| …地上へ続く長い道を、冷たい妻の手を握って、オルフェウスはただ黙々と歩いていた。 ハーデスの謁見の間を辞した直後はエウリュディケが戻ってきた嬉しさで長い道のりなど全く気にならなかった。彼女への想いは堰を切ったように溢れ出て、話したいことがたくさんあって、地上に着くまでに全て話すことは出来ないんじゃないかと思っていた。 だが、歩けど歩けど地上は見えてこず、無限と思えた話題もいつしか尽きてしまった。黙りこくったまま歩き始めてどのくらいたつのか、それすら分からない。 一刻も早く地上に戻りたいのに、エウリュディケにペースを合わせているせいで急ぎたくても急げない焦れったさも積もっていた。 神によって空間が捻じ曲げられているのではないか、そんな疑念が浮かんだ時。 「漸くアケローン河に到着か」 「全く…女の足に合わせると大変だな」 「そう言うな、タナトス。たまには冥界をゆっくり散歩するのも悪くなかろう」 監視と護衛と言う名目で同行していた双子神の声にオルフェウスははっと我に返った。 目の前に広がるのはアケローン河の雲海。 河の渡し守にも見覚えがある。死者以外は船に乗せられぬという彼を、妻への思いを表現した琴の演奏で説得したのだった。 渡し守は奇妙な一行に不思議そうに首を傾げた。 「あんたは確か、奥さん取り戻しに来た琴のお兄さんだよな。後ろの美人さんはともかく、なんで兄貴達まで一緒なんだ?」 「ハーデス様とベルセフォネー様がその男の妻への愛に感動し、地上に着くまで後ろを振り返らないという条件で妻を返してやったのだ。我々はその男が振り返らぬか監視するためと、事情を知らぬ奴から彼らを守るために同行している」 「へーえ。ヒュプノス兄貴はともかく、タナトス兄貴まで死人を返すことに同意するとはねぇ」 「俺は同意した覚えはない。…いいからさっさと船を出せ、カロン」 「はいはい、そういうことね。了解、了解」 カロンはケラケラ笑ってオルフェウス夫妻と双子神を船に乗せ、ゆっくりと船を漕ぎだした。 …後ろを振り向けないオルフェウスは船の舳先部分に腰を降ろしてエウリュディケの冷たい手を握っていた。 船は歯痒いほどゆっくりと雲海を進んでいる。 もっと早く進んでくれと喉まで出かかる言葉を噛み潰し、オルフェウスはただひたすら前を見つめていた。背後では神々の兄弟が他愛もない世間話をしている。ぼんやりと聞き流していたが、アリスタイオスと言う名前が出た時、オルフェウスは思わず耳をそばだてた。 「へー、じゃあタナトス兄貴はその『事件現場』に居合わせたんだ?」 「居合わせたというわけではない。アリスタイオスが俺をじーっと見ていたから何か用かと尋ねただけだ」 「『テメー死神様にガン飛ばしやがってどういうつもりだ、喧嘩売ってるのかゴルァ』って?」 「あのな」 「それでアリスタイオスは何と?」 「家畜の世話をしていたら見目麗しいニンフ達が近くを散歩していて、一目惚れした勢いでお茶に誘ったが、見た目が災いして話も聞いてもらえずに逃げられた…と自分の外見と父親似のドン臭い性格を嘆いていたな」 「アリスタイオスってそんなに見た目アレな奴だっけ?一応アポロンの息子でしょ?」 「いや、モルペウスより厳つい体格の強面だったと記憶しているが」 「あー、そりゃニンフが怖がるのもしゃーないね。ご愁傷様って奴だな」 …何だって? エウリュディケを死に追いやったのは師の息子? いや、そもそもアリスタイオスはエウリュディケに危害を加えるつもりはなかったのにエウリュディケが過剰に怖がってしまったのか? ビクリと震えたのは自分の手か、それともエウリュディケの手か。 波立つオルフェウスの心など知らない神々は何でもない事のように話を続けている。 「…ん?そうなると、アリスタイオスは自分がナンパしたニンフが死んだことは知らないってこと?」 「フラれたから仕方ない、と潔く諦めていたから知らないのではないか?」 「あーそれでかぁ。やっとここ最近の噂に納得がいったぜ」 「噂?」 