| …冥界、エリシオン。 タナトス付きのニンフが神殿の奥の間に引っ込んでいる主人の元にやってきた。 「タナトス様。タナトス様へのお目通りを求めてオルフェウスが…」 「入れるな、追い返せ」 「畏まりました」 オルフェウスがタナトスを訪ねては門前払いされるのはもはやエリシオンの日常風景だ。主人の返答は聞かずとも分かっていたのだろう、ニンフは不思議そう な顔をすることもなく場を辞した。 豪奢な長椅子に半ば寝そべって何やら不貞腐れている様子の兄に、ヒュプノスは読みかけの本から目を上げて微かに笑った。無論、それを見逃すタナトスでは ない。 「…何がおかしい」 「そう睨むな、タナトスよ。アポロンの血を引いた訳でもないのにオルフェウスの諦めの悪さは奴にそっくりだと思っただけだ。実に面白いではないか」 「部外者のお前は面白いかもしれぬが、俺は大迷惑だ!うっかり琴も弾けぬし神殿の外にも出られん!」 「それは大変だ」 言葉とは裏腹にヒュプノスは楽しそうで、タナトスはますます眉間に皺を寄せて苦い顔になった。 事の発端は冥界入りしたオルフェウスがエリシオンに来たことだった。 話題の人物がやってくると言うことで、冥王夫妻だけでなくヘカーテやら双子神付きのニンフ達まで様子を見に来ていた。 そして、エリシオンで最愛の妻と再会したオルフェウスは、人目もはばからずエウリュディケと熱い涙と抱擁と口付けを交わし、女性達は貰い泣きし、ハーデ スとヒュプノスは温かく微笑み、タナトスは何とも言えず落ち着かないムズムズを感じながらその光景を見ていたのだが。 愛妻との「感動の再会」を終えたオルフェウスは誰も予想しなかった行動に出た。 タナトスの姿を見つけると、輝くような笑顔で駆け寄ってその足元に膝まづき、この上もなく真剣な顔になってこう言ったのだ。 「タナトス様。僕をあなた様の弟子にしてください!!」 …一体何がどうなってそうなるのか。 当然、理由を尋ねた。 エウリュディケを取り戻すのに失敗したあの時に聞いたタナトスの琴に足が震えるほど感動したこと。口では厳しい事を言いながら、その奥にある死神の優し い心に感銘を受けたこと。自分に残された時間を延ばしてまで琴を直して演奏を聞かせてくれたことにも、主神ゼウスに星座にしてもらえるだけでも大変な名誉 なのに、他のものに埋没しては可哀想だとオルフェウスの肉体ではなく琴を星座にするよう進言してくれたことにも感激したこと。タナトスに出会ったことで自 分の身の程を思い知り、同時に神の巨きさに心をうたれ、その偉大さの一端だけでも学びたいと思ったこと…を、オルフェウスは子供のようにキラキラと目を輝 かせて熱心に語った。 間違っているとは言い切れないが、何やら変な勘違いをしたまま明後日の方向に突っ走った話の内容にタナトスは唖然とし、ハーデスは感心し、ヘカーテは爆 笑し、ベルセフォネーは笑い転げ、ヒュプノスは必死に笑いを噛み殺すあまり涙目になっていた。 無論、タナトスは即座に拒否した。死神が人間を弟子にするなど何の冗談か、寝言は寝てから言うがいい…しかし、冷たい返事にもオルフェウスは全くへこた れなかった。 「僕は冥王様との約束を反故にするような愚かな人間です。簡単に弟子入りを認めて頂けるなどと自惚れてはおりません。でも僕は本気です、好い返事を頂くま で絶対に諦めません!」 …どうしてあの時、「ならば勝手にするがいい」などと言ってしまったのか。 それからオルフェウスは、日に一度必ず弟子入り志願のために神殿を訪れ、タナトスが琴を弾けば聞きに来て、外出すれば後を追従し、地上に行く時は忠犬の ごとく見送りと出迎えに来た。鬱陶しいことこの上ない。 タナトスはぶつくさと続けた。 「余りにも俺に纏わりついてくるから、『せっかく再会した妻をほったらかしていいのか』と尋ねたら、あの馬鹿は何と答えたと思う?『エウリュディケとの仲 まで気遣って下さってありがとうございます』だぞ!」 「筋金入りのポジティブ思考だな」 「ポジティブとかそういう次元の話ではない!奴が何か勘違いしているようだから数日前もはっきり言ったのだ、『お前が俺に弟子入りしたい気持ちは本物だと 分かった上で俺は拒否しているのだ』とな。そうしたら『やっと僕が本気だと分かってくださったんですね!』と大喜びだ。どうしてそうなるのだ!」 「弟子入りを拒否されるのは当たり前と認識しているから、拒否の言葉は耳を通り過ぎて他の言葉だけに反応するのではないか?」 