拝謁の時
EPISODE 2

「まずは、お前が無事に目覚めて安心した、と言おうか?シラー」
「御心配をおかけして、申し訳ありませんでした」

 穏やかに微笑む教皇シオンに言葉をかけられ、シラーは礼に叶った会釈をした。
 かけなさい、と勧められた椅子に素直に腰を降ろすと、教皇てづから淹れた紅茶とパウンドケーキが供された。

「アテナお勧めの洋菓子店のパウンドケーキだ。とても美味だぞ」
「…頂きます」

 流石にいきなり本題は切り出さないか。
 そう思いながらシラーはケーキを割ってひとかけら口に入れた。
 …確かに美味い。半年間何も食べていないから余計にそう感じるのかもしれないが。あっという間に一切れ食べ終わると、まだあるぞ、好きなだけ食べるが良いと箱を差し出された。有難く二切れ目を口に入れると、シオンは孫と一緒にお茶を楽しむ祖父のような顔で微笑んでいる。
 妙な気恥かしさを感じたシラーは口の中のケーキを紅茶で流し込んで背筋を伸ばした。

「…あの、」
「シラー。私がお前とこうしてきちんと向かい合って話すのはこれが初めてだな」
「はい。……」
「どうしてもっと早くこうしなかったのかと後悔している。…いつも私はそうだった、何かが起きてから後悔する。先の聖戦の時も、サガの時も、お前の時も…」
「……?」

 紅茶に映る自分を見つめてシオンは悔恨の呟きを零し、反応に困っているシラーに気付いて軽く頭を振った。

「いや、この話は後にしよう。お前の身に何があったのかだが…それを話す前に教えておくことがある。聖域が外界の神の襲撃を受ける数日前、聖域は冥界と秘密裏に和平を成立させた」
「え?あの、長らく地上の覇権を巡って争って来た冥王ハーデスが君臨する、あの冥界と…ですか?」
「そうだ」
「そのような重要な話、僕は伺った覚えがありませんが」
「無理もない。私や童虎すら事前に何も聞いておらず、冥界との和平が成立した後にアテナから『事後報告になりますけれど』という前置き付きで伺ったのだ。ア テナは『冥王の正式な代理である双子神と神々の誓いの儀式を交わしたから、和平は揺るがぬ約束ですわ』とおっしゃるが、はいそうですかと安易に発表するわ けにはいかん。相応の準備をしてから慎重に皆に伝えなければ…と計画を立てている矢先にあの外界の神の侵略が起きたのだ」
「…………」

 シラーは眼差しをきつくした。
 今の話から行くと、自分が冥界の黄泉比良坂で命を落としかけたのは聖域と冥界の和解が成立した後の事。自分が無事でいることとシオンの話には密接な関係があるのは間違いない。
 シオンは紅茶で唇を湿らせて彼と視線を合わせた。

「…シラー。お前を死の淵から救い、命を繋いでくれたのは…死の神タナトスだ」
「…………え?」

 余りにも信じがたい名前にシラーは自分の耳を疑った。
 …あの時。
 灼熱の池に沈みゆく自分を引き上げ、助けてくれた『誰か』。
 死ぬな、生きろという声。
 ――神の声。
 言葉を失うシラーにシオンは重ねて言った。

「偶然だった、とタナトス神はおっしゃっていた。アテナの聖闘士が大勢冥界を訪れたから様子を見ようと黄泉比良坂に出向いた時、偶然お前の小宇宙に気付い たのだ、と。『俺と因縁のある蟹座だったおかげで命拾いしたな。他の聖闘士だったら血の池の底で溶けていても気付かなかったであろう。この死の神タナトス が命を助けてやったのだ、向こう三百年は冥界に来るなと言っておけ』とひどく不機嫌そうに」
「…………」
「タナトス神がお出ましになった時はそれはそれは大変な騒ぎだった。何せ、外界の神を漸く撃退したところにその神に勝るとも劣らぬ小宇宙を纏った見知らぬ 神が、黄金聖闘士に匹敵する小宇宙を持った戦士を同伴して現れたのだからな。タナトス神が律儀に第一宮の白羊宮を訪ね、間接的とは言えタナトス神と戦いそ の小宇宙を知っていた貴鬼が応対したのは不幸中の幸いだったと言えよう」
「…………」
「驚 いた貴鬼が『冥界の神タナトスが蟹座のシラーを担いだお供を連れて白羊宮に現れました』と聖域中にテレパシーを発信したものだから、アテナと私と童虎、黄金聖闘 士全員、そしてタナトス神を一目見ようと野次馬の聖闘士や候補生達が白羊宮に詰めかけてな。それはもうてんやわんやだった」

