双子神・神話時代 …午睡…
後編

 ちょっと申し訳なかったかなぁと思いつつ、仕掛けた悪戯が成功したような気持ちでベルセフォネーは臣下の双子神に声をかけた。

「こんなとこまで押しかけちゃってごめんね。びっくりした?」
「…はい、かなり」
「あ、やっぱり?………」

 ベルセフォネーの無邪気な笑みは、臣下達の透明な目がはっきりと怒りの色を孕んでいるのに気付いた途端に固まった。
 タナトスは足を組んでその足の上に片腕を乗せてきつい目で冥妃を見つめ、ヒュプノスは冷ややかな怒りを孕んだ視線を足元に落として両腕を組んだ。

「冥妃様が処女神のお友達をご同伴で男神の寝室にお出ましになるとは…このタナト ス、文字通り夢にも思っておりませんでした。このような形でご訪問の予定があると事前にお話があったのならとても忘れる事は出来ぬと思うのですが、生憎と 記憶にございません。最近は何かと忙しくしておりました故、きちんとお話があったにもかかわらず俺の記憶から抜け落ちてしまったのでしょうか?」

 タナトスの声は低く静かで口調は丁寧かつ慇懃で、それが逆に彼の怒りの激しさを物語っていた。ヒュプノスの冷ややかな沈黙もひたすら不気味だ。
 これはマズイ。冗談で赦されるラインを踏み越えてしまったらしい。
 溜め息と苦笑で終わるか、激怒と厭味が来るかと思っていたベルセフォネーとヘカーテは予想外の展開に冷や汗をかき始めた。
 アテナとアルテミスは、洒落にならない事態になった事は分かるが退席するに出来ず、ひやひやしながら見守るしかできなかった。
 額に汗を浮かべたベルセフォネーが引き攣りかけた笑みを浮かべて両手を振った。

「う…ううん、この訪問は完全に突発って言うか、予定外なの。いきなり行ってびっくりさせちゃえ!って思って。ほんの悪戯心だったの、あの、あと、イルカも見たかったし。この間見せてもらった曲芸、凄かったから」
「その程度の理由で、冥妃様ともあろうお方が、処女神のお友達をご同伴で、身内でも ない異性の寝室をご訪問とは…。どこで誰が見ているやも分からぬのです、有らぬ誤解を招いて事実無根の噂が流れたら如何なさるおつもりだったのです?アテ ナ様やアルテミス様、悪くすればお二方を処女神と認めた大神ゼウスやあなたの夫である冥王ハーデスの名誉に関わる問題になりかねない。悪戯で済ますのは些 か軽はずみに過ぎるのではないかと存じますが」
「あ…うん…そ、そうね、本当にそうだわ。ごめんなさい…」
「タナトス、お前だって分かっているだろう?ベルセフォネーを唆したのは私だ。抗議するなら私だろう」
「ヘカーテ様のお立場は冥妃様の侍女でございましょう。侍女の提言を了承したのは冥妃様。違いますか?」

 銀の神はまさに己が司る死そのものの冷ややかさで上司の女神の言葉を切り捨て、氷点下に凍りついた銀色の視線を向けた。

「それとも何か?冥妃様が制止されるのを振り切って、嫌がる姫君達をヘカーテ様が強引に引きずってここまで来たとでもおっしゃるのですか。あるいはハーデス様がヘカーテ様の提言を了承し是非にとお勧めになったとか?」
「…それは…」
「ここに来たのは私達の独断、ハーデスは知らないわ。無許可訪問を提案したのはヘカーテだけどOKしたのは私。アテナとアルテミスは私達が引っ張ってきたの。あなたの言うとおりだわ、軽はずみ過ぎる行動だったわね。本当にごめんなさい」
「誘われて付いてきちゃった私達も悪いんです。謝ります、ごめんなさい。何かおかしな噂が流れたら父には私達からちゃんと説明します」
「本当に失礼な事をしました、ごめんなさい。もう二度としません。だからベルセフォネーを怒らないで下さい」
「タナトス。皆、心底反省してるし赦してやってくれ。『無断で私室に入るのはまずいだろう』と言うこいつらを煽って連れ出したのは私なんだ」
「………」

