| …一年後。 エウリュディケの墓はペネイオス河の上流、険しく切り立った崖の近くにあった。 オルフェウスはその墓前で琴を弾いていた。 妻が好きだった優しく明るいメロディが吹き抜ける風に乗って運ばれていく。 オルフェウスは愛しい妻に触れるように墓に触れた。 「エウリュディケ。君の最後の願い、僕は叶えられなかったよ。何度も君を忘れようとした。幸せになろうとした。でも、駄目だった。眩しい太陽も、清い河 も、爽やかな風も、綺麗な乙女も…君を失って空っぽになった僕の心を満たしてはくれなかった。やっぱり僕は君がいないとダメみたいだ。だから僕は決めた よ、君のいる世界に行こうって」 そっと微笑んでオルフェウスは立ち上がった。 迷いない足取りで崖の上に向かう。 「ああエウリュディケ。早く君に会いたいな」 オルフェウスは僅かな躊躇いもなく崖から身を投げた。 タナトスはレスボス島の海岸を歩いていた。 白い砂に刻まれた死神の足跡を波が洗い流していく。 月の光に照らされた銀色の琴が輝いているのを見つけて足を向けた。 琴の傍らには若い男が倒れている。 死の気配を感じたのか男は眼を開け、神の姿を認めて唇に淡く笑みを乗せた。 「タナトス様、来て下さったんですね。良かった…」 「死神が迎えに来たのに『良かった』か?」 「だって、あなたが来てくれなかったら、冥府に行けないのでしょう?」 オルフェウスの穏やかな微笑みに落ち着かなさを感じて、タナトスは視線を海に逸らして彼の傍らに腰を下ろした。 「愛する女との約束を破って、更に自ら命を絶ってまで妻に会いたかったのか?」 「約束…また、破っちゃいましたね。僕、本当に、ダメな夫だな…」 生きてね、オルフェウス。私の分まで生きて、幸せになって。約束よ? エウリュディケとの約束は果たせなかった。 胸を締め付ける痛みにオルフェウスの目から涙が零れた。 肺にまで水が入っているからだろう、しんどそうに言葉を続ける。 「エウリュディケ、怒ってるかな…冥府に行っても、怒って僕に会ってくれなかったら、どうしよう…」 「………。お前の妻はエリシオンでお前が来るのを待っている。お前にエリシオンに入る資格があるかどうか心配しているようだが、今の冥界にはベルセフォ ネー様がい るからな。あのお方が頼めば、ハーデス様は無条件でお前のエリシオン行きに許可を出すだろう」 「…タナトス様は、それで、いいんです、か?」 「俺はハーデス様の臣下だ。主君の決めたことに口を出す権限はない」 つまり死神様は、ちょっとした規則違反を見て見ぬ振りしてくれるということだ。 ひねくれたタナトスの言葉を正しく理解したオルフェウスが穏やかに目元を和ませるのを見て、銀の神はますます仏頂面になった。 血も涙もない冷酷非情な死神と恐れられ嫌われる彼は、人間から好意的な感情を向けられることに慣れていない。慣れていないからどう対応すればいいのか分 からなくて、分からないもどかしさが不愉快なのだ。 「タナトス様。畏れながら、最後のお願いを…しても、よろしいですか?」 「願うのは勝手だ。俺が聞き届けてやるかどうかは別だがな」 「琴を、弾いて頂けませんか」 「………」 「冥界で、タナトス様の琴を聞いた時、僕は、足が震えて、打ちのめされて、でも、感動して、忘れられなくて…。あの素晴らしい旋律を、最後に、」 タナトスは子供のようにぽかんとして、慌てて不機嫌そうな顔を作って、いかにも渋々と言う仕草でオルフェウスの琴を拾った。 神であるこの俺が人間の琴など…とぶつくさ言いながらも弦を爪弾いたが。 海水で濡れた琴の弦はすっかり緩んでまともな音は鳴らなかった。 残念そうな顔をしたオルフェウスの眼の光が弱くなる。彼の寿命がもうすぐ尽きてしまうのだ。最早、耳も聞こえまい。 死神はいかにも忌々しそうに舌打ちをして、懐から取り出した銀色の砂が入った砂時計をひっくり返した。オルフェウスに残された残り時間をほんの僅かだけ 伸ばしてやったのだ。 光が戻ったオルフェウスの目には、タナトスに対する感謝と尊敬と憧憬と敬愛の色が見える。そのくすぐったい視線を全力で無視して、タナトスはさっさと琴 の修理を終えた。 「こんな玩具のような琴では碌な音が出せん。精々アポロンの弟子レベルだ」 「ありがとうございます…」 あくまでも不機嫌な顔のまま、タナトスは琴を奏で始めた。 青白い月の光が照らす海岸に人の指では決して生みだせない至上の旋律が流れていく。 「ああ、やっぱり、神様の演奏は、すごいです、ね…冥界に行ったら、僕、タナトス様に、弟子入り、しようか…な…そして、エウリュディケと、ずっ と…。………」 幸せそうに呟いてオルフェウスはそっと目を閉じた。 死神の奏でる琴の余韻が波間に消える。 