 ふふ、と笑ってシオンは話を続けた。

「タナトス神も皆の慌てぶりを見て、冥界と聖域の和解が成立した事をまだ聖闘士達が知らないと気付いたのだろうな。まるで演説のような口調でこう話され た。『アテナよ、我が冥界にあなたの聖闘士が多数訪れて、その理由を聞いて大変驚いた。和平が成立した今、我々にあなた方に対する害意や敵意が無いことを 証明するため我が冥界から援軍を送るべきかと思っていたのだが、無事解決したようで何よりだ。援軍を送れなかった代わりと言う訳ではないが、黄泉比良坂で 冥界の住人になりかけていた蟹座の黄金聖闘士を返しに来た。命を繋ぐために俺の死の小宇宙を注ぎ込んだ故しばらくは仮死状態が続くが、怪我も病気も全て治してある故、俺の小宇宙が抜けきれば問題なく目を覚ますはずだ』と。…そこで二度目の大騒ぎだ」
「…………」
「皮肉なものだな、シラー。死を嫌うが故に蟹座の黄金聖闘士になったお前を徹底的に死から遠ざけてくれたのが死の神だったとは」
「…………」

 驚きのあまり言葉も出ず、告げられた言葉は事実だと頭では思っても実感も感情も付いて来ない。
 目を見開いたまま絶句しているシラーを見て、シオンは口元に穏やかな笑みを浮かべて紅茶に視線を落とした。

「…少し、昔話をしようか。先の聖戦、私がまだ青二才の若造だった頃の話だ。当時の教皇セージ様は私の師匠の双子の弟で、『私は兄上に黄金聖衣も教皇の座も押し付けられたのだ』というのが口癖だった」
「は…」
「セージ教皇は、今からおよそ五百年前の聖戦を双子の兄と共に戦い、その聖戦において冥王臣下である死と眠りの双子神と対峙し、目の前で同胞を皆殺しにさ れ、いつか必ず一矢を報いると神に向かって宣言し、その決意を胸に二百数十年の生涯を捧げ、次の時代への鎹となったのだ」
「………?」

 死の神と言う単語は出て来たがこの昔話に一体何の意味があるのか…シラーが怪訝に思っていると、シオンは目を伏せたままさらりと重要な言葉を続けた。

「…セージ教皇は、弟子に聖衣を継承するまでは蟹座の黄金聖闘士も兼ねておられた」
「!」

 シオンが目を上げると視線が合って、シラーは反射的に視線を逸らし、無意識の自分の行動にギクリとした。
 それに気付いていないはずはないシオンは、彼の行動には触れずに話を続けた。

「セージ様は生涯でたった一人だけ弟子を取った。セージ様の唯一の弟子、つまり蟹座の聖衣を受け継いだ男はマニゴルドと言った」
「マニゴルド…『死刑執行人』?」
「彼は戦災孤児で、追い剥ぎをしては日々の糧を得る生活をしていた。そんな荒んだ日々の中で彼はセージ様に出会った。その出会いが彼の運命を変えたのだろうと私は信じている」
「追い剥ぎの戦災孤児が、聖域の教皇に会った?」
「マニゴルドはな、セージ様が町の視察に出ているところを見かけて、彼を殺して金目の物を奪おうと斬り掛かったのだよ。相手が聖域の教皇とは露知らずな」
「それはまた、…大胆な」
「セージ様に取り押さえられて『命なんて塵芥も同然、自分もその一人。殺すならさっさとやれ』と要求するマニゴルドに、セージ様はこう諭したそうだ」

