| …自身の神殿で紅茶を嗜みながら読書をしていたヒュプノスは、聞き慣れた足音に表情の変化の薄い顔を上げた。 小宇宙ではなく足音で兄神の訪問を知ると言うのもどうなのだろう、そんな取り留めもない事を考えていると些か乱暴に私室の扉が開けられた。 「ヒュプノス!ハーデス様の縁談を進めるぞ、お前も知恵を出せ!」 「………」 金色の神は表情を動かさぬまま微かに首を傾げて、銀の神に気付かれない程度に溜息をついた。 ノックも無しに部屋に入って何を言うかと思えば、下らぬ冗談か。私を驚かしたり騙したりしたいならもっと現実味のある嘘を言うべきであろうに。 タナトスの言葉を冗談と判断したヒュプノスは書物に視線を落として尋ねた。 「知恵を出せと言われても、お相手が誰か分からぬのでは出しようが無い。その、ハーデス様の縁談のお相手はどこのどなたなのだ?」 「大神ゼウスと地母神デメテルの娘、ベルセフォネー様だ」 「………」 ヒュプノスは僅かに目を見開いて顔を上げ、タナトスを見遣った。 ベルセフォネー様だと?あの、親離れ子離れできていない事で有名な女神がハーデス様の縁談の相手だと?? 冗談で出すにはあまりにも有り得なさすぎる名前だ。有り得ない縁談話、有り得ない縁談の相手。余りにも有り得なさすぎる要素が合わさって、むしろこれは事実なのではないかとヒュプノスは思った。マイナスとマイナスをかけるとプラスになるようなものだ。 眠りの神は真剣な目になって書物を閉じた。 「一体何がどうなってそう言う話になったのだ?」 「ハーデス様が地上に赴いた際にベルセフォネー様を見かけて一目惚れしたらしい。しかし相手が相手だ、普通に交際を申し込んだところでデメテル様に門前払 いされるのが落ちであろう。幸いと言うべきか、ベルセフォネー様の身分は冥王の妃となるに申し分ない。ならばいっそ、大神ゼウスも巻き込んで結婚を申し込 むのが最善の選択ではないかと思ってな」 「なるほど…」 兄神の表情は真面目に真剣だった。 どうやらハーデスがベルセフォネーに一目惚れした事、彼女に結婚を申し込む事を前提にした相談をしたいというのは事実らしい。 ヒュプノスは素早く頭を巡らせた。 ハーデスの恋の相手が子煩悩で有名な女神デメテルの娘なら、兄神の言うとおり結婚を申し込むのが冥王の恋を成就させる唯一の方法と言えよう。 ヒュプノスが読みかけの本を卓に置いて立ち上がると、タナトスは満足げに微笑んだ。 「納得したようだな。ならば一緒に俺の神殿に来い、具体的な作戦を練るぞ!」 兄神は短慮で短気な性格だが、最善の答えに最短でたどり着くのはある意味見事だな。 そんな事を思いながら、感心半分呆れ半分の気持ちでヒュプノスはタナトスの後をついて行った。 タナトス神殿で、主君ハーデスはそわそわと落ち着きなく果物を摘まんでは盃に形ばかり口を付けていた。 軽く会釈して双子神が椅子にかけると、ハーデスは盃を卓に置いて手を膝に置き、背筋を伸ばした。 「ヒュプノス」 「は」 「タナトスから話は聞いただろうか」 「はい」 「そうか。それで、そなたはどう思う?」 「ハーデス様がお心を寄せるお相手がベルセフォネー様ならば、結婚を前提に話を進めるべきというタナトスの案に私も賛成です」 「そうか。そなたらふたりの意見が一致したのならそれで間違いあるまい」 ハーデスはほっとしたように微笑んで銀と金の『兄』を交互に見た。 「それで、余は何をすべきであろう?まずはゼウスに話をすべきだろうか?」 「そうですね。まずあり得ないと思いますが、万が一ゼウス様がこのお話に難色を示されたら最初から作戦を考え直さねばなりません」 「そ…そうか…。もしゼウスが否と言ったらどうしたら…」 「ハーデス様、万が一の可能性を一々考えていては話が進みませぬ。ここはゼウス様に了解を頂けたと仮定して話を進めましょう」 「うむ。ゼウス様が了解されたら、ゼウス様からデメテル様に内密に打診をして頂くのが良かろうな」 「そこでデメテル様が渋々でも応じてくれれば良いが、突っぱねるかもしれぬ」 「確かに…。言っては悪いが、デメテル様はゼウス様を嫌悪していよう。