| …タナトスがシジフォス王に拘束されて四日目、冥府。 冥王ハーデスは、冥妃ベルセフォネー、ヘカーテ、ヒュプノス、夢の四神を自身の執務室に呼び出していた。 「そなたらに集まってもらったのは他でもない。断言は出来ぬが、タナトスの身に不測の事態が起きたやも知れぬのだ」 真剣この上ない顔でハーデスが告げた言葉に集まった神々の顔色がサッと変わった。 タナトスが数日冥府を開ける事は珍しくないとはいえ、何となく不自然なものは皆感じていたのだろう。 ハーデスは低い声でつづけた。 「実はな、ここ数日、死者が一人も冥府を訪れておらぬのだ。…地上の人間は増え続け死者も増えている故、タナトスが数日かけて死者の魂を集めた結果、数日 間死者が冥府を訪れなかった前例はいくつかある。しかし、タナトスが三日以上かけても死者の魂を集めきれなかった事など、大きな戦か災害が起きた時しかな かったはず。そして今の地上では戦も災害も無い。そうなると、タナトスの身に何かあったのではないかと思えてならぬのだ」 「タナトスから何か事情とか、伝言とか、誰か聞いてないの?」 冥妃が心配そうに尋ねたが答える者はいない。 皆を見回してハーデスが口を開いた。 「余が最後にタナトスと会ったのは四日前、アレスの戦ごっこに付き合われた人間の名簿と髪を受け取った時だ。その時は何も言っていなかった。その後、タナトスに会った者はおらぬか?」 「…オルフェウスはどうだ?私達にわざわざ言うまでもない些細な事でも、あいつには言っているかもしれんぞ」 「余もそう思ってオルフェウスに尋ねたのだがな。『次の仕事がある』と言って、自身の神殿に一旦戻ってすぐ出て行ったとしか言っていなかった」 「それだけでは何とも分かりませんね…」 「なぁハーデス。タナトスの身に何かあったかもしれない、ときちんと伝えたうえでオルフェウスに尋ねたか?実際はもう少し詳しい事を聞いていたが、事の重大性を知らぬから簡潔に答えただけかもしれぬぞ」 「………!」 ヘカーテの指摘にハーデスは目を見開いた。 「…それは思いつかなかった。確かにそうだな、もう一度オルフェウスに話を聞いてみよう」 「では私もお供いたします」 ハーデスが立ち上がると即座にヒュプノスが立ち上がった。 相変わらずタナトス神殿で細々と働いていたオルフェウスは、強張った表情で神殿を訪れたハーデスとヒュプノスの姿に驚き、タナトスの身に何かあったかもしれないと聞いて真っ青になった。 「という訳でオルフェウスよ。数日前に冥府に戻ってきたタナトスは、仕事に行く以外に何か言っていなかったか?」 「え…と…その……」 「言っていたのだな?何故黙っていたのだ!?」 「落ち付けヒュプノス。オルフェウスはタナトスの身に何かあったなど知らなかったのだ、余計な事を言わなかった事を責めるのは酷というもの。…オルフェウ ス。タナトスはそなたに口止めしたのかもしれぬが、今は緊急事態、口止め云々など呑気な事を言っている場合ではない。何かあった時の責任は余が取る故、話 してくれぬか」 「………。大神ゼウス様直々に内密の仕事を頼まれたとおっしゃっていました。内密の依頼だから誰にも言ってはいけない、と…」 「ゼウス?」 「あ、あとそれから、必要なものを取りに戻っただけ、ともおっしゃっていました」 「………」 ハーデスとヒュプノスは顔を見合わせ、オルフェウスに軽く礼を言って神殿に入った。 仕事場を兼ねたタナトスの部屋に入ったふたりは棚の一つを開けた。 …そこにあるはずのヘパイストスの手枷がない。 以前、夫の身代わりになって死の運命を引き受けた王妃の魂をタナトスが迎えに行った時、たまたまその場に居合わせた英雄ヘラクレスに死者の魂を力づくで奪い返されたという事件があった。 この事件を重く見たゼウスとハーデスは、鍛冶の神ヘパイストスに頼んで小宇宙を封じる手枷を造ってもらったのだ。タナトスがその手枷をわざわざ取りに 戻ったという事は、死の神と互角に戦える力を持った英雄か、英雄の誰かに身辺を護衛されるほどの身分の者を迎えに行ったという事だ。 ハーデスは唇を噛んで低く呻いた。 