 シオンははっきりと意図的に言葉を切った。
 顔を上げて私の眼を見なさい。
 無言の圧力を感じながらシラーは顔を上げてシオンに目を向けた。…自分の手は何故、こんなにも震えているのだろうと思いながら。
 シラーとはっきりと眼を合わせてシオンは言った。

「『以前、同胞が多く斃れた。その様は確かに塵芥のようであったかもしれん。だが私は彼らの極限の生を知っている。私にとっての命とは塵芥などでは決してない。勿論お前の命もな』…と」
「…………」
「ゴミでなければ何なんだ、とマニゴルドに問われたセージ様は迷うことなく答えた。『宇宙よ』」
「………、………」

 喉がカラカラに乾いている。
 シラーは震える手でカップを持って紅茶を口に含んだ。
 シオンは静かに言葉を紡ぐ。

「我々一人ひとりの命はちっぽけでもそれぞれが宇宙の一部なのだ。それを理解し、感じ、燃焼させれば命は輝く事が出来る。誰でもな」
「…………」
「『誰でもな』とセージ様はおっしゃった。誰の命でも輝く事が出来る。命は塵芥ではない。塵芥に等しい命などないのだよ、シラー」
「…………」

 空になったカップを震える手で戻すと、ソーサーにぶつかってカチカチと音がした。
 シオンの顔は見れない。

「そして蟹座の聖闘士となったマニゴルドは、師匠セージと共に聖戦を戦い、死の神タナトスに挑み、そして…」
「…………」
「そして、二人は死にすら打ち勝った。己の命と引き換えに死の神を聖櫃に封印することに成功したのだ」
「死に…勝った…」
「そうだ。蟹座の聖闘士は死に勝ったのだ」
「……………」

 膝を掴んだ手の震えが止まらない。いや、膝も震えているのか。

「そして最後の聖戦を戦った蟹座のデスマスク…つまりお前の師だな。セージ、マニゴルド師弟とは全く違う変則的な形ではあるが、彼もまた死に挑んでいた。奴の事だ、どうせ捻くれた伝え方しかしていないだろうが」
「…………」
「二百数十年前の聖戦で蟹座師弟に煮え湯を飲まされたタナトス神は蟹座のデスマスクを警戒してずっと監視していた。そこで彼はその監視を逆手にとり、徹底的にアテナ軍の裏切り者になりきり、とことん 道化を演じた。神々の眼すら欺き、後に続く私達に対する冥王軍の警戒感を緩めさせ、皆の進む道を切り開いた。星矢達はデスマスクが開いた道を進み、アテナの血を受け、神聖衣 を纏い、そして冥界の神々を破ったのだ。後にタナトス神は『聖戦では二回続けて蟹座にしてやられた』と苦い顔でおっしゃっていたな」
「…………」

 シラーは目を見開いた。
 彼の師であるデスマスクはストレートな指導や自慢はせずに『自身の行動や捻くれた言葉の裏を読んで学べ』というタイプだと言う事は分かっていた。が、『最 後の聖戦』に関しては『俺は大したことは何もしてねーよ。ハーデスに乗ったふりして一芝居打っただけ。演技が迫真すぎて星矢にマジでボコられて貧乏籤だっ たぜ』という彼の言葉を(他の聖闘士に話を聞いても内容は概ね同じだったので)そのまま信じていたのだ。
 言葉を失うシラーに、教皇シオンは言葉の一つ一つを噛み締めるように言った。