何しろ強引に自分を奪った男だからな、良い印象を持てと言う方が無理だ。縁談の相手が誰かなど一切関係なく、 『大嫌いな男が持ってきた縁談』というだけで一切の聞く耳を持たなくなるかもしれぬな」 「ではレア母上かガイア祖母様から話を通して頂こうか?」 「いや、ゼウス様を差し置いて話を進めるのはまずいでしょう。父としての面目を潰しては面倒な事になりかねない」 タナトスの言葉にヒュプノスとハーデスは顔を見合わせ、皆は眉間に皺を寄せてうーんと唸った。 ゼウスからデメテルに話を通したら門前払いされる可能性がある。しかし、ベルセフォネーの父であり主神であるゼウスを蚊帳の外にして縁談を進めたら、それはそれでゼウスの面目を潰すことになる。 あちら立てればこちら立たず、こちら立てればあちら立たず。 堪え症の無いタナトスは、妥協案を探す事を早々に放棄したらしい。とにかく!と言ってバンと卓を叩いた。 「最初は大神ゼウスからデメテル様に話を通して頂く。不安はあるがそれが礼儀というものだ。冥王の縁談なのだ、礼儀に叶う形で話をするのが大前 提であろう。問題はその後だ。デメテル様やベルセフォネー様が二つ返事で縁談に 応じてくれるとはとても思えぬ。しかし、主神ゼウスと冥王ハーデスから正式に出された縁談話を即座に無下に拒絶もできまい。本音は拒絶一択だとしても、弟 達のメンツや名誉を慮って建前上『考えさせてくれ』程度の返事にせざるを得ないだろう。つまりだ、この話の結論は…少なくとも建前上の結論は、すぐには出 ぬ。ゼウス様からデメテル様に話をしてもらい、デメテル様が『正式に』返事をするまでの時間、ここが重要な分水嶺だ」 卓に身を乗り出すようにして死の神がまくしたてた言葉を、冥王と眠りの神はじっくりと反芻して感心したように頷いた。 「確かにそうだな。大神からの正式な縁談となれば、デメテル様も門前払いは出来まい」 「それでタナトスよ、姉上に返事を保留させて時間を稼いでどうするのだ?」 「そうですね…先ほどハーデス様が言っておられましたが、レア様やガイア様に協力して頂くのが良いのではないかと」 「おふたりからも縁談に応じるよう勧めてもらうと言う事か」 「いや、いきなり縁談を勧めてはデメテル様も抵抗があろう。『断るにしても、ゼウスやハーデスの顔を立てるために形式上の見合いだけでもしてはどうか』と婉曲に話を持ちかけて頂くのが良いのではないか?」 「ふむ…母や祖母にそう言われては、姉上も断りにくいだろうな」 「そうです。そうして見合いの場にベルセフォネー様を引っ張り出したら、そこで姫君の心を動かせるかどうかが勝負の分かれ目になりましょう。僅かでもお心 を動かせればこっちのもの、一度動けば後は軽く力を加えるだけで転がって行きます。勿論、おかしな方向に転がらぬように軌道修正は必要になりますが」 妙な自信に満ちた表情でタナトスは言い切った。 理屈と論理的思考で最善を探し出すヒュプノスやハーデスと違い、タナトスは直感と閃きと感情で呆気ないほど簡単に最善を導き出す。その直感の鋭さ、的確さを良く知るヒュプノスとハーデスは、タナトスのアイデアを聞きだすために質問を口にした。 「動かした心に力を加えると言っても、どうやってだ?見合いの席以外で我々が姫君に接する機会など無いと思うが」 「相変わらずの石頭だな、ヒュプノスよ。ベルセフォネー様のお心を転がすために我々男神がしゃしゃり出る必要など無かろう」 「?」 「デメテル様対策にレア様とガイア様を味方にしたのなら、ベルセフォネー様対策にはアテナ様とアルテミス様を味方につければ良い」 「………」 「ゼウス様を通してアテナ様とアルテミス様に予め根回ししておいて、ベルセフォネー様がハーデス様との縁談に前向きになるようそれとなく話をしてもらうの だ。俺やお前がハーデス様の魅力を説明するより、乙女仲間から『ハーデス様は悪い方ではない、試しにお付き合いしてみるのもいいのでは』と言われた方が姫 君の心は動くだろう」 「女性絡み…ああいや、身内に頼りにされた時のお前の頭の回転は称賛に値するな」 感心と呆れの混じったため息交じりの弟神の言葉に、兄神は明らかにムッとなった。 