双子神・神話時代 …冥妃…
EPISODE 1


 吹き抜ける西風が白ポプラの梢を揺らし、名もない白い花を優しく撫でて吹き抜けた。
 冥界の神々に愛された人間だけが訪れる事を許される神の御所、冥界の極楽浄土エリシオン。
 その楽園の西側の丘に死を司る神タナトスの神殿がそびえている。




 数人のニンフが果物をのせた皿を恭しく捧げ持ち、別のニンフが芳醇な果実酒を満たしたピッチャーを差し出した。
 神殿の主タナトスは長椅子にゆったりと腰を降ろしたまま、片方の手で盃を差し出してもう片方の手で柘榴を一粒摘まんで口に入れた。
 柘榴を捧げ持っていたニンフはぱっと顔を輝かせ、別のニンフは自分の果物も神の口に入れてもらおうと熱心に差し出し、酒のピッチャーを持ったニンフは我先にと盃に酒を注いだ。
 差し出された果物を一粒ずつ順番に摘まんで口に入れながら、タナトスは微かに苦笑した。

「お前達、そんなに熱心に俺の機嫌を取らずともよかろう。たまにはハーデス様のご機嫌など伺いに行ってみてはどうなのだ?ハーデス様のご寵愛を受ける事が出来れば、クロリスのように神の妻になれるやもしれぬぞ」
「タナトス様ったら…お戯れをおっしゃって」
「ハーデス様は大神ゼウス様のお兄様に当たるお方。私達下々の者を寵愛なさるなど、有り得ませんわ」
「何故有り得ないと言い切れる?その大神ゼウスはニンフだけでなく人間にまで愛を囁いているそうではないか」
「ニンフの誰かがハーデス様のご寵愛を受けたと言う話は、一度たりとも聞いた事がありませんもの」
「冥王様にお心を寄せる者もいましたけれど、その想いは届かなかったそうですわ」
「そうか…」

 タナトスは複雑な表情で、酒が溢れんばかりに注がれた盃に形の整った唇を付けた。




 …ティタノマキアが終結してハーデスが冥王となり、彼がエレボスの闇に造った冥府の運営も問題無く軌道に乗って随分と時が流れた。
 ゼウスの治世も盤石の体制を確立しており、ティタン三兄弟の中でも最も穏やかな性格のハーデスが治める冥界は平和そのものだ。そんな平和な冥界で、冥王側近の双子神が心配している事がひとつだけあった。
 ハーデスが妻を娶る気配が微塵もないのだ。
 ティタン三兄弟の末弟、主神ゼウスは姉女神ヘラを妻として娶っている。次兄の海王ポセイドンも海の女神アンフィトリテと結婚した。そうなると、長兄ハーデスが理由らしい理由もなく独身でいると言うのはあまりよろしくない気がする。
 するのだが、ゼウスやポセイドンの実兄とは思えないほどハーデスは色恋に関する沙汰が無さ過ぎた。ニンフを相手に戯れに夜伽の相手をさせる事もないらし いし、冥王の寵愛を受けたいニンフがアプローチしても曖昧な反応でうやむやにされてしまうのだと言う。真面目なのか奥手なのか、それとも朴念仁なのか。
 ハーデスは決して女性が嫌いと言う訳ではない。
 事実、過去に一度だけ、彼は恋をした。ハーデス自身すら恋をしている自覚が無いほど淡い想いは、成就することなく儚く消えてしまったが…。
 いきなり妻を娶れと言っても奥手で純情なハーデスにはハードルが高すぎるだろう。まずは気に入ったニンフと睦まじくして、女性と恋愛に関する免疫を付けさせる事から始めてみようか…。
 タナトスとヒュプノスは半ば本気でそんな事を相談していたのだが。
 
(ニンフ達相手にこれでは、俺やヒュプノスがさりげなく動いても何ともならぬな…。余り気は進まぬが妹神の中でおとなしい奴と交際させてみるか…それとも、ハーデス様が好みそうなニンフに積極的なアプローチをさせてみるのが先だろうか…)