「蟹座の聖闘士達は、死を恐れず、死から逃げず、死から眼を逸らさず、真正面から死に立ち向かい、死に一矢を報い、そして死の神に鮮烈な印象を与えたのだ」
「…………」
「此度の一件でお前の命を直接救ったのはタナトス神だ。しかし、蟹座の聖闘士であるお前の存在をタナトス神に気付かせ、理由はどうあれ死の神にお前を助ける行動を起させたのは先代達だ。お前の命を真に繋いだのは、歴代の蟹座の聖闘士達なのだよ。…シラー」
「………、ハ」
「お前は今、セージ様やマニゴルドの墓前で、師匠の前で、真っ直ぐに顔を上げ、堂々と胸を張って、『自分があなた方から蟹座の黄金聖衣を受け継いだ聖闘士です』と言えるか?己の良心や信念に一切恥じることなく、絶対の自信と誇りを持って宣言できるか?」
「…………」

 答えられなかった。
 以前の自分なら迷うことなく頷いただろう、だが、今は。
 カチャリ。
 シオンがカップをソーサーに戻す音がした。

「答えられないか。答えられないと言う事は、『宣言できないと答えた』と解釈するが、良いな?」
「…………はい…」

 震える声を絞り出した。
 永遠にも思える数秒間の後、思いもよらぬ穏やかな声がした。

「それなら良い」
「…え?」
「宣言できないと認めたと言う事は即ち、未熟で不完全な己に気付き、その事実を認めたと言う事だ。安心したぞ、シラー。本心はどうであれ、『宣言できる』と答えたなら、お前には黄金聖闘士の資格はないと判断するつもりだったからな」
「…………」
「さて、シラー。お前が蟹座の黄金聖闘士を続けると決まったところで最初に言いかけた話をしよう。…とは言え、どこから話したものか…」

 シオンはテーブルの上で指を組んではほぐし、絡まった糸玉を解きほぐすようにして口を開いた。

「…私はな、シラー。『少数の犠牲で多数を救えるのなら、被害が拡大する前に潔く少数を切り捨てる方が合理的』というお前の考えを否定する気はない。聖闘 士の大半は『助けられる可能性が僅かでもあるなら、その可能性に賭けて危険を冒してでも助けるべき』という考え方だが、全員が全員そんな信念で行動してい たら聖闘士が何人いても足りない。非情な割り切りが出来る者も聖域には必要だろう。マニゴルドもデスマスクも概ねそのような考えを持っていたし、死に近い 蟹座故の考え方なのかもしれん。だがな、マニゴルドやデスマスクとお前では決定的に違う点がある」
「…何でしょう」
「『自分自身が切り捨てられる側になった時の覚悟』の有無だ」
「!」
「簡単な例え話をしよう。崖から足を踏み外して落ちそうになった一人の手を別の一人が掴んだとする。引っ張り上げて助けられる可能性と二人とも崖下に 落ちる可能性が五分五分だった時にどうするか?聖闘士の大半は引っ張り上げられる50%の可能性に賭けると答えるだろう。マニゴルドやデスマスク、そして お前は、そいつを見捨てて残った一人を100%の可能性で生き延びさせると答えるだろう。問題は、自分が足を踏み外して落ちそうになった側になった時どう するか、だ」
「……!」
「マニゴルドやデスマスクは自分の手を掴んだ仲間の手を拒否して、自分が死を選ぶことで仲間を確実に生き延びさせるだろう。『助けられる確率50%に賭け る奴は馬鹿だと主張してきた自分が、50%に賭けて助けてくれなんて言えない』と言って、恐らく笑って逝くだろう。しかしお前はどうだ?崖から落ちた自分 の手を掴んだ仲間に、『自分を見捨ててお前が確実に生き延びろ』と笑顔で言って自ら死を選ぶ覚悟はあるか?お前は皆の手本となるべき黄金聖闘士なのだ。自 分は他者を切り捨てるが、他者に自分が切り捨てられるのは嫌だなどとそんな身勝手は通用しないぞ」
「…………」

 シラーの右手がビクリと震えた。
 黄泉比良坂の灼熱の池で助けを求めて伸ばした手。
 彼を見つけたのが死の神だったからその手を掴んでくれたが、聖闘士だったらどうだろう?一緒に灼熱の池に落ちて命を落とす危険を冒してまで掴んでくれただろうか?死の淵から助けを求める人間の手を冷たく振り払って来たこの手を。