 ぺしゃんこにヘコんでいる冥妃と、本気でしょげているアテナとアルテミスと、珍しく真剣なヘカーテの姿にタナトスは細く長く息を吐きだした。その眼に揺らめいていた怒りの色はだいぶおさまったように見える。
 死の神は先ほどよりは落ち着いた声で話を続けた。

「今回の一件をどう処理するか決める権限は我々にはありません。ハーデス様にご報告の上で指示を仰ぎます。よろしいですね?」
「………」

 弟神と女神達が頷くのを見てタナトスが寝台から立ち上がりかけたその時。

「タナトス。いるだろうか?入っても構わぬか?」

 幾重にも張り巡らされた薄絹の反対側からまさにその冥王の声がした。
 余りのタイミングの良さに目を丸くしつつ、どうぞお入りください、とタナトスは答えた。
 …薄衣を開けて臣下の寝室に入ってきたハーデスは、まだピリピリした空気を纏った双子神と、しょげてバツの悪そうな顔をしている女神達を見て大よその状況を察したらしい。
 私室なので略式の礼をしたタナトスは皆の疑問を代表して尋ねた。

「ハーデス様、何故ここに?」
「オルフェウスが深刻な顔で余を訪ねて来たのだ。『タナトス様は離宮でお寝みだと思うのですが、女神様達がタナトス様を訪問なさるそうです。あの様子だと寝室にまで入ってしまうおつもりかも知れません』とな。…杞憂で有って欲しいと思っていたのだが…」

 残念だ、と呟くハーデスの後ろにオルフェウスが気配を消すように控えている。
 冥王は手近にあった椅子に腰を降ろして妻に視線を向けた。

「経緯を話してくれ、ベルセフォネー。誰かをかばう必要はない故、正直にな」
「えっと、あの…」

 ベルセフォネーは小さな声でポツポツと『突撃訪問』に至った経緯と事の次第、タナトスに自分達の行動がいかに軽率だったか指摘された事、一件の決着をどうするかハーデスに指示を仰ごうとしていた事まで、包み隠さず正直に話した。
 誰も口を開かないのを見て、冥妃の話に隠し事も嘘も無いと判断したハーデスは何故か咎めるような目を臣下に向けた。

「タナトスよ」
「は」
「そなた何故、一番重要な事を皆に告げなかったのだ?ヒュプノスも何故指摘しなかった?言う必要が無いと思ったなどとは言わさぬぞ」
「………」
「一番重要な事?」
「今回の事が公になった時、真っ先にあらぬ疑いをかけられるのはタナトスだと言う事だ。一体どんな理由が有って冥王の妃と処女神達を自身の寝室に招き入れたのか、とな」

 ハーデスの言葉に女神達はハッと虚をつかれた顔になり、双子神は表情を変えないまま口を噤んでいる。
 冥王は視線を忠臣に向けたまま淡々と言葉を続けた。

「尋ねたのが余ならばタナトスも経緯を正直に言えるだろうし、余もその言葉を信じるであろう。しかし同じ事をゼウスが尋ねたらどうだ?『あなたの娘の冥妃 が侍女に唆されて、友人であるあなたの娘の処女神を誘って、無断で寝室まで入り込んで来たのです』などと、正直に話せると思うか?お前達や余やゼウスの名 誉を思って、何も言えずに口を噤むしかないのではないか?」
「………」
「仮に話したとして、それが信じてもらえるか?信じてはもらえても事実として認めてもらえず、馬鹿な事を言うな嘘をつくなと言われたらどうする?事実を証 明できるものなど何もないのだ。ゼウスが己や娘達の立場や名誉を守るために、タナトスひとりを悪者にして切り捨てるなど有り得ないと言い切れるか?お前達 のした事はただの悪戯ではない。夜の一族の長兄タナトスの名誉も立場も地に堕とし、漸く良好な関係に戻りつつある大地と夜の間に二度と埋められぬ溝を造り かねない行為だったのだぞ」

 ハーデスに言われて初めて事の重大さを理解した女神達は、青ざめた顔で双子神を見つめた。そんな重要な事をどうして黙っていたのかと。
 冥王はふうっと息を吐いて、先ほどよりは砕けた口調で話しかけた。