安らかな眠りにつくような顔で息を引き取ったオルフェウスに複雑な視線を落として、死を司る神は銀の短剣でその髪を一房切り取った。 立ち上がったタナトスは、さて…と顎に手を当てた。 オルフェウスの魂は冥府に連れていくとして竪琴はどうしたものか。冥府まで持って行ってやってもいいが、そこまで親切にしてやったらオルフェウスに変に感 謝されそうな嫌な予感がする。かといって捨て置いたら『どうして竪琴を持ってきてあげなかったの?』とベルセフォネーから文句を言 われかねない。 悩んでいると、背後から砂を踏む足音が聞こえた。 こんな辺鄙な場所に誰が…と振り向いたタナトスは、足音の主を認めて片膝をつき頭を垂れた。 「そんなに畏まらなくとも良いぞ、死の神よ。儂がここにいるのはあくまでも個人的な事情だからな」 「女性との逢瀬、ですか?」 「…儂はそんなにヘラ以外の女と密会しているイメージがあるのか?」 「堂々とお会いになるのは『密会』とは言わぬかと思いますが」 「これでもヘラの眼は盗んでおるぞ。つかそなた、相変わらず毒舌だな」 「申し訳ありません」 形ばかりの謝罪にゼウスはひょいと片眉を吊り上げて苦笑した。 神々の王、全能神と称される彼だが、人当たりが良く気さくな性質で格下の神ともざっくばらんな付き合いをしている。そんな八方美人的な処世術を夜の一族 は冷めた目で見ていたが、無益な争いは極力避けると言うゼウスの基本姿勢を否定する理由もなかったので、会えば世間話をする程度の無難な付き合いを 維持していた。 畏まらなくとも良い、のお言葉に甘えて立ち上がったタナトスはわざととぼけて話を続けた。 「で、奥様の目を盗んでまで会いたい美女がこの島に…」 「おらぬわ!儂の目的はその男じゃ」 「え?」 「念のために言うが変な意味ではないぞ。その男の純愛、儂は実に感動したのだ。不幸にも命を落とした妻を追って冥府まで行き、兄ハーデスを説得して取り戻 し、しかし地上に連れ帰ることは 叶わず、愛妻を忘れられずに美しい乙女たちの求愛をすべて拒否して、最後は妻を追って命を断つなどなかなか出来る事ではないぞ」 「そう…ですね」 確かに美しい乙女たちの求愛をすべて拒否するのは、あなたには出来ないだろうな。 タナトスの内心の突っ込みに気付いたのか、ゼウスはこほんと咳払いしてひときわ厳格な声で続けた。 「と…とにかく、儂は久方ぶりに人間の行いに感動したのだ!そこで、彼を星座にしてやろうと思うてな。ここまで出向いたという訳だ」 「なるほど。それは良いご決断ですね。………」 辺鄙な島に主神が自ら足を運んだ事情にタナトスは納得し、ふと、何となく小脇に抱えていた竪琴の存在を思い出した。 始末に迷っていたオルフェウスの竪琴…。 ゼウスを見ると、海岸に倒れたオルフェウスの傍に膝をついてその顔を覗きこんでいる。 「ほほう、なかなかいい男じゃの。既に星座になった者たちにも引けを取らぬわ」 「…ゼウス様」 「ん?何じゃ?」 「星座になった人間の男は既に何人もおります。その男の肉体を星座にしてもせっかくの個性が埋没してしまうのではありませぬか」 「む…言われてみれば確かにそうじゃな」 「そこで俺から提案があるのですが。その男が愛用していたこの琴を星座にするというのは如何でしょう?」 差し出された竪琴を受け取って、ゼウスはしげしげとそれを眺めた。 海に落ちてしまったがタナトスが神の力で直したので、以前より美しいくらいに輝いている。 「ふむ。冥王の心を動かす旋律を生み出した琴を星座に、か…。なかなか良いアイデアかもしれぬな。空が男や動物ばかりで埋め尽くされてもむさ苦しいしの う…」 「まったくもって同感です」 「よし!ではこの竪琴を星座としよう!」 即断即決即実行。 ゼウスは竪琴をそのまま夜空に上げ星座にした。 タナトスは銀の瞳を眇めてオルフェウスの象徴を見上げた。 (冥王との約束を反故にしたのに、エリシオンでの妻との暮らしを約束され、しかも主神ゼウスの目に留まり星座となるとは…まったくもって幸運な人間よ、オ ルフェウス) 事の顛末に悪い気がしない理由が何故なのかは分からなかったけれど、きっと、これで良かったのだろう。 青白い月の下で、銀色の死神の唇がそっと淡い笑みに彩られた。 |
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続きがありますが蛇足です。本当に蛇足です。話の雰囲気も結構変わります。コメディって言うかギャグです。書いてて楽しかったですけど(笑)。人間に好感
を持たれて戸惑うタナトスが可愛くて仕方無くて、ちょっとだけ続きを…と思ったら3話使っちゃた。どうしてこうなった。 |