約束の時
牡牛座編

 明るい光に覚醒を促されて、シラーは数回瞬きして目を開けた。
 大きな窓にかかった遮光カーテンはきちんと閉まっていなくて、隙間から眩しい太陽の光が差し込んでいる。サイドボードに置いた時計に手を伸ばして時間を 見れば、起きるにはまだ早い時間だ。のろのろと視線を隣のベッドに向けると掛け布がだらしなく床に滑り落ちているのが見えた。
 …シラーはベッドに身体を起こして盛大に溜息をついた。

(ああ全く、どうしてハービンジャーはこうガサツなのかなぁ…)

 早寝早起きが信条の牡牛座は、任務先のホテルでも自身の信条に基づいて行動し、本日の天気を確認するためにカーテンを開けて、晴れているから日課の早朝 ジョギングをしよう!と思い立ち、きちんとカーテンを閉めずに出かけたのだろう…というところまで容易に察しがついた。同室のシラーを起こさないよ うに部屋を出るだけの気遣いは出来たようだが…。
 詰めが甘いんだよ、馬鹿牛。昨日の任務でもそうだったけど。
 内心で毒づきながらシラーはバスルームに向かった。
 熱いシャワーを浴びて半ば強制的に眠気を流してから部屋に戻ると、見計らったようなタイミングでハービンジャーが部屋に帰って来た。

「お?もうお目覚めかお坊ちゃま。朝風呂とは優雅だなオイ」
「…………。君がカーテンに隙間を開けておいてくれたおかげで、眩しくて眼が覚めちゃってね。残ってた眠気を洗い流して来たんだよ」
「だったらカーテン閉めて二度寝すりゃ良いじゃねーか。任務は昨日で片付いたし、今日は急ぐ用事なんてねーんだからよ」
「太陽の光を浴びて目が覚めたら二度寝なんて出来ないだろ」
「お前ほんと、聖闘士とは思えないほど神経質だよな…」
「君が無神経過ぎるんだ」
「それはそうとシラー、今日の朝飯だけどよ」

 シラーの文句など右から左に受け流して、ハービンジャーは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら楽しげに声をかけて来た。

「ホテルのレストランじゃなく、町に出て食べねーか?さっきぐるっとそこらを一周してきたら、俺がこの辺に住んでた頃に通いつめてた飯屋がまだしぶとく 残ってたんだよ。あ、ちゃんと一般向けの真っ当な店だから、ゲテモノが出て来るんじゃないかとか変な心配はしなくていいぞ」
「…へぇ。面白そうだね」

 スラムで喧嘩に明け暮れる日々を送っていたハービンジャーが通いつめていた一般向けの真っ当な店、という単語は少なからずシラーの興味を引いた。
 シラーの不機嫌オーラが和らいだのを見たハービンジャーは、ミネラルウォーターを一気飲みするとニヤリと笑った。

「そうと決まれば善は急げだ。行くぞ、シラー!」
「え?帰って来たばかりでいきなり?」
「俺は腹が減ってるんだよ、だから早く飯を食いてーの!ほれ行くぞ今すぐ行くぞ!俺は先に行ってるからな、40秒で支度してフロントまで来いよ!」

 一方的に言って部屋を出て行くハービンジャーの姿にシラーは柔らかく苦笑した。
 そんなに空腹なら先に食事を済ませてくれば良かったのに…と真っ当な指摘をしたところで、『仲間がいるのに一人だけで飯を食うなんて』と返って来るのは分かりきっている。ハービンジャーは変なところで義理堅いというか寂しがりの一面があるのだ。
 出かける支度と言っても、シャワーを浴びた後なので改めて身だしなみを整える必要もない。髪はまだ湿っているが、今日は天気が良い からハービンジャーお勧めの店に行くまでの間に乾くだろう。上着を羽織って財布と携帯と部屋の鍵を懐に入れ、シラーはハービンジャーを追って部屋を出た。
 絶妙のタイミングでエレベーターを逃し、たっぷりと待たされたシラーが漸くエントランスホールに降りた途端にハービンジャーの大声が飛んで来た。

「おっせーぞシラー!40秒で来いって言ったじゃねーか!」
「ごめんごめん。僕がエレベーターホールに着くのと降りるエレベーターの扉が閉まるのが同時でさ、随分待たされたんだよ」
「おいおい、お前も黄金だろ?エレベーターなんぞに頼らずに自分の足で階段を駆け下りるくらいしねーでどうすんだ!」
「そんな無茶言わないでよハービンジャー。僕は低血圧だし誰かのおかげで寝不足なんだよ?朝食も取らずに運動なんて御免だよ」
「あー?ったく相変わらず軟弱だなお坊ちゃまは。まぁいいや、腹も減ったしさっさと行こうぜ!」
「…………」
 