 そんな事を考えながらタナトスが当たり障りなくニンフ達の相手をしていると、神殿の入口の方が微かにざわめいた。
 何事かと怪訝に思った時、ニンフの一人が小走りに近づいてきて傅き頭を下げた。

「何事だ?」
「ハーデス様がお見えでございます」
「…お通ししろ」

 まさに今話題にしていた本人のタイミングの良い登場に驚きながらも、タナトスは盃を手近なニンフに預けて主君を出迎えに立ちあがった。
 タナトス神殿を訪れた冥王はニンフ達を見て困ったような居心地悪いような複雑な顔で口を開いた。

「いきなり押しかけて済まぬな、タナトス」
「お気になさらず。…ところで、ハーデス様御自らお出ましになるとは。何かあったのですか?」
「ん…ああ、その、ちょっと、大事な相談をしたくてな」
「大事な相談?ならば臣下の俺をご自身の神殿に呼び出すべきでしょう。冥王自ら臣下の神殿に出向くなど、主君としての格が落ちると申し上げたはずですが」

 ハーデスの妙な歯切れの悪さを怪訝に思いながらタナトスが穏やかに彼の行動を諭すと、冥王はますます視線を逸らしてモゴモゴと口籠った。

「あ、いや、その、重要な相談と言っても、執務に関する事では無くて…何と言うか、個人的な話なのだ。冥王と臣下ではなく、弟として兄のそなたに相談したいと言うか…だから、あのぅ…この場合何と言うのが適切か…」
「いわゆる『男同士の話』ですか?」
「ああ、そうだ。それだ、男同士の話と言う奴だ。うん、男同士の話だから、そなたと二人で話がしたいのだ。何と言っても男同士の話だからな!」

 死神の言葉に冥王はぱっと顔を輝かせて何度も頷いた。
 …つまりニンフ達には聞かせたくない話と言う事か。
 タナトスはニンフ達を下がらせると、冥王に椅子と果物と酒を勧めて先ほどよりは砕けた口調で話しかけた。

「で、男同士の相談とは一体何なのです?」
「うむ…あのな…」

 ハーデスは一度言葉を切って酒を一口飲み、俯いて逡巡し、微かに頬を染めてそっと口を開いた。

「タナトスよ。そなたは一目惚れというものをした事があるか?」
「………」

 タナトスは長い銀色の睫毛を瞬いた。
 一目惚れをした事があるか?
 そう尋ねたハーデスは淡く頬を染め、口元は甘く綻び、その眼は夢見る光を孕んで輝いている。
 それはつまり。

(ハーデス様は、誰かに一目惚れをしたという事か!)

 相手は誰だろう?エリシオンのニンフに今更一目惚れはしないだろう、そうなると…確か彼は所用で地上に出かけていたはずだから…地上で誰かを見染めたという事か。
 誰だ?女神か?ニンフか?考えたくもないが人間か?
 …いや、この際だから相手の身分に贅沢は言うまい。色恋に疎すぎるハーデスが誰かに恋をしただけでも良しとしなくては。
 一体どこの誰に一目惚れしたのか質問攻めにしたい気持ちをぐっと抑え、タナトスは努めて冷静に自然に答えた。

「一目惚れですか。生憎としたことはありませんね…されたことはありますが」
「ほう…されたことはあるのか。流石だな」
「何が流石なのですか」

 タナトスはクスリと笑い、あくまでも何でも無い事のようにさらりと本題に切り込んだ。

「そう言うハーデス様はどうなのです?一目惚れをした事があるのですか?」
「あ…うん、そ、そうだ…と、思う…」
「それはそれは結構な事です」
「あ…うん。………」
「………」
「………。タナトス」
「はい?」
「そこで終わりか?もっとこう、突っ込まぬのか?相手は誰だとか、その、あの、オツキアイするつもりは有るのかとか、聞かぬのか?」
「個人的な事は詮索せぬ主義ですので」

