけでいい…そう思ったから、俺達に何かあっても手出しは無用、アテナと戦うのはあくまでも我々の独断で夜 の一族とは何の関わりもないと知らぬ存ぜぬを貫いてくれと、あれほど頼んでおいたというのに…。母上、……) 複雑に沈黙する死の神に冥界の女神は親しげな眼差しを向けた。 「久々にタルタロスに戻るがいい。顔を見せれば母上や兄弟達も喜ぶだろう」 「しかしハーデス様お一人を残していくわけには」 タナトスはハーデスの神殿に目を向けた。 冥界の王に『死』は存在しない。しかし神殿から感じる主の小宇宙は弱々しく、彼がアテナ達に負わされた傷は決して浅くなかったことは嫌でも分かる。そし て、臣下である自分達の力不足ゆえにハーデスが深手を負ったのだということも。 守り切れなかった主君をほったらかして家族に会いに行くなど、あまりにも無責任ではないか。 そんなタナトスの考えを見透かしたようにヘカーテは口を開いた。どことなく楽しげに、唇を綻ばせて。 「詳しいきさつは端折るが、冥界と聖域は女神ニュクスの名の元に一時休戦している。故にアテナの手勢がこのエリシオンに攻め込んでくる可能性は皆無だ。約 束を反故にしたら冥界の神々全てを敵に回すことになるからな。それに、ニュクス様からお前達にお説教…じゃなかった、話もあるようだったし、さっさと帰省 するのがよかろう。お前達の留守はこのヘカーテが責任持って預かるから、何も心配いらないぞ」 「………。お心遣い、痛み入ります」 仏頂面で礼を言ったタナトスに、ヘカーテはますます嬉しそうに目を細めた。 長の無沙汰で忘れかけていたが、この氷の女神、双子神を…とくに兄神をおちょくるのが大好きなのだった。これ以上無駄話を続けては要らぬストレスがたま るばかりと判断したタナトスは、恐らくまだ眠っているであろうハーデスを見舞うのはやめてさっさとタルタロスに向かうことにした。 慇懃に別れの一礼をして女神の前を辞そうとした死神の背中に、実に楽しそうな声が飛んできた。 「ああそうだ、言い忘れていた。ヒュプノスはタルタロスではなく第一獄に向かったぞ」 「………」 …ヘカーテでなければ手加減なしで一発殴ってやるところだ。 苦虫を百匹ほど噛み潰したような顔で、タナトスはタルタロスに通じる神殿奥に向かいかけていた足を方向転換した。 生身の人間がたどり着くことができる冥界の最深部、かつて嘆きの壁があった場所に彼らはいた。魔星に選ばれ覚醒したハーデスの忠実な手駒、冥闘士達。偉大 な女神の慈悲と力のお零れに預かった彼らは、僅かずつではあるが冥界に戻ってきているのだ。聖戦は既に終結し、彼らの仕事と言えば崩壊した建物の復旧作業 しかなかったが、表立って不満を口にしたり逃げ出したりする者はいなかった。 …目立たない場所でボヤく者はいたが。 「あーあ、せっかく生き返って冥界に戻ってきたのに、パンド ラ様はいないし、やることと言えば瓦礫の撤去に嘆きの壁の再建?やんなっちゃうよなぁ、僕、肉体労働得意じゃないのに…」 地獣星ケット・シーのチェシャは、サボっていると分からな い程度に体を動かしながら呟いた。 聖闘士達に大穴を開けられた後、アテナとハーデスの戦いの 小宇宙に耐え切れず、エリシオンに続く神々の空間を固く閉ざす嘆きの壁は崩壊した…と、ラダマ ンティスは言っていた。その話はナントカという冥界のえらーい女神様の受け売りらしい。ついでに嘆きの壁を真っ先に修復せよという命令もそのナントカとい う女神様のご命令らしい。だから、三巨頭のラダマンティスとアイアコスまでも参加してせっせと崩れた壁を直している訳だ。 ちなみにミーノスは比較的被害がマシだった第一獄の復旧に 当たっている。 チェシャはのろのろと拾い集めた瓦礫の欠片を投げやりな態 度で台車に放り込んだ。 「何かこう、体に負担のかからない楽な仕事、ないかなぁ」 「ならば第一獄の応援に行くか?」 不意に頭上から降ってきた声にビクリと顔を上げれば、くっ きりと意思の強そうな真一文字の眉の男が、隕石かと思うほどバカでかい岩を担いで立っていた。 「ニャッ!?ラダマンティス様!?」 「書物の片付けなら肉体に負担のかかることもないだろう」 「うー…まぁ、それはそうなんですけどぉ…」 チェシャは口を尖らせてもじもじと手を組んだ。 