「森のニンフ達が『エウリュディケの敵討ち』と称してアリスタイオスの蜂を皆殺しにしたんだけど、当のアリスタイオスは『何でか分かんないけど僕の大事な 蜂が死んじゃった!』ってママに泣きつきに行ったって噂だよ。ニンフを追いかけまわして殺しておいて『何でか分かんないけど』って何だよって思ってたんだ けど、追いかけた相手が死んだ事を知らなかったんならそうなるなぁ」 「養蜂神の蜂を皆殺しか…神の存在意義を全否定したに等しいな」 「息子がそこまでされて、身内を害す者には容赦しないアポロンは素知らぬ顔なのか?」 双子神が何でもない事のように口にした物騒な言葉にオルフェウスは息を呑んだ。 琴を抱えた指先も、握りしめたエウリュディケの手もひどく冷たい。 息子神が自身の存在意義を否定された原因がエウリュディケにあると知ったら、アポロンは見逃してくれないかもしれない。でも、誠心誠意謝れば赦してくれるだろうか。どんなに謝っても赦してくれないだろうか。それとも。 既に何かしらの罰を僕に与えているのだろうか…? 神々のおしゃべりはもはやオルフェウスの耳には届かなかった。 ただ、言い知れぬ不安が心の中で急激に膨らんでいった。 ぐらり、と船が 揺れてオルフェウスは我に返った。 漸く船が対岸に着いたのだ。 オルフェウス夫妻と兄二人を降ろしたカロンはふと首を傾げた。 「…あれ?今気がついたけど、俺ってばひょっとしてタダ働き?」 「ハーデス様のご命令だ、タダも何もないだろう」 「えー。ビジネスライクがカロン様の信条なのにぃ」 「ならばハーデス様への請求書でも用意しておくのだな」 兄の言葉に何事かぼやくカロンと別れて足を進めると巨大な門が見えてきた。 地上と冥界の境界の象徴、地獄門。そのアーチには『ここに入る者 一切の希望を捨てよ』の文字が刻まれていた。 (僕は希望を捨てずにこの門をくぐった。そして愛するエウリュディケを取り戻した。取り戻すんだ…) オルフェウスは足を止めて門を見上げた。 このまま振り返らずに地上に戻ればいい。そうすればまたエウリュディケと幸せに暮らせるんだ。 愛するエウリュディケと…。 「この門を過ぎれば地上は目と鼻の先だな」 「念のため言うが、この門を通っても地上に戻ったことにはならぬぞ。陽の光の下に出るまで振り返るなよ」 背後から投げられた神々の言葉に無言で頷いて、オルフェウスは妻の冷たい手を握り直して門をくぐった。 地上まで、あと少し。 薄暗い洞窟に足音が響く。オルフェウス自身の足音、神々の足音、そしてエウリュディケの足音。 エウリュディケの、足音…。 ………。 …エウリュディケの足音が聞こえない…? (エウリュディケ…本当に、今、僕の後ろにいるのか?) …何を馬鹿な! オルフェウスは、一瞬脳裏をよぎった恐ろしい考えを慌てて打ち消した。 エウリュディケは身軽で小柄なニンフだ。足音が聞こえなくても何もおかしくない。大体、僕がこうしてエウリュディケの手を握ってるじゃないか。冥王と冥 妃が返してくれたエウリュディケの手を、こうして…。 (…僕が握っているこの手の主は、本当に、間違いなく、エウリュディケなのか…?) 神々が言っていたじゃないか、アポロンは身内を害す者には容赦しないと。僕がエウリュディケを返してくれと冥王に頼みに行くことを知って、アポロン様が 予め冥王夫妻に手を回していた可能性がないとどうして言い切れる? 一度疑い始めるともう止まらなかった。 そもそも冥王が連れてきたエウリュディケは本当に僕のエウリュディケだったろうか? 確か、眠りの神ヒュプノスの配下には誰にでも何にでも完璧に姿を変えられる神…モルペウスがいたはず。その神がエウリュディケの姿をしていたのでは? 妻を返してもらったと信じて喜んでいる僕を見て神々は嘲笑っているんじゃないか? 僕の後ろにいるのは、僕がエウリュディケだと思って手を繋いでいるのは、モルペウスじゃないのか? 