 実は興味津々だったが、タナトスはわざととぼけて見せた。
 質問攻めにするより話しやすい状況を作って話を引き出す方がハーデス相手には効果的だからだ。
 タナトスの言葉に不服そうになったハーデスを見て(計画通りだと内心で思いつつ)、いかにも仕方なく聞いてやるんだぞという態度で質問を口にした。

「…何です、詮索して欲しいのですか?」
「あ…うん、まぁ、そうだな」
「そうおっしゃるなら仕方有りませんね、詮索させて頂きます。ハーデス様が一目惚れしたのはいつです?」
「先日、地上に行った時だ。余は一目で彼女に心を奪われた…」
「なるほど。で、一目惚れが終わったのはいつです?」
「終わってなどおらぬ!現在進行形だ!!」
「ハーデス様、そんな重要な情報を後出しされても困ります。俺はてっきり、思い出話だと…」
「ちょ…タナトス、余が失恋した前提で話を聞くな!」
「失礼しました。こほん、では現在進行形という事で、改めてお尋ねいたします」
「うむ」

 ハーデスの緊張が程良くほぐれたのを見てタナトスは核心に関わる質問をした。

「その、一目惚れのお相手はどこのどなたか分かっているのですか?」
「分かっておるぞ」
「ほう…どなたです?」
「ゼウスとデメテルの娘、ベルセフォネーだ」
「…………。えー…その、つかぬ事をお伺いしますが、ハーデス様としては、その、ベルセフォネー様とオツキアイしたいと考えていると、そう思ってよろしいのですね?」
「思ってよろしいぞ。だからそなたに最初に相談しに来たのだ。そなたなら一番的確なアドバイスをしてくれると思ってな」
「………」

 タナトスは腕を組んで真剣に考え込んだ。
 花と豊穣の女神ベルセフォネー。
 クロノス・レア夫妻の子供であるゼウスとデメテルを両親に持つ彼女は、冥王ハーデスの恋のお相手として申し分のない神格と身分を持っている。
 が、彼女を恋の相手にするには大きな障害があった。
 地母神デメテルは少々度が過ぎるほど娘を溺愛している。「娘は誰の嫁にもやらずにずっと自分の傍に置いておく」と公言して憚らず、その言葉通り(手癖 の悪い男神の多いオリンポスを離れて)シケリア島で娘と一緒に暮らしている事は地上と関わりの薄い冥界の神ですら知っていた。それだけでも面倒なのに、当のベルセフォネーまで「私はお嫁になんて行かず に、ずっと乙女のままでお母様のそばにいるわ」と宣言していた。つまり、アテナやアルテミスのように正式な誓いこそ立てていないものの、ベルセフォネーは 事実上の処女神として認識されているのだ。
 よりによって何と厄介な女神に恋をしてくれたのか。アテナやアルテミスやヘスティアの処女神に恋をしなかっただけマシかも知れないが、一目惚れの相手だけでなくその母まで何とかしなくてはならないとは。
 眉間に皺を寄せて一言唸ったまま黙り込んでしまった臣下の姿に、ハーデスは何とも困った顔になった。

「…やはり、難しいか?」
「難しいですね。恋人同士としてお付き合いするのはまず無理でしょう」
「そうか…」

 ある程度は予想していたが…とがっくりとうなだれる主君に、タナトスは真剣に言葉を続けた。

「ですから、ここは結婚を申し込むつもりで行くしかないかと」
「けけけけけけけ、結婚んんん!!??」
「そうです。恋人としてお付き合いしたいなどと言っても、デメテル様は絶対に首を縦に振らないでしょう。冥王の妃として迎えたいと、誠実かつ正式に結婚を 申し込んで説得するしか有りません。無論、父である大神ゼウスにも了解して頂くのが大前提です。ゼウス様を味方につけて縁談という形で話を持ちかけるので す。大神ゼウスを通して正式に結婚の話を持ちかければ、デメテル様とて門前払いは出来ぬはず。そこからお見合いに持ち込んで、ベルセフォネー様のお心を動 かすのです。ハーデス様の妻になっても良い、と思って頂けるまで」
「け、け、結婚…結婚か。それはその、ヘラ姉上が司る、一組の男女が永遠の愛を誓い合う、あああああれかかかか」