「〜〜〜〜〜っ!!」 「オルフェウスに弟子入りを諦めろと言っても無理であろう。一度弟子入りを許可して、適当な理由を付けて破門にすれば良いではないか」 「俺は神だぞ。そんな無責任なことができるか!」 ますますむくれてそっぽを向く兄神に弟神は読みかけの本に視線を戻したが、その口元は柔らかく微笑んでいる。 ヒュプノスはちゃんと分かっているのだ。 タナトスは、熱心なオルフェウスに困惑しているものの嫌悪を感じている訳ではない。短気な彼が本気でオルフェウスを煩わしいと思っているなら、言葉で遠 ざ けるなど面倒なことはせず実力で排除しているはずだ。鬱陶しいという理由で人間一人消した程度でタナトスが咎められることはないのだから。 タナトスは戸惑っているのだろう、とヒュプノスは思う。 人間から真っ直ぐで熱い思慕を寄せられた事に戸惑い、それに嫌悪を感じない自分自身にも戸惑い、生まれて初めての経験にどう対応していいのか分からな い。歯痒くて、焦れったくて、もどかしくて、しかしそれが不快ではない事にまた戸惑っている。 捉えどころのないむず痒さに苛立つタナトスに、ヒュプノスはそっと言葉をかけた。 「…タナトスよ。常に傍らにいて言葉をかけ、手とり足とり何かを指導するだけが師弟ではあるまい。離れた所から自分の姿を見て何かを学べ、学んだことがあ れば報告に来るが良いと命じれば、あの愚直な男は喜んでその言葉に従うであろう」 「ヒュプノスよ。お前は、神である俺に人間を弟子にしろと勧めるのか」 「そうすれば何かしら見えてくるものがあるやもしれぬぞ。例えば…」 お前の心を柔らかく満たす未知の感情の正体とか、戸惑うばかりでどうすればよいのか分からないもどかしさの対処法とかな。 最後まで言わずとも伝わったらしく、タナトスは複雑な顔で目を逸らして沈黙した。 …神殿の入口でオルフェウスが奏でている、夢見るような竪琴の旋律が聞こえてきた。 …その頃。 死の神に門前払いを食らったオルフェウスは、微塵もへこたれた様子もなく竪琴を奏でていた。 隣には愛するエウリュディケ、そして周囲にはすっかり妻と仲良くなったエリシオンのニンフ達が演奏を聴きに集まっている。 柔らかに吹き抜ける西風にエウリュディケが靡く髪を押さえた。 「タナトス様へのお目通り、今日も赦して頂けなかったわね」 「仕方ないさ。あの方は神様なんだ、本来なら人間の僕が簡単にお目にかかれるような存在じゃないよ」 「…お目にかかれなかったのに全然落ち込んでないのね、オルフェウス?」 「僕が弟子入りしたい気持ちが本当だって事、タナトス様は分かって下さってたんだ。だから嬉しくて嬉しくて。それに、この琴ならタナトス様も僕の演奏を聞 いてくださるかもしれないし」 オルフェウスは真っ白な琴を愛おしげに爪弾いた。 双子神の従兄弟であるキュクロプス達が、タナトスに弟子入りしたがっているオルフェウスの話を聞いて大層喜び、彼のために匠の逸品を造ってくれたのだ。 キュクロプス達はオリンポス十二神の武具から双子神の竪琴や横笛まで造った冥界の凄腕鍛冶屋だ。そんな職人に琴をプレゼントしてもらったとあっては絶対 に弟子入りを諦めるわけにはいかない!と、オルフェウスの情熱は燃え上がるばかりだった。 高揚する想いを琴に乗せて奏でていると。 「知らぬ間にタナトスの琴の腕がガタガタに落ちているなと思えば、弟子入り志望の人間だったか」 「!?」 頭上から降ってきた女の声に驚いて見上げると、藤色の眼をした妖艶な美女がふくよかな唇に甘い笑みを浮かべているのが目に入った。 …冥界の女神ヘカーテだ。隣には冥妃ベルセフォネーもいる。 ニンフたちもエウリュディケも神の登場に頭を垂れ傅いたが、オルフェウスは琴を奏でる手を止めたままぽかーんとしていた。 所謂『清純派』の乙女が多いエリシオンにおいてヘカーテは異色の存在だった。 長くしなやかな髪を宝石のピンで留め、僅かにピンからこぼれた髪が絶妙な色気を感じさせ、完璧な曲線を描く肢体を包む漆黒のローブは肌の大半を隠しつつ もポイントを押さえて際どく露出させているせいで逆に扇情的だ。袖は肩から滑り落ちそうで、滑り落ちたら胸元が露になるような際どいデザインだった。纏う 小宇宙にも大人の色気が馥郁と香っている。 (こんな綺麗な女神様がエリシオンにいたっけ?) エリシオンに来てエウリュディケに再会したその場にヘカーテも同席していたのだが、その時はオルフェウスの目にはエウリュディケ(と、タナトス)しか 入っていなかったので、彼にとっては事実上これが初対面だった。 