「皆が本当に反省して落ち込んでいるから今回の一件がおかしな形でゼウスの耳に入る事は有るまい。それなら最悪のケースを告げて今以上に追い詰める必要は ないと、タナトスは思った…そしてヒュプノスはタナトスの考えを察したから何も言わなかった…。ふたり揃って重要な事を黙っていた理由はこんなところだろ うか、兄上?」
「………。うら若き女性を精神的に追い詰め過ぎると碌な結果にならぬ事が往々にしてありますので」
「なるほど。余も心に留めておこう」

 仏頂面のままタナトスが告げた言葉に冥王は鷹揚に頷き、それで…とベルセフォネーを見遣った。

「ベルセフォネー。そなたがタナトスやヒュプノスを実の兄以上に慕っているのは余も良く知っている。だからと言って、イルカが見たいという理由だけで、そなたがアテナやアルテミスを連れて寝室にまで押しかけるとは思えぬ。他に何か理由があったのだろう?」
「………。アテナやアルテミスに、ふたりのこと、もっと知ってほしかったの。タナトスもヒュプノスも大人で真面目でお固いばっかりじゃない、気さくで親しみやすい一面もあるんだって事、どうしても教えたくて、つい…」
「…そう言えばそなた、オルフェウスがタナトスへの弟子入りを志願していた時にもそのような事を言っていたな」

 冥王が微かに口元を綻ばせた。
 あの日、人間の詩人を弟子にするよう死神に勧めに来た冥妃は言った。『タナトスはあんまり素直じゃないとこもあるけど、優しくて明るくて頼りになって意外に可愛いところもあったりして、オリンポ スの神よりずっと常識的だし魅力的なのよ!私のお義兄さんのこと何も知らないくせに 勝手なこと言わないで!って声を大にして言いたかったの。だから、オルフェウスがタナトスの事をちゃんと分かってくれたのがすごく嬉しい』と。
 あの時の嬉しそうな冥妃の顔を思い出した双子神は、ほんの少しだけ…弟分ハーデスが辛うじて分かる程度にだけ、表情を和らげた。
 臣下の心が和らいだのを見てハーデスはまとめに入った。

「タナトス、ヒュプノス」
「は」
「此度の妃の無礼は、大好きな『義兄上』の魅力を友人に教えたい一心で肝心な事を見落とした結果起きた事。そなたらを実の兄以上に想い慕っている故の心の 緩みもあったろう。だが見ての通り妃はしでかした事の重大性に気付き十二分に反省している。今回だけは余に免じて大目に見てやってくれぬか?無論、万が一 が起きた時には余はそなたらを全力で守る。余自身や妃や姪達や、ゼウスの名誉に傷がつこうとも、そなたらの無罪を勝ち取るまで決して引かぬ」

 冥王の言葉に死と眠りの神の眉間に漂っていた厳しい空気が漸く消えた。
 仏頂面は相変わらずだったが、タナトスは皆が認識できる程度の仕草で首肯した。

「ハーデス様がそうまでおっしゃるのならば」
「ありがとう、兄上」

 ハーデスはほっと肩の力が抜けたように微笑んで、すぐに表情を引き締めると懐から紙を四枚とペンを取り出して卓の上に置いた。

「ベルセフォネー、ヘカーテ、アテナ、アルテミス。今日、己が為した事をここに記して正式に署名せよ。四枚全てにだぞ。最悪の事態が起きた時には余はこれを持ってゼウスと戦う。当事者達がここにこうして自分の行いを告白している、とな」

 女神達が素直にハーデスの言葉通りに自身の行動を記して署名すると、ハーデスは紙を封筒にいれて冥王の署名と共に封印し、タナトスとヒュプノスに一通ずつ渡して一通を自分の懐に戻し、最後の一通をオルフェウスに差し出した。
 寝室の壁と一体化したいかのように壁にはりついていたオルフェウスは冥王の行動にただ眼を丸くした。

「えっ?えっ?」
「余は自分がそそっかしいと言う自覚がある故な、うっかりなくしてしまった時の為に保険は多めにかけておきたいのだ。それにオルフェウス、お前も今回の一件に関わっているのだ。ひとりだけ知らぬ顔は出来ぬぞ。…さぁ、こっちにきて作戦会議に加われ」
「作戦会議、ですか?」