文句を言いたげな銀色の眼差しをさらりと受け流してヒュプノスはわざとらしく目を見開いて見せた。 「何だ?私はお前の慧眼を褒めたのだぞ?」 「………。あまり褒められた気がしないのだが…」 「タナトスよ。お前の作戦を纏めると、女神達への根回しも含めたお膳立ては、ゼウスにうまく頼み込んで奴に丸投げしろという事だな?そしてうまくベルセ フォネーが余との見合いの場に出てきたら、作戦担当はお前達に交代してあの手この手でベルセフォネーを落としにかかると、そう言う事で良いのだな?」 身も蓋もないハーデスの言葉に双子神は何とも微妙な顔になった。 確かに、タナトスの長々とした演説をざっくりとまとめるとそう言う事になるのだが…。 ええ、まぁ…と複雑な顔で呟きながらタナトスは主君を見遣った。 「ハーデス様を援護する事は俺もヒュプノスもやぶさかではありませぬが、何を言っても当事者はハーデス様ですから…張本人が周りに任せきりでは駄目ですよ?」 「無論それは承知しておる。神殿の奥でちんと座っていればベルセフォネーが妃として輿入れしてくるなどと甘い考えは持っておらぬ。しかし、余は女性との付き合いに疎すぎる故、迂闊に動くと裏目に出るような気がしてな…」 「ハーデス様はベルセフォネー様を本気で愛しておられるのでしょう?綺麗な言葉でなくとも、真摯に誠実に真実の想いを伝えればよろしいのです」 「そうそう。ハーデス様の想いが本物だと分かれば、ベルセフォネー様もデメテル様もきっと心を開いてくれましょう」 「そ…そうか。うん、そうだな。余も何だか行けそうな気がして来たぞ」 「それは良い事です。女性にアプローチする男に必要なのは自信ですからね。自分に自信のある男はそれだけで魅力的に見えるものですよ」 「よし…よし、ならば決心が鈍らぬうちにゼウスに話をしてくる!」 「では、我々もお供しましょうか?」 「いや、余ひとりでよい。結婚の相談をするのに保護者同伴では格好がつくまい」 緊張で声を震わせながら、それでもハーデスはぎこちなく微笑んで見せた。 強い決意を顔に滲ませて、拳をぎゅっと握り、ぎくしゃくと立ちあがって行動を起こした『弟』の後姿を、双子神は感慨深げに見送った。 「ヘカトンケイルに付き添われて右も左も分からず冥界に降りて来た世間知らずのおぼっちゃまだったハーデス様が、ご自身で妻を娶る行動を起こせるようになるとはな…。我々もそろそろ保護者感覚を捨てて臣下という立場をわきまえる時期かも知れぬ」 「この縁談が保護者としての最後の仕事になると言う事か。嬉しさ半分、寂しさ半分だな」 「そうだな」 柔らかく目元と唇を綻ばせるタナトスに、ヒュプノスは冥王の前では敢えて口にしなかった懸念を口にした。 「タナトスよ、お前の忌憚のない意見を聞きたいのだが…この縁談、成立すると思うか?」 「ん?」 「デメテル様母子の愛情と絆の深さは生半可なものではない。結婚の相手が地上や天界の神ならともかく、海界より更に遠い冥界の神だ。そんな遠くに嫁ぐことをあの女神達は了承するだろうか」 「何を生ぬるい事を言っているのだ、お前は?了承するだろうかなどと遠慮がちな姿勢で口説き落とせる相手ではないことくらい分かっているだろう。揉めるこ となど端から承知、予想外のすったもんだが起きても無理やり解決して縁談成立にこぎつけるのだ!お前もそのつもりで腹を括って、とんでもないトラブルが起 きる前提で作戦を立てろ!」 「トラブルが起きる前提で、か…」 恐らくタナトスは『万が一の不測の事態が起きる事も想定しておけ』という程度の心づもりでそう言ったのだろう。 しかし、兄神の無意識の直感は予言の神と張り合えるほどの精度がある事をヒュプノスは知っていた。 それはつまり。 (この縁談、途中で揉めて予想外のすったもんだが起きてとんでもないトラブルが発生すると言う事か…。確かに覚悟は決めておいた方がよさそうだな) そんな覚悟など決めたくないのだが。 内心で嘆息してヒュプノスは金色の睫毛をそっと伏せた。 …数日後。 ベルセフォネーを妃として迎えたい旨の相談をするためゼウスに会いに天界に行ったハーデスは、輝くばかりの笑顔で帰ってきた。 