エウリュディケが睨むのにも気付かず美貌の女神を見つめるオルフェウスに、ヘカーテは危ういほどに開いた胸元を強調する姿勢で尋ねた。 「主人の帰りを待っているのか?忠犬君」 「え?あ…いえ、タナトス様へのお目通りが叶わなかったので、ここでお出ましを待っているのです」 「夫があまりに追いかけて回るので、タナトス様は辟易されて神殿に閉じこもられているのではないかと心配しているのですが…」 「はぁ?辟易して神殿に閉じこもるって、あのタナトスがか?」 「ないない、それはないわ。タナトスが本気で辟易してるんだったら閉じこもる前に蹴り飛ばすわよ」 エウリュディケの言葉を聞いた女神達は彼女の心配を笑い飛ばした。 タナトスと長い付き合いのある冥界の神々は彼の性格を良く知っている。 タナトスが神殿に閉じこもっているのは、オルフェウスの真っ直ぐな好意と情熱に戸惑ってどう対応するべきか分からずにいるからだ。しかし遅かれ早かれ根 負けしてオルフェウスの弟子入りを認めるだろう。男神達と女神達の見解は一致していた。 …見解『だけ』は。 ハーデスとヒュプノスはタナトスが自分で決断するまで見守るつもりでいたが、ベルセフォネーとヘカーテは悠長に待つ気などさらさらなかった。 ベルセフォネーは自分が地上に帰る前にコトの決着を見たいから、ヘカーテは自分が茶々を入れた方が面白いと思っているから。実に自分勝手な理由である。 「つまりタナトスは踏ん切りがつかなくてあーでもないこーでもないと言い訳してるわけね」 「得意分野以外では歯痒いほど優柔不断な奴よな」 「全くもって同感ね。ハーデスが『タナトスの気持ちが固まるまで待てば良い』って言うから我慢して待ってたけど、オルフェウスが来てからもう何ヶ月も経つ のに未だにウダってるなんて…」 「ここはひとつ、私達が一肌脱いであの馬鹿の背中を押してやる必要があるな」 「そ…そんな、冥妃様達のお手を煩わせるなどと恐れ多い!タナトス様の了承が頂けないのはただ僕の力不足…」 「人間よ」 ヘカーテは唇が触れ合うほど間近からオルフェウスを覗き込み、頬を撫でながら妖艶に微笑んだ。 たちまち顔を赤らめてうっとりと見惚れる詩人に極上の流し目をくれて甘い声で囁く。 「神の慈悲は有難く受け取るものだぞ?」 「そうそう。私達も好きでやってることだから気にしなくていいのよ」 頷いたオルフェウスに二柱の女神はにっこりと笑い、神殿に入って行った。 ぼんやりと夢見る瞳で琴の演奏を再開した夫に複雑な目を向けて、エウリュディケは尋ねるタイミングを逃した疑問をひとりごちた。 タナトス様ご本人の意思意向を女神様達は完全に無視されているようだけど、それでいいのかしら? タナトス神殿の奥の間に先ほどのニンフが再度やってきたのを見て、タナトスは怪訝そうな顔になった。 「今度は何だ?」 「ベルセフォネー様とヘカーテ様がお見えです。タナトス様に折り入って大事なお話があるとか…」 「………?分かった、お通ししろ」 「畏まりました」 部屋を仕切る薄衣の向こうにニンフの姿を見送り双子神は顔を見合わせた。 「あのお二方が気にかけるような案件が今の冥界にあったか?」 「特になかったと思うが。そもそも重要な話ならご自身の神殿に我等を呼ぶのが通常では…。………」 「………」 何気なくヒュプノスが口にした言葉に兄弟神は黙り込んだ。 格上の女神達が大事な話をするために臣下の神殿に出向くなど通常はありえないことで、そう言う時には碌な事がないというのが今までのパターンだ。 たちまちヒュプノスは表情を曇らせた。 「そう言えばハーデス様が浮気をしたあの時は、お二方がこの神殿に来られてハーデス様より先にお前を尋問したのだったな。浮気の手引きをしたのはお前だろ うとか言って…」 「嫌な記憶を思い出させるな!」 「ああ、すまぬ。悪い方ばかりに考えるのは私の悪い癖だ、考えすぎであろうな」 「…しかし何の話であろう?」 何となく落ち着かずどちらともなく沈黙していると、薄衣を優雅に開けてベルセフォネーとヘカーテが姿を見せた。 |
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| ヒュプノスは特に用事が無くても何となくタナトス神殿に顔を出すイメージがあります。逆はあんまりないけど。つまりヒュプはブラコンなのです。口ではあーだこーだ言うけどお兄ちゃんべったりなんです。 |