「またゼウスか…」 「ハーデス様」 「今すぐオリンポスに行くぞ、ヒュプノス」 「お供いたします」 深い湖のような翠の眼に激しい怒りを孕むハーデスの言葉に、怒りのあまり無表情になったヒュプノスが頷いた。 一方その頃、オリンポス神殿でもちょっとした騒ぎが起きていた。 真っ先に世界の異変に気付いたのは、いつものように戦ごっこに興じていた軍神アレスだった。首を斬られ腹を裂かれた人間達に一向に死が訪れないのである。しば らくは『タナトスも色々と忙しいからこっちは後回しにしてんのかね』程度に呑気に考えていたが、生きながら死にきれず身体が腐り始めてもなお冥府に旅立て ない人間の苦悶の声が数日続くと、流石におかしいと思い始めた。 神殿に戻って情報屋のヘルメスに話を聞くと、オリンポスだけでなく世界中で人間が死ななくなって少なからずの騒ぎと混乱が起きているのだという。 「明らかに異常事態です、タナトス殿の身に何かあったとしか思えません。処刑され首を斬られた者、崖から転落した者、喧嘩の末に刺された者…普通ならとっ くに冥府に旅立っているはずの人間に死が訪れず、死の間際の絶大な苦痛が終わらずに苦しみ続けているんです。中には『殺した奴が死なない!』と叫び出す者 もいる始末。…一方で、病気や老衰で寿命が尽きた者は『冥府に行かなくて済む!』と大喜びですけどね」 常にそつの無い笑みを浮かべているヘルメスにしては珍しく真剣な顔で言って、彼は声を潜めて続けた。 「しかも、です。この異常事態にも関わらず、何故か父上は黙して語らずなのですよ。夜の一族の長兄の身に何かあったのはほぼ間違いない、なのに何も行動を起こさないのです。…これは一体、どういう事でしょうね」 「なーにが『どういう事でしょうね』だよ。この異常事態の原因作ったのがクソ親父で、心当たりがありすぎて言うに言えねーんだろ。どうせ女絡みなんだろう けどよ、このまま知らん顔してたら超絶ブラコンの伯父貴と優等生が怒鳴りこんで来るんじゃねーの?大真面目に怒らせたらオフクロよりあのブラコンコンビの 方が怖いと俺は思うけどなァ」 「…おや、噂をすればのようですよ」 ヘルメスが薄く微笑んで目で示した先を見ると、冥王と眠りの神が明らかに異様なオーラを纏ってゼウスの部屋に向かうのが見えた。 普段なら軽く肩を叩いて声をかけるのだが、無神経で図太いアレスでも声をかけるのが躊躇われるほど二神の纏う空気は異常だった。 ここはひとつ集団で話を聞きに行こう…そう思ったアレスは、争いの女神エリスがオリンポスを訪れていた事を思い出し、彼女の姿を探し始めた。 …目的の女神はアテナやアルテミスと一緒に客間でなにやら話し込んでいた。 「おーっす、エリス。ちょっとツラ貸してくんねーか?」 「ちょっとアレス、いきなり入ってきて何なのよ?礼儀を弁えなさいよね」 「私達、大事な話をしてるの。後にして」 「なぁなぁエリス、オニイサマに何かあったのか?」 処女神達のきつい視線と言葉は風のように受け流してタナトスの妹神に尋ねると、エリスはただでさえ深刻そうだった顔をさらに深刻にした。 やはり、地上の人間達が死なないという異変は彼女も知っていたらしい。 「うん…兄貴に何かあったとしか思えなくてね。事情を聞きに冥府に行こうかと思ってたんだけど…アレス、何か知ってるの?」 「ちょっとばかし面白い情報は有るんだけどよ。お前はともかく、俺が顔を出すなり礼儀をわきまえろとか後にしろとか言う生意気な妹にタダで教えるわけにはいかねーなぁ。少なくとも謝罪はしてもらわねーと」 アレスの言葉にアテナとアルテミスがムッとしつつも好奇心を押さえきれない顔を見合せた時、不意に客間のドアが乱暴に開けられた。 「ねぇねぇ皆!大変だよ、ハーデス伯父さんがヒュプノスだけを連れて父上に会いに来てるんだ!あれ、絶対タナトスのこと聞きに来たんだよ、だってふたりと も今まで見たことないくらいすっごい怖い顔してるし!ちょっと話を聞きに行きたいんだけど僕だけじゃ心細いからさ、一緒に来てくれない!?」 顔を覗かせたアポロンが興奮気味に喚いた。 その言葉にアレスは複雑この上ない顔になり、女神達はアレスの『面白い情報』が何なのか容易に察する事が出来た。 アルテミスは冷ややかな眼をアレスに向けた。 