地上に出て真実に気付いて更なる絶望を味わうことがアポロン様が僕に与えた罰なんじゃ? 心の片隅に生まれた疑心は急速に膨れ上がってオルフェウスの心を蝕んでいった。 汗ばむ手で妻の手を握り締めて、オルフェウスは震える声を押しだした。 「ねぇ…そこにいるのは、僕の愛したエウリュディケ、だよね…?」 「ええ、そうよ。急にそんなことを聞くなんて…どうしたの、オルフェウス?」 驚いたような妻の声。 随分と久しぶりに聞いたような気がする、妻の声。 ねぇ、エウリュディケ。 君の声はそんなに冷たかったっけ? 僕の後ろにいる君は、誰? 誰、なんだ…? 限界を超えた猜疑心が冥王との約束を忘れさせた。 オルフェウスは、 決して後ろを振り返ってはならぬという約束を忘れ、 後ろを、 振り向いた。 … ……… …………… 妻は、いた。 間違いなく彼の愛するエウリュディケが、オルフェウスの後ろを、ついてきていた。 オルフェウスはほっとした。 ああ良かった、ちゃんと僕のエウリュディケだった。 驚愕に見開かれた妻の眼にははたちまち涙が浮かんだ。 「オルフェウス…どうして…」 エウリュディケ?どうしたの? どうしてそんな驚いた顔をしているの?どうしてそんな泣きだしそうな顔をしているの? どうして?……… 「………!!!」 エウリュディケの涙と言葉の意味、そして己の行動の意味にオルフェウスが気付いた時には、愛する妻は既に死と眠りに囚われていた。 銀の神は怒りを、金の神は悲しみをその眼に孕んでオルフェウスを見つめていた。 「ハーデス様とベルセフォネー様のお慈悲を無にするとはな…」 「やはり人間はどうしようもなく愚かだ…」 「――エウリュディケ!!!」 妻に駆け寄ろうと手を伸ばしたその刹那、銀色の光が迸った。 オルフェウスの指先を掠めて一閃した光は死神の大鎌に具現化してエウリュディケの喉元にぴたりと当てがわれていた。 「即刻ここから立ち去れ、裏切り者よ。さもなくばお前の妻の首を刎ねてくれようぞ」 「タナトス様!?」 「妻は死者故、首を刎ねられても何もないなどと思わぬことだ。冥界において死者がタナトスに命を摘まれると言うことは、即ち魂の消滅を意味する」 「………!」 ほんの数歩、手を伸ばせば届く場所にいる妻が果てしなく遠い。 オルフェウスはがくがくと震えその場に手をつきへたり込んだ。 地上は、陽の光は、すぐそこに見えていたのに。 神へのつまらぬ疑念で全てを失った男を信じた女に、神々は憐みの籠もった視線を向けた。 「エウリュディケ。最後に夫に言いたい事はあるか?」 「別れを告げる時間くらいは与えてやっても良いぞ」 「………」 エウリュディケは死と眠りの神を見遣り、オルフェウスを見て、散りゆく儚い花のように微笑んだ。 悲しそうに、優しく。 「オルフェウス…」 「………」 「私、幸せだった。あなたに会えて良かった。その気持ちは今も変わらないわ」 「エウリュディケ…」 「生きてね、オルフェウス。私の分まで生きて、幸せになって。約束よ?」 「ダメだ、エウリュディケ、君がいないと、僕は…」 「別れの挨拶は済んだな」 「待って、待ってくださ…」 必死に伸ばした手は届かなかった。 闇に銀と金の閃光が煌めいて、眩しさに一瞬目を閉じたオルフェウスが再び目を開けた時には、そこにはもう誰の姿もなかった…。 「はーァ?もっぺん冥府に行きたいから船に乗せろ、だァ!?」 息をするのも忘れたようにアケローン河まで走ってきたオルフェウスの懇願に、渡し守カロンはあからさまに呆れた顔になった。 「兄ちゃんよ、寝言っつーのは夢の世界で言うもんだ。死の世界で言うもんじゃないんだぜ?死と眠りはパッと見そっくりだが実際は全くの別もんだ。うちの兄 貴達見ても分かるだろ?」 「分かってます。分かった上でお願いしているんです。どうか、どうか、もう一度ハーデス様にお目通りを…」 「馬鹿言っちゃいけねーぜ。お前さんがハーデス様との約束破って振り向いたこと、俺が知らないとでも思ってんのか?」 