「お前の師、デスマスクもその点を心配していた。『シラーの奴、足手まといになった挙句に仲間を命の危険に晒す奴は切り捨てる!とか豪語してっけど、自分 が足手まといになった挙句に切り捨てられる側になる可能性を全く考慮してないんスよね。なまじ実力がありすぎて危ない目に遭ったことが無いから余計にタチ が悪いったらありゃしない』と。その点を教え導くのが師ではないのか、と私が言うと、彼は二カッと笑ってこう答えた。『こういう事は言葉で言って伝わるも のじゃないでしょ。一度切り捨てられる側になって痛い目見て、あの高ーい鼻がへし折れてから身に染みて実感するもんなんですよ。ま、鼻がへし折れた時に命 が無くてもそれは自業自得。弱い奴は生きる価値なしって自分の主張を自分で実践しちゃったワケだから文句は言えないっしょ?』」
「…………」
「仲間ならともかく弟子に対してその言い分はどうなのか…と思っていたら、彼はこう続けた。『だからね、俺が師匠として出来るのは、馬鹿弟子シラーと組む メンバーをハービンジャーかパラドクスにしてくれって教皇様に頼む事だけ。シラーが危なくなった時、玄武とかミケーネは奴の主張を尊重してソッコー見捨て てくれそうだけど、あの熱血馬鹿と夢見る乙女ちゃんはシラーと結構仲が良いから、いよいよヤバい時は助けてくれそうでしょ?』とな」
「……………」
「分かるか、シラー。お前は自分の力だけで生きて来たのではない。色々な人に気付かないところで支えられフォローされてここまで来たのだよ」

 シオンの言葉に胸が詰まる。喉の奥が熱い。心が震える。

「機会があればお前も冥界の神々にお会いしてみるが良い。人間の世に転生してくるアテナと違い、彼らは神の世界で暮らすいわば生粋の神々だ。とても気さく な方々だが、話してみれば神の巨きさに圧倒され、そして神から見た人間がいかに無力でちっぽけで儚いのかと思い知らされるぞ。永遠を生きる超越した神から 見れば、十年も三百年も『儚き時』で、黄金聖闘士も赤ん坊も、神から見れば『儚く弱い人間』なのだと。二百数十年を生きた黄金聖闘士も、幼い子供も、神々 の視点から見れば赤い薔薇か白い薔薇か程度の違いでしかないのだと。黄金聖闘士であるお前も、宇宙的規模で見れば弱く儚い人間なのだよ」
「僕もまた、弱く儚い、人間…」
「そうだ。その事実を受け入れるが良い。人ひとりの力は弱く、命は短いもの。たった一人で成し得る事には限界がある。だからこそ人は手を取り合い、子を為 し、弟子をとり、希望を明日と言う未来へ繋いでゆくのだ。迷うのも、傷付くのも、後悔するのも、悪い事ではない。人はそうやって己を振り返り、反省し、悪 い箇所を修正し、折れた心を繋ぎ直して、より良くあろうと成長するのだから」
「…………」
「聖戦を止める為に人として降誕された先代のアテナはこうおっしゃっていた。『人は皆、多くの痛みに耐えて生きている。でも、飢えや苦しみの中にあって も、精一杯手を伸ばして、繋ぎ合って、喜びや幸福を見つけて、次へ向かおうとする。なんて人は強いのだろうと驚かされました』と。我々一人ひとりの命が弱 くちっぽけなのは事実。しかし、誰の命であっても、神を驚嘆させるほどに輝く事が出来るのもまた事実だ」