 オルフェウスはおずおずと進み出て差し出された封筒を恭しく受け取った。
 ハーデスは詩人の言葉に頷いて思案顔で腕を組んだ。

「言わばアリバイ作りだ。妃達がタナトス神殿の離宮へ向かったのはニンフ達が見ている故な、その時タナトスもヒュプノスも離宮にいなかったという事にしておきたいのだが…」
「じゃあ、僕が離宮のお掃除してて、タナトス様もヒュプノス様もいませんよって言ってお引き取り頂いたってことにすれば…」
「お前が冥妃様達と入れ替わりでハーデス様を呼びに行ったのを誰か見ているだろう?」
「いえ、それは多分ないです。僕は離宮の前でずっと番してたって事にしておいた方がいいだろうと思って、ケルベロスを中庭まで呼んで、ケルベロスの背中に隠れてハーデス神殿まで飛んで行きましたから。ハーデス様が今ここにいるってことも誰も知らないはずです」

 愚直な彼がここまで機転を利かすとは思っていなかったタナトスは、『弟子』の言葉に目を丸くした。
 ハーデスはオルフェウスに優しい目を向けて微笑んだ。

「彼は人目をはばかるようにこそこそと余の執務室に入って来てこう言うのだ、『ハーデス様、詳しい事は途中で説明するのでこっそり僕に付いてきて下さい。ヘカーテ様がタナトス様の私室にアポ無し訪問して碌な事になった例がないんです!』」
「………」

 その言葉に皆は何とも微妙な顔でヘカーテを見遣り、今回の一件の主犯である美貌の女神はバツが悪そうに肩をすくめて見せた。
 …しばしの沈黙が流れた後、ヒュプノスが今回初めて口を開いた。

「では、こういう筋書きは如何でしょう。アテナ様アルテミス様のご訪問を受けてヘカーテ様がお仕事を外れた後、ハーデス様のお仕事を手伝うために私とタナ トスがハーデス神殿に行った。イルカを見たくなった女神様達はタナトス神殿をお訪ねになりタナトスを探したが見つからず、離宮に向かったところ中庭を掃除 中のオルフェウスに会ってタナトス不在を告げられた。是非ともイルカが見たいとおっしゃる女神様達に押し切られたオルフェウスは、ハーデス神殿に向かって タナトスからイルカの部屋の鍵を借りて、了解を得たうえで女神様達をイルカの水槽に案内した…」
「ふむ。その筋書きで行くと、今は『イルカを見たくなった女神様はタナトス神殿を訪ねてタナトスを探したが見つからず、離宮に向かったところ中庭を掃除中のオルフェウスに会ってタナトス不在を告げられた』時点か」
「そうです。我々がハーデス神殿に向かった後、しばらくしてからオルフェウスがわざと目立つように…エウリュディケ同伴ならなお良いでしょう…鍵を借りに 来て、ついでにエウリュディケの友人やタナトス神殿のニンフ達も一緒にイルカ見物に行ってもらっては?我々の行動に多少おかしな部分が有っても、イルカの インパクトで押し出されて記憶に残らぬでしょう」
「…相変わらず悪知恵が働くな、ヒュプノスよ」

 タナトスが感心したように言うと、ヒュプノスは眉根を寄せて兄を見遣った。

「どこぞの粗忽者の兄の後始末に追われてばかりなのでな、必要に迫られての事だ。そもそも私の忠告に従ってお前が結界を張っておけば、ハーデス様のお手を煩わせるような面倒も起きなかったのだぞ」
「馬鹿を言え。俺の張った結界などヘカーテ様は簡単に破って来られるわ」
「何かあった時の言い訳と『立ち入り禁止』の意思表示を兼ねて張っておけと言っているのだ」
「………。ヒュプノス、仕事が終わったら改めて俺の部屋に来い。石頭のお前が納得するまで俺が無駄な結界を張らぬ理由を説明してやる故な」
「それは楽しみだ」

 残っていた苛立ちを『被害者同士』である片割れに向けかけた双子神は、冥王の取りなしたこの場で兄弟喧嘩をお披露目する気は無いらしく、早々に話を切り上げた。
 そんな臣下の姿にハーデスはにこりと笑って椅子から立ち上がった。双子神も主君に続いて寝台から腰を上げた。

