| 熱い、と感じたのは一瞬だった。 血の池に身体が沈み、あっという間に手足の感覚が無くなり、灼熱の液体が肌だけでなく鼻腔や気管や肺までも灼いていく。もがきたくても身体が言う事を聞かない。 黄金聖闘士故の小宇宙と黄金聖衣のおかげで即死こそ免れたが、文字通り命が燃え尽きるのも時間の問題だろう。 底無しの池に沈みながら蟹座のシラーはぼんやりと思った。 (僕は…死が嫌いだった…死にたくなかったんだ…死にたくない…) 誰か、助けて。 僕を助けて。 仰向けで沈み行くシラーの手が水面に向かってふわりと浮き、まるで助けを求めるように伸ばされたその時。 真紅の液体がモーゼを迎えた海のように割れ、力強い手がシラーの手を掴み、彼を灼熱の池から引っ張り上げた。 微かに残った肌の感覚が空気の冷たさを、第六感が清廉な死の気配を感じている。 朧に霞んだ視界に満ちるのは神々しいばかりの眩い銀色。もっとはっきり見たいと思っても目が満足に開かない。 誰かが何か怒鳴っているような気がするが、酷い火傷でイカレてしまった鼓膜では聞きとることが出来ない。 (僕は、このまま死ぬの、かな…) 意識が闇に溶け落ちる寸前、シラーは確かに神の声を聞いた。 ――死ぬな、生きろ。 西暦2012年初夏、冥界。 ほんの数日前に聖域との和解が成立し、冥闘士達も肩の力が抜けたような表情で復旧作業を進めていたある日。冥王側近の双子神の元を、冥界三巨頭が一角グリフォンのミーノスが訪れた。 整った顔に曖昧な笑みを浮かべた優男は、恭しく傅いて口上を述べた。 「わざわざ神々のお耳に入れる必要もなかろうか…とは思ったのですが、イレギュラーには違いないので念のために御判断を仰ぎたく」 「何があった?」 「アテナの聖闘士が大勢、この冥界に訪れているのです。無論『正式な』死者として…ですが。コキュートスだけでなく各地獄が復旧途中ですので、現時点では他の死者と同じように行く先は保留しておりますが、彼らの処遇に関して御指示があればと」 報告を聞いたタナトスは眉間に皺を寄せ、ヒュプノスと視線を交わしてまたミーノスに戻した。 「アテナの聖闘士が大勢?地上で何かあったのか?」 「冥界を訪れた聖闘士からの又聞きですが、外界の神が地上を掌握するために聖域を落としに来たとか…」 「…………。状況は」 「各地に派遣されていた黄金聖闘士も聖域に集結しアテナ軍の態勢が整ったらしいので、聖闘士の犠牲は多少ありましょうが聖域側の勝利は目前かと思われます」 「…そうか。聖域側の勝利が揺るがぬなら、アテナの聖闘士が大挙して冥界にやって来て困ることはなかろう。通常の死者と同じように扱うが良い」 「ハ」 深々と一礼してミーノスが下がると、苛々と椅子の肘掛けを指で叩いていたタナトスが立ち上がった。その兄神の行動に、眠りの神が金色の睫毛を伏せたまま唇だけを動かした。 「…タナトス」 「分かっているさ、ヒュプノス。和解が成立したとはいえ、冥界の神である俺が今この状況で聖域に赴けば要らぬ混乱が起きる事くらいな。アテナの聖闘士があと何人ほど冥界にやってくるのか黄泉比良坂に様子を見に行くだけだ」 「…そうか」 なら良い、と呟く弟神の言葉を最後まで聞かず、タナトスは部屋を出て行った。 …黄泉比良坂に降り立ったタナトスは続々と冥界に訪れるアテナの聖闘士を見て鼻の頭に皺を寄せた。 確かに聖域との和解は成立した。しかしアテナの聖闘士に対する彼の心象は未だ決して好意的ではないし、コキュートスも崩壊したことで聖闘士達の魂が冥界から綺麗さっぱり無くなったことには一種の清々しささえ覚えていたのだ。 なのにまた、纏まった数の聖闘士が冥界を訪れるとは…。 不快感に舌打ちしながら黄泉比良坂を巡っていたタナトスの足がふと止まった。 …今にも消えそうなほど微弱だが、アテナの聖闘士の小宇宙を感じる。 普段なら気付かずに通り過ぎてしまいそうな微かなそれに気付いたのは、それが少なからずタナトスと因縁のある小宇宙だったからか。 (命ある聖闘士が黄泉比良坂にいるだと?) 不快な違和感を覚えたタナトスは小宇宙を感じる灼熱の血の池に足を向けた。 煮えたぎる真紅の液体も冥界の神の前では従順だ。死の神が手を翳すと、池の液体が偉大な指導者に命じられた海のように素直に割れて行き、中から助けを求めるように伸ばされた手が現れた。 「!」 その手が黄金色の聖衣を纏っていることに気付いたタナトスは、即座にその手を掴んで力強く引き上げた。 …灼熱の池に沈んでいたのは、黄金聖衣を纏った長い赤毛の男だった。長い髪が張り付いて見づらい上にタナトスの記憶にあるそれと少々形状が違ってはいるが、彼が纏っているのは間違いなく蟹座の黄金聖衣だった。 この男も、かつて俺に何度も仇為したあの連中と同じ蟹座の聖闘士か! タナトスはたちまち眉を吊り上げ灼熱の池から引きずり上げた男を怒鳴りつけた。 「蟹座の黄金聖闘士が何故この冥界で死にかけている!?俺へのあてつけか!」 「…………」 ヒューヒューと苦しげな呼吸音がするだけで返事はない。 …冥界の瘴気に満ちた黄泉比良坂で灼熱の池に沈んでいたのだ、聖衣を纏った黄金聖闘士でなければ…いや、冥界と相性の良い蟹座でなければ、とっくに冥界の住人になっていたはずだ。 今は辛うじて息があるものの、身体も内臓も火傷を負ったこの状況ではこの蟹座の聖闘士が正式に冥界の住人になるのは時間の問題…。 「…冗談ではないぞ。雑魚の聖闘士がまた冥界に居座るだけでも不快なのに、更に蟹座の黄金まで居座るなど!」 タナトスはギリッと歯軋りして男を睨みつけた。 このまま放っておけば、あと数分で彼は呼吸が出来ずに死ぬだろう。アテナの聖闘士、しかもよりによって蟹座の黄金の命を救ってやるなど業腹だったが、全ての地獄が復旧するまで彼が冥界に居座るのに比べればその命を救って聖域に追い返す方がいくらかマシだ。 死神は盛大に舌打ちして男の額に指を触れさせた。死の小宇宙を身体に流し込むことで仮死状態にし、絶命へのカウントダウンを強制的に止める為だ。 小宇宙を流し込みながらタナトスは苛々と男を怒鳴りつけた。 「この俺、死の神タナトスが命を繋いでやるのだ。これから後、くだらん理由で冥界に来たら赦さんぞ。いいな?絶対に死ぬな、生きろ!!」 凄まじい不機嫌オーラを撒き散らしながら乱暴な足取りで第一獄にやって来たタナトスの姿を見るなり、ミーノスとルネは即座に仕事の手を止めて死神の足元に駆け寄って傅いた、その途端。 どさり。 黄金聖衣を纏った赤毛の男が二人の前に投げ出された。全身に酷い火傷を負い、息すらしていないようだが…。 何故タナトス神が聖闘士をここに?と二人が不思議に思った時、頭上から声が降ってきた。 「ドリュアスのルコに伝えろ、この男を治療しろと。向こう三百年は死ぬことのないよう隅から隅まで徹底的に、だ!俺自らが聖域に届けに行く故、治療が終わり次第報告せよ。良いな!」 「…ハ!」 タナトスの言葉は無茶苦茶だったが異を唱える事など出来ない。二人は目の前に転がされた黄金聖闘士を担いでドリュアスのルコの元に運び込んだ。 …ミーノスからタナトスの命令を聞いたルコは、『三百年の保証は出来ませんが出来るだけの事は致しましょう』と苦笑しながらあらゆる薬と冥界の鈴蘭を持ってきて男の治療を始めたのだった。 ………… …意識がゆっくりと覚醒する。数回目を瞬くと見慣れた巨蟹宮の天井が見えた。 寝台に横たわったシラーは目にかかった髪を無意識に払ってふと手を止めた。朧だった記憶が次第に戻ってくる。 (そうだ、僕は敵の罠にはまって自分の積尸気冥界波に巻き込まれて、そして) そして… 灼熱の血の池に肌を灼かれる感覚を思い出して彼はビクリと身体を震わせ、自分の手をまじまじと見た。 どこにも火傷の痕はない。五本ある指もちゃんと動く。 そろそろと寝台に起き上がって掛け布をめくると、筋肉痛のような痺れは多少あるが両足とも無事だった。服を脱ぎ、鏡を覗いて確認したがどこにも火傷の痕はない。それどころか、過去の鍛錬中に負った怪我の傷まで綺麗に無くなっている。 「何故…」 思わず呟いてシラーは喉に手を当てた。 声が出る。問題なく出る。呼吸もできないほど喉が灼け爛れていたはずなのに。 あれが夢であったはずがない。あんな痛みと恐怖と絶望と現実感を伴う夢があってたまるものか。もしあるとするならば、それは神が見せた夢だ。 (…神?) ――死ぬな、生きろ。 遠のく意識の中で最後に聞いた声、僕は何故あの声を神の声だと思った? 混乱する頭を掴んだシラーは、寝台の脇のテーブルにメモが乗っていることに気付いた。広げてみるとそこには上品な文字がしたためられていた。 『目が覚めたら教皇宮まで来るように。 教皇シオン』 黄金聖闘士が教皇に会うだけなら特段の約束も必要ない。 鈍い重さが残る体でゆっくりと十二宮の階段を上っていると、見知った顔の大男が階段を降りて来た。 