「で、アレスの言う『面白い情報』って何?」 「何でもねーよ!じゃあ伯父貴と優等生にタナトスの事を聞きに行きましょーかねっ!」 …ゼウスの部屋に続く廊下の途中でハーデスとヒュプノスを待っていた神々は、ふたりの纏う怒りのオーラに圧倒されて声をかけるのを躊躇っていたが。 やはり兄の身が心配だったのか、エリスが小走りに近づいた。その後にアレス、アポロン、処女神が遠慮がちに続いた。 「ハーデス様、ヒュプ兄」 「エリス。オリンポスにいたのか」 「うん。…で、タナ兄に何かあったらしいって本当ですか?」 「その可能性が高い。タナトスは『大神に内密に仕事を頼まれた』と言い残してそれっきり冥府に帰って来ず、死者もやってこなくなったのだ。ゼウスに話を聞けば手がかりが掴めるかと思ってな」 「やっぱりうちのクソ親父が一枚噛んでたのかよ」 「変だなーとは思ったんだよね。この異常事態にダンマリ決め込んでんだもん」 「そうか、やはりゼウスか」 甥の言葉にハーデスは彼らが今まで見たことも無いような厳しい顔になり、傍らでひたすら無言を貫いているヒュプノスを促してゼウスの部屋に向かった。 その後ろ姿を見送ったエリスがボソッと呟いた。 「やっばい。ハーデス様もだけど、ヒュプ兄はブチ切れ寸前だよ。あれ、兄貴が一番怒ってる時の顔だ」 「そうなんだ?」 「うん。ヒュプ兄があの顔してる時は、タナ兄も怖がって近づかないの」 「それはマジでヤバいな」 「父上、本気であのブラコン達を怒らせちゃったか」 「大変だわ」 口々に大変だ大変だと言いながら、神々は好奇心を押さえきれない顔でふたりの後を追った。 …冥王ハーデスが眠りの神ヒュプノスを同伴してオリンポスを訪れたと聞き、大神ゼウスは事態を甘く見て放って置いた事を今更ながら後悔した。 ふたりの来訪の目的は地上を襲った異常事態と、それに伴う死の神の行方だろう。 無論ゼウスも異常事態にはとっくに気付いていたし、コリントス国で何かあったのかもしれないと思ってはいた。しかしコリントス国にもシジフォスの友人に も、死の神と互角にやり合えるような英雄はいないから、タナトスの行方不明事件は自分が依頼した仕事は無関係かもしれない、無関係じゃないかなぁ、無関係 だと良いなぁ、などと甘く考えていたのである。 普段おとなしい奴ほど本気で怒ったらとんでもなく恐ろしいという傾向がある。浮気がばれてヘラに罵倒を浴びせられるのが嫌だなどと呑気な事を言っている 場合ではない。とにかく事情を話して、謝って、タナトス捜索に全力を上げると約束して、それから…などと考えていると、ノックも無しに扉が開いて兄神が部 屋に入ってきた。その後ろを、恐ろしいほどに無表情の眠りの神と、野次馬らしい神々が付いて来た。 ゼウスが口を開きかけた途端、ハーデスが言い放った。 「我が兄タナトスを返せ、ゼウス。諸々の言い訳はその後で聞く」 「………」 いきなり出鼻を挫かれた。 言葉を失って口をパクパクするゼウスの姿に、ハーデスはますます眼差しをきつくした。 タナトス失踪に関して後ろ暗いことがないなら、堂々と反論してくるはずだ。それが出来ないという事は、後ろめたい心当たりがあると告白しているに等しい。 アレスが呆れたように言った。 「やっぱり親父が原因かよ。あんた、タナトスに何をしたんだ?」 「あ…その、人間をひとり、冥府に連れて行くように頼んだのだ。その人間は儂や河神アーソーポスを私利私欲の為に利用し、実の姪を逆恨みの道具として利用した、どうしようもない屑だったから…」 「んーなクズ野郎なら親父自ら手ェ下せばいいじゃねーか。アスクレピオスの時みたいに雷霆でドカーンと一発、見せしめによ。何でそんなコソコソするんだ?」 「そーいやさ、アーソーポスの末娘のアイギーナに父上は目を付けてたよね。浮気相手として」 「ちょ…親父まさか、浮気がオフクロにバレてギャンギャン言われるのが嫌だったから、そのクズ野郎の始末をタナトスに頼んだのか?」 「………」 ゼウスは両手を顔の前で振りながら、あの…その…それは…とモゴモゴ言っている。アレスの質問を肯定したも同然だった。 