「では作戦に則って我々はハーデス神殿に向かうとするか。オルフェウス、後は任せたぞ」
「は…はい!」
「…オルフェウス」
「はははははいぃぃぃ!!??」

 女神達の突撃訪問のきっかけを作ってしまった事を叱責されると思ったのか、タナトスに声をかけられたオルフェウスがビクリと直立不動の姿勢を取った。
 …死の神は銀色の眼を眇めて『弟子』の頭をくしゃりと優しく撫でた。

「良く機転を利かせてくれた。おかげで助かった、礼を言う」
「え…」
「イルカの曲芸はおまえがお見せして差し上げるが良い。多少ぎこちない方が可愛げがあると言うものだ」
「は…はいっ!」

 ぱぁっと顔を輝かせるオルフェウスに本日初めての笑顔を見せて、タナトスは鍵束を渡した。
 今度こそ部屋を出ようとしたタナトスのローブの裾を、珍しくひしゃげた表情のヘカーテが摘まんで引きとめた。
 普段は寛容な死の神も主犯に対する怒りはまだおさまって無いらしく、胡散臭そうな眼を向けた。

「…何か?」
「あー、その、皆がいる前で謝罪するのは、許容を強制するようで卑怯だとは思うのだが、こう言う事は先延ばしに出来ない性質でな…」
「つまり?」
「タナトス、ヒュプノス。今回の事すまなかった。心底申し訳ないと思ってる。事の重大性を理解していなかったし、悪ふざけが過ぎた。ごめん。反省している、本当だ」

 突き刺さるような双子神の視線にヘカーテの語尾は小さくなって、美貌の女神はしょんぼりと俯いた。
 らしくない彼女の態度にタナトスは深々と溜息をついた。

「…存じております」
「え?」
「ヘカーテ様が申し訳ないと思うお気持ちに嘘が無い事も、反省していると言うお言葉が事実である事も存じております。疑ってなどおりません」
「タナトス…」
「そして、何日かしたら本気の反省も謝罪も綺麗に忘れて次の悪戯をお始めになる事も、よーく存じております」

 死神の言葉に安堵しかけた美貌の女神は続けられた言葉に絶句して、拗ねたように唇を尖らせ、いじけた子供のように掴んでいたローブから手を離した。
 まだ何か言うようならはっきり言わせてもらうぞと思ったが、不満そうな顔をしながらもヘカーテが黙ったので、タナトスもそれ以上の文句は言わずに胸に収めて部屋を出ようとした、その時。
 ムクれた顔のヘカーテがタナトスの背中に声をかけた。
  
「…タナトス」
「………。何です?」

 無視するのも大人気ないと振り返ると、ヘカーテは悪巧みををしてますと言わんばかりの…嫌と言うほど見覚えのある甘く妖艶な笑みを浮かべた。

「ヒュプノスよりお前の方が可愛い寝顔をしていたと思うぞ」
「………」
「あ、それは私も思っ……。…あ」
「あ」
「あっ…」

 ヘカーテの言葉にベルセフォネーが思わず頷きかけ、ハッと気付いて口を手で塞いだ時にはすでに遅く。
 一瞬きょとんと眼を丸くしたタナトスの白磁の頬がさぁっと朱に染まり、してやったりと言いたげなニヤニヤ笑いを浮かべる氷の女神を睨みつけ、しかし冥王 夫妻と客人の前で声を荒げる事も出来ず、握り締めた拳と引き結んだ唇を微かに震わせ、ものすごい勢いで踵を返し、肩を怒らせて、凄まじく乱暴な足取りで部 屋を出て言った。
 その反応にヘカーテはますます嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。

「何もあんなに腹を立てずとも良かろうに。相変わらず可愛い奴よな」
「………ヘカーテ…」
「何だ?ハーデス」
「そなた、余の苦労を何だと思っておるのだ。ナナメになったタナトスの機嫌を頑張ってまっすぐにしたのに、あっさりとまたナナメにして…」
「私はタナトスの魅力をアテナやアルテミスにお披露目したいベルセフォネーの手伝いをしただけだが」
「…ヘカーテ様。今回ばかりはご自身でタナトスの機嫌を真っ直ぐにして下さい。私に面倒を押しつけないよう、くれぐれもお願いします」
「はいはい。全くお前は、兄貴と違って可愛くない奴よな」