双子神は冥王のその表情で話し合いの結果が上々だった事が分かり、安堵と喜びでほっと緊張を解いた。 ハーデスは臣下の姿を見るなり溢れんばかりの笑みを浮かべて両手を広げた。 「ふたりとも、喜んでくれ。ゼウスは二つ返事で余の頼みを聞き入れてくれたぞ。デメテルとベルセフォネーに話を通す事も、他の女神達への根回しも大神として責任持って引き受けてくれるそうだ」 「それはそれは…随分と安請け合い…あ、いえ、快く引き受けてくれましたね」 「余も同じことを思ったのだがな。あれも余が妻を娶らぬ事を心配していたらしく、母上や祖母上やヘラ姉上と、その辺の事情についてそなたらを内密に呼んで話を聞こうかと相談していたところだったのだそうだ」 「なるほど。ちょうどタイミングが良かったというわけですか」 「実のところ、余はゼウスに女神達への根回しを丸投げする事は心配だったのだが、『女性を口説き落とすことにかけては儂の右に出るものはおらぬと自負しておるぞ』と言われて…思わず納得してしまった」 「ははは、有無を言わさぬ説得力のあるお言葉ですね」 ハーデスは嬉しさを押さえきれない様子でにこにこと微笑み、その喜びは双子神にも伝播していた。 ゼウスが交渉役を引き受けてくれてもすんなりと話は纏まるまいと思っていたが、大神である彼を少々過小評価していたようだ。これならとんとん拍子に縁談がまとまるかもしれない…そんな期待が彼らの判断力を鈍らせた。 冥王は淡く頬を染めて言葉を続ける。 「ゼウスが予想以上に良い反応をしてくれたのでな、余は本音を話してみたのだ」 「本音?」 「余は女性とまともに付き合った事が無い故、いざベルセフォネーと会う事になったその時はどうすればよいのか分からず戸惑っているのだ、と」 「ほう…で、ゼウス様は何と?」 「『兄上は遠慮しすぎだぞ。女性は少々強引な男が好きなのだから、強引に攫って冥府に連れて行けばよいではないか』だそうだ」 「強引に攫うですか…ははは、それは良い」 「確かにハーデス様はそのくらいでちょうど良いかもしれませんね」 「そうなのか。では準備が出来たらベルセフォネーを攫ってくるとしよう」 にこにことハーデスが言った言葉に、双子神は声を出して笑った。 …この時。 ゼウスと双子神、ハーデスそれぞれの『攫えば良い』という言葉の認識に大きな齟齬がある事を、誰も気づいていなかった。 ゼウスの言葉は『攫うくらいの心意気で積極的に行け』という意味だと双子神は解釈した。そしてハーデスもゼウスの言葉は冗談だと分かっているという前提 で話をした。だから、爽やかな笑顔と共にハーデスが口にした言葉も冗談だと信じて、疑うことすらしないまま冗談で言葉を返したのだ。 無論、ハーデスもゼウスの『攫えば良い』発言は多少疑っていた。しかし信頼する『兄上達』が笑顔でその言葉を容認したので、なるほどそう言うものなのかと信じてしまったのである。 そして、互いに認識の齟齬と誤解と勘違いがある事に気付かないまま、『その日』は訪れた…。 |
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| 冒頭の、超真顔で「ハーデス様の縁談を進めるぞ、お前も知恵を出せ!」
というタナトスと、「あーあー、また馬鹿兄貴が冗談言ってるよ」と相手にしないヒュプというのはかなり当初からイメージがありました。途中の会話は書いて
は消し書いては消ししつつ。一番の難関は、「攫えばいいよ」というゼウスの冗談を真に受けたハーデスを、何故双子神が止めなかったか?という部分のこじつ
けでした。 同じ言葉を正反対に解釈した事をお互いが気付かないままハーデスが行動を起こして、「エエエエエエエエエェェェェエエエ!!!!???」となるわけですね(笑)。 あとはタナトスの直感は凄いんだ!というエピソードを入れたかったのでその点をクリアできたことも満足です。でも、その素晴らしいタナトスのカンピュー ターも、ヒュプノスの冷静な頭脳も、可愛い弟の縁談が予想外にうまく行った(と、勘違いした)ことで鈍ってしまったよと、そんな感じです。 |