牡牛座のハービンジャー。少々扱いにくい性質のシラーにも真正面から接してくる人の良い兄貴分だ。 シラーの姿を認めたハービンジャーは二カッと笑って片手をあげた。 「よぉ、王子様!漸くお目覚めか?身体はもういいのか?」 「…『漸く』?僕は一体何日くらい眠っていたんだ?」 「『何日』ってお前…まだ寝ぼけてんのか?ちょっと周り見てみろ、季節変わってるだろうが」 「!」 言われて初めて景色を見回せば、あの時は緑の葉を繁らせていた木々は茶色く枯れ、吹き抜ける風は肌を刺すほど冷たくなっていた。 驚いて目を見開くシラーの姿にゲラゲラ笑いながらハービンジャーは腕を組んで話し始めた。 「自称『火星からやってきた神様』をぶっ飛ばして一段落した後でお前が十二宮から跡形もなく消えてることに皆が気付いてな、『きっとあいつ、自分の積尸気 冥界波を食らって冥界飛ばされてそのままくたばったんだよ。変なところで抜けてる奴だったから』とか話をしてた時にあの野郎が…あ、『あの野郎』って言い 方はまずいな、『あのお方』だな…が、お前を担いで聖域にお出ましになってくれやがって、教皇から雑兵まで上へ下への大騒ぎが起きてから、ざっと半年!だ な。ま、死の淵まで行っといて無傷で帰ってきたんだから半年なんて安いもんだろ」 「…あのお方?」 冷たい木枯らしがシラーの服の裾と長い赤毛を揺らして吹き抜けた。 ハービンジャーは年中無休で真夏の太陽みたいな笑顔を浮かべて教皇宮を指差した。 「ま、詳しい話は教皇から聞けよ。呼ばれてんだろ?」 「…ああ」 ひとつ頷いて、シラーは真実を知るために階段を昇り始めた。 |
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| Ωのシラーさん退場が余りにもショックで、シラーさんと自分のべコベコの心を救済するべく書いたSSです。シラーさんが言っていた『僕は死が嫌いだ』発
言と、当サイトオリジナル設定の『シラーさんはタナトス大好き』を両立させるこじつけも書くつもりです。なので当サイトの独自設定に繋がる話になります。
沙織アテナは健在ですし、教皇はシオンです。黄金は多分、全員Ωの黄金。射手座は…考えてないです(笑)。 このSSでシラーさん(や、聖域の皆)が戦った相手が誰かは明確に決めていません。Ωの世界観をそっくり当サイトのSSに持ってくると色々と矛盾しそう なので…。なのでパラレル的な世界と考えて頂ければ。「逢魔の時」はΩにも当サイトSSにも繋がるような曖昧な終わり方にしたかったので潔く分割しまし た。 で、黄泉比良坂(Ωではあくまで『冥界の入口』と言う事でしたが)の溶岩の池におっこちた人を助けられる力があるのはやっぱり神様しかいないでしょ、と 言う事でタナトス様出動です。時間軸的にはSS『再会』のすぐ後を想定していますので、タナトスの聖闘士に対する印象は宜しくないままですし、自分を殴っ たり封印したり裏切ったふりして裏切ってなかったりした蟹座の聖闘士に対する印象は最悪です。なので、『大嫌いな奴が自分の近くにいるなんて不愉快だ!』 という実に身勝手な理由でシラーさんを助けて頂くことにしました。あと、蟹座の聖闘士になるからには得意分野が似通うから、小宇宙の波動みたいのも似て来 るんじゃないかなーと思います。 んで、溶岩の池に落ちたら全身火傷で肌から気管から内臓から全てやられて、一命を取り留めても聖域の医療では完全復帰は不可能だろうなーと思い、ドリュ アスのルコ登場となりました。何かあの人だったら鈴蘭でひと撫でするだけで何でも治しちゃいそうなイメージがありまして。…というか、神の力を込めた治療 用鈴蘭(ベホマの効果があるとか)とかが一杯あるんじゃないかなと想像。 そして、すっかりハービンジャーさんはシラーさんの相方として定着した感が。2012年11月現在で判明してる黄金メンバーで、シラーさんとそこそこう まく付き合えそうなイメージがあるのは牛さんだけだったので。サイキのガデスと刹那みたいな関係かな、と思って書いています。シラーさんが半年眠っていた 設定にしたのは、その半年間に聖域と冥界の間には和解が定着してそれなりに穏便に仲良くやってるし、タナトスは城戸財閥のモデルもやってるよって事にした かったからです。シラーさんが目覚めたのはSS「聖夜」の少し前を想定しています。 |