 ヘカーテはしなやかな藤色の髪を色っぽく掻きあげてヒュプノスを流し眼で睨んだ。
 …別にあなたに可愛いと思われたいとは思いませぬが。
 言葉に出さずとも態度と表情で意思を伝えながら、眠りの神は慇懃に一礼して部屋を辞した。最早苦笑しか浮かばない冥王と困惑顔のオルフェウスが後に続いて部屋を出ると、残された乙女達はヘカーテに目を向けた。

「あの…いいの?」
「何が?」
「タナトス、本気で怒ってたみたいだけど」
「問題ない。むしろ計画通りだ」
 
 ふふ、とヘカーテは笑った。
 タナトスは良くも悪くも忘れっぽい。痛い目を見ても割とすぐ忘れるからヒュプノスから学習能力が無いなどと言われるが、それは同時に過ぎた事を根に持たない寛容さとも言える。
 ヘカーテにおちょくられて心底ムカついた瞬間に、女神達が仕掛けた悪戯は彼の記憶から押し出されてどこかに行ってしまっただろう。

「洒落にならん悪戯を謝罪して赦しを乞うより、おちょくった事を謝罪して赦しを乞う方が難易度は低いだろう?」
「…普段、散々ヒュプノスを狸とか言ってるけど、ヘカーテも十分狐だわ」
「失礼な。実の弟以上にタナトスの性格や思考回路を把握していると言って欲しいな」
「それで、赦してもらえる自信はあるの?」
「さっき言ったろう?『タナトスもヒュプノスも謝罪している女を許さないほど小さい男ではない』って。ま、一晩かけて謝り倒せば奴も根負けするさ」
「一晩…」

 ヘカーテの問題発言に一々反応して突っ込む気力もない女神達は顔を見合わせ、持久戦で押し切られるだろう死神の事を少しだけ気の毒に思った。


 

 …翌日。
 それでも『結果』が気になってベルセフォネーはタナトスを訪ねた。
 彼が根に持たない性格である事は知っていたが、今回は事が事だった。まだヘカーテに腹を立てているようなら自分からも謝って仲直りしてもらおうと思ったのだが。
 冥妃を離宮で出迎えた死神は何とも言えない顔でボソリと答えた。

「ヘカーテ様はきちんと謝罪されました故、俺も既に怒ってなどおりません。御心配には及びませぬ」

 タナトスの微妙な視線を追って玩具スペースを見遣ったベルセフォネーは、ヘカーテが『頼み込んで貰って行った』巻貝が戻ってきている代わりに、そこに飾られていたイルカの玩具が無くなっている事に気付いたのだった。

NEXT(蛇足)


星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達


 …コメディと言いながら途中の展開がちょっと深刻になってますが、コメディです。コメディです…よ…。
 良くない事ははっきりきっぱり良くないと諭しつつ、自分の事はあまり言いたがらない大人でカッコいいタナトスの一面も書きたかったので、この展開は予定 通りでした。当初の予定ではハーデスは登場しないまま、タナトスのお説教で終わる予定だったのですが、冥王様にも見せ場を作ろうと思ってご登場いただきま した。いつもいつもボンヤリ天然弟キャラじゃアレなので(笑)。ある意味、今回一番迷走したのはヘカーテでした。最後の最後までキャラと言うか行動と言う かコロコロ変わってました。彼女はかなりキャラが確立してたのでこれは珍しい。
  一応、この後にオマケと言うか蛇足と言うか、ヘカーテがタナトス(と、ヒュプノス)に改めて謝りに来るラブコメ(ラブコメ…?)な話を入れたいと思うので すが、今まで曖昧にしてきたタナトスとヘカーテの関係にひとつの答えを出すと言うか、想像の余地が狭まる話になりそうなんで、曖昧なままここで終わってお くのもアリだと思います。
 この「午睡」シリーズで書きたかった、紹介したかった諸々。
・一緒にお昼寝するタナトスとヒュプノス
・双子神を大好きな冥妃
・双子神の可愛さを発見して萌えを感じる処女神達
・実は冥妃以上に双子神を理解(性格を把握)して好意を持っているヘカーテ
・やる時はやるハーデス様
・なんだかんだ言って互いをきちんと理解しているタナトスとヘカーテ