人類の歴史を記した貴重な書物を蔵していた第一獄は、そこ を管轄していたミーノスとルネ、その部下達が復旧に当たっている。主な仕事は倒れた本棚を元の 位置に設置し、散らばった書物をカテゴリごと順番通りに並べ替えることだ。数日前に第一獄への移動を提案されたのなら二つ返事で引き受けただろうが、今は 状況が違う。 ハーデスの側近、双子神の片割れヒュプノスが今、第一獄に いるのだ。しかもご丁寧に従属神の夢の神々まで一緒に。 ヒュプノスは慈悲深く心の広い神だが、うっかり粗相をした らゴメンナサイでは済まないだろうな…などと思うと、いくら仕事が楽でも第一獄に行くのは迷ってしまう。 …と。 巨大な小宇宙が近づくのを感じて、ラダマンティスとチェ シャは半ば脊髄反射で膝を折り頭を垂れ傅いた。 俯いた視界の中に銀色の光が爆ぜるのが見える。その光の正 体が放つ威圧的で攻撃的な空気にチェシャは背中を冷たい汗が流れるのを感じた。 そぉっと上目づかいに光の主を確認した。数日前にここを 通った金色の神に酷似した姿から察するに、眠りの神の双子の兄、死の神タナトスだろう。お世辞にもご機嫌が麗しいとは言えない顔をしているし、纏うオーラ も『不機嫌』と色が付いている気がする。 何に腹を立てているのだろう?女神の聖闘士達に敗北を喫したのは面白かろうはずがないが、今更ムカつくことではない…と思う。百歩譲って思い出し怒りだと しても、何でまたハーデスのいるエリシオンを離れて死の神までもこんなとこに来るのか。眠りの神がエリシオンにいなかったことに腹を立てて探しに来たのだ ろうか。 何でもいいから早く立ち去ってくれないかな…と願うチェ シャの前に苛立ちを隠しもしない靴音が近づいてきて、不意に止まった。 「貴様、三巨頭だな?」 ひたすら低くした頭上から高圧的な声が降ってきた。 そっと横を見ると、ラダマンティスが額に脂汗を浮かべてい た。 「ハ。ワイバーンのラダマンティスにございます」 「三巨頭ともあろう者が土木作業か?」 「万が一に備えて嘆きの壁を最優先で復旧せよ、と女神ヘカー テ様よりご命令がありました故」 ヘカーテの名前を聞いた途端、タナトスはますます不愉快そ うな顔になった。 「ヒュプノスは第一獄に向かったと聞いたが、事実か?」 「数日前にお出ましになった際、第一獄に向かうと仰せでござ いました」 「…なら良い」 何がどう良いのかチェシャには分からなかったが、死の神は 納得したように頷いて踵を返した。 漆黒のローブの裾が視界の隅で翻り、尊大な足音が遠ざか る。死の気配が嘆きの壁から消えてやっと、チェシャははーっと息をついてへなへなと床に座り込んだ。手の平は冷や汗でじっとりと濡れていた。見上げればラ ダマンティスも緊張の糸が切れたような顔をしている。 「ラダマンティス様」 「何だ」 「僕、やっぱりここで嘆きの壁の復旧作業、します。うっかり タナトス様の頭に本を落っことしたりしたら、せっかく戻ってきた僕の命が落ちちゃいそうだし」 「…手を抜いていたら第一獄の手伝いに出すからな。そのつも りで真面目に働くのだぞ」 「ははは、はいぃぃ」 ラダマンティスにじろりと睨まれ、チェシャは直立不動で敬 礼した。 |
| 星矢部屋 |
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SS・蟹座達 |
| 久
々にSSを書いたので、しばらくは勘が戻らず手探り状態で書いては消し書いては消ししてやっと始まった話です。いきなりLC・無印未登場のヘカーテを出し
てくるあたりがいかにも私(苦笑)。NDでは小さな女の子の姿で登場してた気がしますが、当サイトではお色気系の美貌のお姉さんです。 後、一番悩んだのは無印ヒュプの「ハーデスが復活すればエリシオンは崩壊する」というセリフ。何でそんな自爆装置みたいなの付いてるの!?と思って、悩ん でこじつけたのが「ハーデスが作った冥界は神々の本気の戦いを支えられるほど丈夫じゃない」って理屈でした。なので、タナトスも無意識に力をセーブして 戦っていた、という裏設定があります。 |