 ハービンジャーが指差した先を見て、シラーは我が目を疑った。
 …自転車だ。
 タクシーでも観光用人力車でもなく、ありふれたシティサイクルが一台ホテルの玄関前に置いてある。

「何、あれ」
「移動手段だよ」

 思わず間抜けな質問をすると、実に簡潔な答えが返って来た。

「これから行くのはタクシーで乗り付けるような店じゃねーし、散歩がてらに歩いて行くにはちょっと遠いんだ。ま、たまにはこういう庶民的な移動手段も悪くねーだろ?それにな、庶民の町では庶民の移動手段を使うのがマナーってもんだよシラーちゃん」
「…………」

 ハービンジャーに理屈で反論を封じられるという予想外の展開に思考回路が停止するシラーの前で、ハービンジャーは自転車にまたがって後ろの荷台を指した。

「ほれ、後ろ乗れや。座り心地はタクシーより悪いだろうがそこは我慢しろよ」
「え?あ、ああ…」

 促されるままに荷台に横向きに座ると、ハービンジャーは軽やかにペダルを踏んで走り出した。





「君を自転車の後ろに乗せてぇ〜長い下り坂を下っていく〜♪ふんふ〜〜ん♪」
「…むしろ上り坂を上ってるみたいだけど」
「お、ちゃんと乗ってたか。全然重くねーから途中で落としたかと思ったぜ」
「落としたかもと思うなら後ろくらい見なよ」
「しっかしシラー、お前本当に重しとしては役立たずだな。ちっとも負荷になってねーじゃねーか。ちゃんと座ってるか?実は浮いてたりしてねーか?」
「そんな器用なことできる訳ないだろ」
「君を自転車の後ろに乗せてぇ〜♪ふんふふ〜〜ん♪」

 …聞いちゃいない。
 シラーは大きく息を吐いて風に靡く髪を押さえ、町並みに目を向けた。
 自転車の後ろに乗れと言われた時は大人の男同士で自転車の二人乗りなんて…と思ったが、町に出てみれば特別奇妙な光景でもないと分かった。
 車はほとんど通らず、人々は自転車や徒歩で町を行き来している。水のボトルを片手にジョギングする女性もいれば、犬を連れて散歩をしている老夫婦もい る。友達同士、恋人同士で自転車に二人乗りして通り過ぎていく者も多い。全く知らない者同士がすれ違う時はにこやかに挨拶を交わし、信号待ちの時は雑談も している。

(ああ、『ありふれた日常』の光景だな…)

 ハービンジャーの背中に半ば寄り掛かってシラーはそんな事を思った。
 至って普通の、何の変哲もない、当たり前の日常。そんな『ありふれた日常』の中に自分自身がいる事が酷く奇妙に思えた。この光景の中で、自分は不自然に浮いているのではないか…

「着いたぞー!」

 そんな取り留めもない想いはハービンジャーの大声で遮られた。
 ハービンジャーがシラーを連れて来たのは、屋台と言うには立派で、オープンカフェと言うほど洒落てもいないこじんまりとした店だった。カウンターの中で は店主らしき老人がテレビの野球中継に見入っていて、客席…と言うのだろうか、カウンターの前にまばらに置かれた簡素な椅子とテーブルは半分ほどが埋まっ ている。
 ハービンジャーは店の脇に自転車を置くと大股にカウンターに歩み寄って店主に声をかけた。

「おうオヤジ!さっき言ってた俺の同僚を連れて来たぜ。いつものメニュー出してくれや、俺スッゲー腹減ってるからダッシュでな!」
「お、もう戻って来たのか。早かったなハービンジャー。…で、お前さんの同僚っつーのは…」

 よっこいしょ、と立ち上がった店主はハービンジャーの後をついて来たシラーを見て眼をぱちぱちさせた。

「こりゃまた別嬪さん連れて来て…水臭いのう、彼女を連れて来るならそう言えば良かろうに」
「…『彼女』?」
「あのなオヤジ。洒落にならねぇくらい老眼入ってんだから眼鏡かけろよ。コイツのどこが女に見えんだよ、ああ?ボケるにはまだ早いだろ」
「んん?」

 ムッとした顔のハービンジャーに軽く小突かれて眼鏡をかけた店主は、シラーをまじまじと見てからきょとんとした顔でハービンジャーに視線を戻した。

「ハービンジャーよ…お前さん、さっき『軍隊に入った』とか言っとらんかったか?ありゃ儂の聞き間違いで、本当はハリウッドのスタッフにでもなったんか?」
「安心しろ、聞き間違えてねーよ、俺の就職先は軍隊だ。最近はアイツみてーなツラの良いエリート軍人がウジャウジャいるんだよ」
「ほぉ〜時代は変わったんだなぁ。ちょっと待って下さいよ、ハービンジャーのお友達。すぐ用意しますからね」