皆の冷たい視線にダラダラと汗を流して居心地悪そうにする大神の姿に盛大に溜息をついて、アレスはガリガリと頭を掻いた。 「…ま、こんな騒ぎになったおかげで浮気の一件はウヤムヤだな。オフクロがヒス起こす事もないだろうし、結果オーライじゃねーか。んじゃ早速タナトス失踪事件の捜査を始めるかね。で?タナトスはどこにいるんだ?」 「そ…それが分かればとっくに迎えに行っておる!分からぬのでどうしたものかとここ数日悩んでおったのじゃ!」 「ならば探し出せ」 漸く言い訳の糸口が見えて巻き返しを図ろうとしたゼウスにハーデスが冷たく言い放った。 冥王は手近な椅子に腰を降ろしてじろりと弟を睨んだ。 「兄を探し出して、無事に余の前に連れて来い。タナトスが戻るまでお前の言葉の一切は余の耳には入らぬ。…ヒュプノス」 「は」 「そなたもここで待て。ゼウスの不始末のフォローに我々が手を貸す筋合いは無い故な。良いな?タナトスが戻るまで余と共にここで待て」 「…畏まりました」 本当は情報を聞き出し次第タナトスを探しに行きたかったらしいヒュプノスは、不服そうな顔をしながらも頷いてハーデスの隣の椅子に腰を降ろした。 またしても取りつく島もなく話し合いを拒否されて冷や汗を流すゼウスに、アレスは呆れながらも声をかけた。 「親父よ、本当にタナトスがどこにいるのかわかんねーのか?あいつは親父が依頼した仕事をこなすって言って行方不明になったんだろ?そのクズ野郎にハメられたんじゃねーのか?」 「しかし、コリントス国にはタナトス殿と互角以上に戦えるような英雄はおらぬ。シジフォスの友人にも英雄はおらぬし、シジフォス側がタナトス殿をどうこうできるとは思えぬぞ」 「力づくでタナトスをどうこうしたとは限らないんじゃない?確かシジフォスって狡賢いので有名な人間だったし、上手い事言いくるめてタナトスを罠にはめたのかもよ?」 「でも、罠にはめられたところでタナトスさんは戦う力を持った神よ。人間の道具で押さえつける事が出来るとは思えないけど」 「押さえつけたとは限らないじゃん。すっげー強力な眠り薬で眠らされて結界の中とかに閉じ込められてるのかも」 「眠りの神の双子の兄であるタナトスさんに人間の眠り薬なんて効くかしら?」 「例えだよ、た、と、え!ったくアテナは頭が固いなー」 「っだー!ここでグダグダ言っててもしゃーねーだろ!とにかくそのコリントスのシジフォスに話を聞けばいいだろーが!ちょっと待ってろ、まず俺がひとりで 行ってシジフォスを締め上げてタナトスの情報聞き出して来るから!俺まで戻らなかったらそのシジフォスが黒で確定だ!いいな!!」 怒鳴るだけ怒鳴ってアレスは踵を返した。 …恐らくタナトスは、狡賢いシジフォスに嵌められたのだろう。ならば、人間如きにしてやられた無様な姿などオリンポスの神には見せたいものではあるまい。 ハーデスかヒュプノスが動いてくれれば良かったが、彼らが動かないなら仕方ない。優等生の処女神達や口の軽いアポロンに助けられるよりは、多少なりとも親しくしている自分に助けられた方が幾分タナトスのプライドの傷付き具合は少なくて済むだろう。 そんな事を考えながらアレスは愛用の馬車に乗ってコリントスに向かった。 |
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タナトスがシジフォスに掴まっていた頃、他の神々は…な話です。「次はどのSSが読みたいですか?」とアンケをやっていた時に、「真っ先にタナトスを探しに
行きたいのに、アレスに先を越されて面白くないヒュプノスとか萌える」的なお言葉を頂きまして。そのお言葉がきっかけでオリンポスに乗り込んで来たハーデ
ス+ヒュプノスのシーンが出来ました。問答無用で「我が兄タナトスを返せ」と言い放つハーデスが今回のイチオシというか、書きたかったネタです。普段は
すっかり双子神の弟分だけど、いざという時は(タナトスが心配でウズウズしているヒュプノスに待機命令を出すほど)しっかり主君してる姿を描きたかったの
で。 あとはバカバカ言われながらも実はきちんと気遣い出来て頭も回って友達想いなアレスも書きたかったので、タナトスがチラとも出てないけど自己満足度は高い1話になりました。 |