 目を瞬いた時、シラーの頬を熱い雫が伝って膝を掴んだ拳の上に落ちた。
 そんな彼を見て、シオンはどこか困ったような笑みを見せた。

「最初にも言ったが、私はもっと早くに、こうしてお前と腹を割って話をするべきだったのだろうな。お前の心の奥底に弱さや矛盾やひずみがある事を私は薄々気付いていた。気付いていながらお前を正しい道に導く努力をしなかった。…きっと、怖かったのだろうな」
「………?」
「お前と良く似た境遇のマニゴルドを、セージ様は正しい道に導かれた。あの偉大な方が為した事を、果たして私が出来るだろうか。荒んだ日々を送っていたお 前に手を差し伸べられなかった私にお前を導く資格があるのだろうか…と。セージ様がマニゴルドにそうしたようにお前を導く自信が無かったから、私は『ああ いう考え方をする者も聖域には必要だ』という言葉で自分自身を誤魔化し続けて来たのだ。…二百数十年の時を生きて、教皇となり、ふたつの聖戦を戦い抜いて も私はまだ、迷い、悩み、立ち止まり、後悔するのだ。情けないだろう?」

 シラーは微かに唇に笑みを浮かべて無言で首を振った。
 シオンの眼は穏やかで、言葉は思いやりに満ちている。
 その優しいぬくもりで冷たく凍りついていた心が溶けだしているかのように涙が止まらない。

「シラー。今回の事で、お前と言う強靭な剣は根元から折れたのだろう。その折れた剣を鍛え直して前以上の業物として生まれ変わるか、折れたまま終わるかはお前次第だが…蟹座の黄金聖闘士を続けると言う事は勿論、生まれ変わる意思があると言う事だな?」
「…はい」
「よろしい。ならば私もお前を鍛え直すことに協力しよう。しかし闇雲に鍛え直せばいいというものではない。どんな素晴らしい剣であっても、抜き身のまま手 入れもせず使い続ければいずれ刃毀れして使いものにならなくなってしまう。素晴らしい剣が素晴らしい剣で有り続ける為には、それを包み込む鞘や、刃毀れし た刀身を鍛え直すための砥石や水や研磨剤が必要になる。鞘、砥石、水、研磨剤…それらは即ち、仲間だ。お前が今まで『必要ない』と拒絶して来た仲間だよ」
「……っく…」

 堪え切れずに嗚咽が漏れた。
 思わずしゃくりあげると、あたたかな手が彼の頭をそっと撫でてハンカチを差し出してくれた。
 子供のように泣きじゃくるシラーに、シオンは優しく声をかけた。

「冥界の神に向こう三百年は冥界に来るなと言われたのなら己を鍛え直す時間は十分ある。私と共に未来を繋いでいこうではないか。…ふふ、長生きするのも善 し悪しだぞ?年長者だと言うだけで色々な面倒を押しつけられるからな。一体どれほどの面倒が押し付けられるか、これからじっくり教えてやろう」
「…心して、伺います」

 涙でぐしゃぐしゃに濡れていたが、シオンが初めて見る素直な顔でシラーは笑った。
 …それから。
 二人はポツリポツリと色々な話をして、何と言う事も無い雑談もして、話が途切れた時は酒を酌み交わして、聖戦の話をして、軽い食事をして、また話をして、気がつけばすっかり日は暮れて暗くなっていた。
 満ち足りた気持ちで教皇宮を出たシラーはふと夜空を見上げた。冷たく澄み渡った空には星座が見える。

(命は宇宙、それを理解すれば命は輝く事が出来る、か…)