 ハーデスの声は完全に裏返って上ずり、呂律もうまく回っていない。
 真っ赤になって狼狽する主君に、タナトスはあくまでも真剣に頷いた。

「そうです。逆を言えば、ベルセフォネー様は『ちょっと付き合ってみて冷めたら別れれば良い』などと軽い気持ちでお付き合いできる女性ではありません。…ハーデス様。大事な質問をしますので心してお答えください」
「ななななななななんだだだだだ?」
「ベルセフォネー様を妃として迎えたいと思うほど、彼女を愛しておられますか?ベルセフォネー様が冥界に降りたその時は、彼女を幸せにして何があっても守り通す意思と覚悟は有りますか?」
「え…え………」
「さぁ、お答えください。ハーデス様のベルセフォネー様への想いは本物ですか?」
「………」

 ハーデスは酸欠の金魚のように口をパクパクさせていたが、タナトスの真剣な銀色の眼差しに何度も深呼吸し、ぎゅうっと拳を握り、迷い無い決意に染まった眼を上げた。

「…本物だ」
「………」
「余はベルセフォネーを愛している。妻として迎えたい」
「そのお言葉、お心に偽りはございませんね?」
「ない。スティクスに誓っても良い」
「…よろしい」

 タナトスはにこりと笑って立ち上がった。
 ハーデスが本気で恋をしたなら、誰かを心から愛したのなら、その想いが実を結ぶよう出来る限りのことをしよう。
 兄として、可愛い弟のために。


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星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達


 本当は「黎明」シリーズを完結させた後にすぐとりかかるつもりだった「冥妃」シリーズです。サブタイでバレバレですが、ハーデスがベルセフォネーと結婚する話です。結婚成立まで書くか、神話の時代が終わってふたりが一時的に別れるまで書くか悩み中。
 ハーデス様の出番は今までのSSの中で一番多くなるかと思います。けど、コンセプトは「可愛い大事な末弟の恋の為に頑張るお兄ちゃん双子神」なので、相 変わらずタナトス様が出しゃばる予定です(笑)。ほのぼの半分コメディ半分、ちょっとホロリとなる要素も入れられたらいいなー思ってます。話の主軸はベル セフォネーなんですが、ヘカーテやアテナやアルテミスと双子神が初めて会うエピソードもこのSSで公開するつもりなので、当サイトの設定紹介的な意味合い もあるかなーと思っています。
 そして本文の色々な解説など。
 タナトスが名前を出していた「クロリス」とは、西風の神ゼピュロスの妻です。元はエリシオンのニンフでしたが、ゼピュロスに一目惚れされ、強引なアプ ローチに押し切られて彼の妻になりました。その際、ニンフから女神に格上げされ(ニンフは妖精ではなく下級の女神という説もあります)、相応の権限と力を 与えられたのだとか。ちなみにローマ神話では「フローラ」という名前だそうです。
 で、ニンフ達がタナトスを慕っているのも、「クロリスの大出世」と多少は関係がありまして。ニンフ達は「タナトス様に見染められて妻として娶られることになれば私も女神になれるかも!」という野心をちょびーっと持っているのです。
 ハーデスはアプローチしても無駄だったので、やっかみ半分に「下々の相手などしてくれないわ」と言ってるのです。ヒュプノスはハーデスほどではないけど反応はイマイチ。で、尽くせばちゃんと答えて可愛がってくれるタナトスがニンフにモテモテという訳です。
 それと「ハーデスのはかなく消えた恋」についてはここでは解説せず、後のエピソードに回したいと思います。