「それは本当に申し訳ないと思っています。だからお詫びを申し上げて、もう一度…」 「ダメだ、ダメダメ。それは出来ない相談だ」 「そこを何とか、お願いします!」 取りつく島もないカロンを何とか説得しようと、オルフェウスは以前と同じように竪琴を爪弾いて妻への想いを奏で始めた。 自分の演奏を聴けばきっと、心を動かして頼みを聞いてくれる…そんな期待はカロンのあくびで脆くも砕け散った。 予想外の反応に、オルフェウスは思わず竪琴を奏でる手を止めた。 気だるそうに組んだ手をオールに乗せてカロンはじろりとオルフェウスを見た。 「…兄ちゃんさぁ、俺やハーデス様達がお前さんの頼みを聞いてやったのは、お前さんの琴の演奏に感動したから、とか思ってないか?」 「えっ…違うんですか?」 「『違うんですか?』だと?こりゃー傑作だ、『違うんですか?』と来やがったか!勘違いもここまでくればご立派だな、ハハハハハハ!!」 「………」 「自惚れんのも大概にしとけよ、人間」 哄笑の名残を口元に残しながらカロンは凍りつくような視線をオルフェウスに向けた。 「俺達はお前さんの妻を想う気持ちに感動したから頼みを聞いてやったんだ。琴の演奏に感心したからじゃ決してないんだぜ。そこんとこ間違えんなよ」 「………」 「俺達は常日頃から神の琴を聞いてるんだ。地上の人間やニンフの基準ではお前さんは天才詩人かもしれねーけど、神々基準では子供のお遊戯レベル、お前さん の妻への想いが偽物だったと判明した今では耳汚しの雑音に等しいな」 「神の琴というと…アポロン様ですか?」 自分の琴の腕に少なからずの自信を持っていたオルフェウスは、カロンの発言を聞き逃せず問い返した。 音楽の神アポロンと比べてお遊戯だと言うのなら納得できないこともないが、逆に言えばアポロン以外の誰かに…たとえ神であっても…自分の琴の演奏が劣っ ているなど有り得ないという自負もあった。 オルフェウスの表情からそんな想いを感じ取ったのか、カロンは皮肉っぽく口元を歪めて笑った。 「オリンポスの神がわざわざ冥界まで琴を弾きに来るかよ、馬鹿が。俺が言ってる琴の奏者はタナトス兄貴だよ」 「タナトス…様?」 「その時の気分でムラっ気はあるが、アポロンに勝るとも劣らないレベルだぜ。ま、兄貴がオリンポス神殿以外の地上で琴の演奏をお披露目したことはないから 人間のお前さんが知らなくても無理はないけどな。…お、噂をすれば」 必死の頼みを無下に断られた苛立ちからオルフェウスが微かな反発を覚えた時、どこからか琴の音が流れてきた。 師匠アポロンとは毛色も方向性も違う、しかしアポロンの演奏にも匹敵するほど美しい旋律。 「どこぞの裏切り者の演奏で耳が汚れちまったからな、冥王夫妻に兄貴が演奏を捧げてるんだろうよ。口直しならぬ耳直しってやつだ」 「………」 オルフェウスは言葉を失った。疲労とは別の理由で足が震えて止まらない。 レベルが違うとか格が違うとか、そういう次元の話ではなかった。根本的な世界が違う、違いすぎる。天才と言われるオルフェウスだからこそ、自分と神の違 いを嫌というほど思い知らされた。 神の心を動かせる武器を何一つ自分は持っていないということを。 愛するエウリュディケを取り戻す手段は全て失われたということを。 絶望で目の前が真っ暗になった。 「分かったらおとなしく地上に帰んな。お前さんが死んだ時は頼まれなくたって船に乗せてやるからよ」 渡し守の言葉に何も言葉を返さず、抜け殻になったオルフェウスはふらふらと地上に向かって歩き出した。 涙が枯れるまで泣いた後は、彼の中にはエウリュディケへの想いだけしか残っていなかった。 |
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| ここで出てくるカロンは天間星の冥闘士じゃないです。ニュクスとその夫エレボスの息子で、双子神の弟です。渡し守をしながら死者からいろんな噂を聞いてるって事で。 |