 ああ、そうか。
 だから僕らは星座の戦士なんだ。
 シオンの言葉の一つ一つを噛み締めながら、シラーは自身の宮に戻って行った。

NEXT


星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達


 書き終わった時の感想は『ジジイのお説教って長いね…』だった第二話です。
 当サイトの設定に基づいた世界ですのでシオンが教皇な のですが、彼は『セージに会えなかったマニさん』みたいなシラーさんを見てどう思ったのかな…と思いながら話を書きました。無印シオンは立派に教皇やって たようですが、でも、『自分はセージに比べたらまだまだ未熟』みたいな気持ちがあったんじゃないかなと。
 んで、私が星矢という作品で一番萌えたのが双子神なのですが、何しろ神様だから超越した存在で、ある意味ネウロ以上に精神的な挫折や成長が書きにくい キャラでした。続いて株を上げて来たマニさんも本編中でセージに出会ったことで精神的な成長はある意味やりきった感があるのでこれ以上アレコレする伸びし ろが無い。なんかこー、刹那やブルーみたいに、自分は完璧だと思ってたら思いっきり挫折して、そこから立ち直る人間の話とか書きたいんだけどなーと思って いるところに現われたのが、力はあるのに変なところで精神的にとんでもなく脆いというΩ蟹座のシラーさんでした。Ω本編で盛大にボッキリ折れた、ああいう 考え方のシラーさんの心境に変化が起きるとしたらどんなことが考えられるだろう、と思いながら書いていました。
 で、当サイトの設定では最後の聖戦後に無印黄金も復活してるので、シラーさんの師匠はデスマスク氏かなと。最初はデスマスク氏も話し合いの場に同席して もらおうかと思ったのですが、私はデスマスク氏に関しては無印漫画と同人界隈の情報しか知らない+彼のキャラだと面と向かって本音は言わないんじゃないか な、というふたつの理由により、シオンとシラーさんサシでの話し合いとなりました。デスマスク氏のスタンスや冥界での行動についてはちょっと好意的に解釈 しすぎたかな?という気もするのですが、『歴代の蟹座達が死に立ち向かったことがシラーさんを助ける結果になった』という話をしたかったので、ああいう解 釈にしました。
 当初は、『外界からの神』を撃退した後にシラーさんがいないことに気付いた皆がどういう会話をしてたか?というエピを入れようと思っていました。『何と かして冥界に行ってシラーを探そう』というハービンジャーさんやパラさんに対して、『自力で帰れない弱者を危険を冒して助けに行く必要はない、と豪語して いた奴を助けに行ってやる必要はない。大体冥界はアテナに敵対する神ハーデスの領域だから危険すぎる』とミケさんや玄武が主張。アテナやシオンが『和解が 成立したから冥界の神に相談してシラーの捜索もしようと思えばできる』と教えるかどうか迷っていたら、デスマスク氏が出て来て『弟子を探しに行くのは師匠 の役目だろ。俺なら普通に冥界に行って帰ってこれっし』と出かけようとしたところにタナトスが来る…という流れを考えていましたが、上手くおさまらなかっ たので没に。ただ、シオンがシラーさんに言ってないだけでこう言う事はあった、という裏設定があります。
 シオンがシラーさんに語った『人間とは儚く弱いもの、だから…』から始まる話は、私が今まで好きだった作品で感銘を受けたセリフや、今まで書いたSSで特に気にいっている文章を引っ張ってきました。そしてシラーさんにもみっともないくらい泣いて貰いました。
 シラーさんは戦災孤児になってから、誰かから無条件に愛されたことが無い(と、本人は思っている)んじゃないかなと思います。『逢魔』で出て来た養父の シラーさんに対する愛情も、『子供に対する無条件の愛情』ではなく『優秀な後継者に対する、打算的かつお気に入りの物に対する愛着に近い愛情』だとシラー さんは分かってる。だから、打算や計算や損得勘定抜きで自分を想ってくれる、心配してくれる人なんているはずがないと思いこんで、誰にも心を開いてなかっ た。良くも悪くも無遠慮で距離の取り方が分からない(振りをしている)ハービンジャーさんやパラドクスさんとは、本音と建前境界ギリギリの付き合いなんだ けど、それがシラーさんにとっては『一番近い距離にいる誰か』だったんじゃないかなと。それが、自分が気付いてないだけで、無条件に自分を大切に想ってく れる人がいると気付いた途端に張り詰めっぱなしだった糸が切れて、溜め込んでいた何かが溢れちゃった…みたいな感じを狙ってみました。そしてこの日を境に 心境に変化が起きて、一歩成長できたんじゃないかなみたいな。
 前後編で纏めるつもりがシオンのお説教がとんでもなく長くなってしまったので、あと1〜2話続きます。次は肩の力を抜いて、シラーさんとハービンジャー さんがドッタンバッタンしてる話にするつもりです。ちなみにシオンが出したパウンドケーキはエルミタージュ洋菓子店のです。