 店主はしきりに感心しながらシラーに声をかけ、鍋を火にかけてウインナーとパンを焼き始めた。
 …大して待つことも無く、お待ちどうさんと言う言葉と共にトレイがカウンターに置かれた。ファーストフード店のようなプラスチックトレイの上に は、紙カップに入ったクラムチャウダー、ウインナーをドッグパンに挟んだだけのシンプルすぎるホットドック、くるみパン、そしてアメリカンコーヒーがのっ ている。
 ハービンジャーは店の前のテーブルにトレイを置くと椅子に腰を降ろしてシラーを手招きした。

「あー、やっと飯にありつけるぜ。さ、食えよシラー。これが俺達一般庶民の朝飯ってやつだ」
「…へぇ」
「お前は良いとこのお坊ちゃまだからな!こんな庶民的なもん食った事ねーだろ?」
「戦災孤児だった頃は野菜屑の浮いたスープがご馳走だったよ。それから、今の養父に引き取られた後も友達とハンバーガー食べたことくらいあるさ」
「あんまりピンとこねぇな」

 ハービンジャーはホットドッグを二口で平らげて首を傾げた。
 紙カップ入りのスープをプラスチックのスプーンで混ぜるシラーの仕草は実にお上品で、くるみパンをちぎって口に運ぶ所作も素人目でも分かる程お育ちの良さを感じさせる。そもそもハービンジャーには『パンをちぎって食べる』という選択肢がハナからない。
 スープを口に運んだシラーは嬉しそうに蒼い眼を細めた。

「…ああ、期待通りの味だ」
「んー?」
「期待を裏切らない庶民的な味だなって。一流シェフにも、大手のインスタントスープメーカーにも出せない味だよ」
「褒めてんのかけなしてんのかどっちだよ」
「褒めてるよ?これが君の思い出の味かぁ…おいしいよ、とても」
「B級グルメとして、だろ」
「君が羨ましいよ、ハービンジャー」
「へ?」
「なんて言うの?昔馴染みの店とか、思い出の味とか青春時代の味とか、帰る場所と言うか、そういうのがあるのが…さ」
「おいおい、そんな恥ずかしい事言うなよ!何か尻がムズムズしてくるじゃねーか」
「あはは、ごめんごめん」

 吹き抜ける風がシラーの赤毛を揺らして彼の顔が見えた。唇は弧を描いているのにその眼は寂しげに伏せられていて、何だか泣きだしたいのを堪えて笑っているように見えて、ハービンジャーは出すべき言葉が見つからずに二つ目のホットドッグを口に押し込んだ。
 …シラーに『思い出の味』はない。養父はいても『帰る場所』はない。
 思い出の場所はテロリストに跡形もなく壊され、戦災孤児になった後は食べられるものなら何でも口に入れて死に物狂いで命を繋ぎ、悪趣味な金持ちに飼わ れ、裕福な夫婦に愛玩動物として引き取られ、『お袋の味』を与えてくれるはずの養母はシラーが自分自身の手で殺してしまった。生きる為に様々なものとの繋 がりを自ら断ち切って来たシラーには、幸せな思い出や過去を象徴するものが何もないのだ。
 ハービンジャーは口の中のホットドッグを機械的に噛み砕いて胃袋に押し流すと些か乱暴な所作で立ち上がった。

「スープのお代り貰ってくるわ。俺はミネストローネにするけど、お前はどうする?」
「ああ、僕もそれを」

 …スープが温まるのをカウンターに肘をついて待ちながらハービンジャーはシラーに目を向けた。
 彼は、テーブルに飛んできた小鳥にパン屑をやりながらパンを口に入れている。小さな子供が興味津々の顔でその姿を見ているが、シラーに近づいたり話しかけたりする様子はない。子供の親らしき人間も横目でシラーと子供を見るだけで何かする様子はない。
 まー無理もねぇな、とハービンジャーは思う。
 様々な人種の人間が当たり前に暮らすこの国でも、褐色の肌に赤い髪と言うシラーの容姿は少々珍しい。言葉の通じない観光客かと思われても仕方がない。彼 の纏う空気がもう少し庶民的でフレンドリーなら話しかけて来るのかもしれないが、なまじ『良いとこのお坊ちゃま』オーラがにじみ出ているだけに声も掛けに くいのだろう。シラー自身も世間話をするために他人に話しかけるようなキャラではないし…。
 そんな事を考えていると、店主がスープを器によそいながら尋ねて来た。

「しかしハービンジャー、一体何がどうしてあの人と仲良くなったんだ?」
「ん?」
「さっきから見ていたんだがな、彼は良いとこのお坊ちゃまだろ?下町育ちのガサツなお前さんと気が合うとは思えんが」
「確かにアイツは良いとこのお坊ちゃまだけど、色々フクザツなワケがあって下町暮らしの経験もあるんだ。最初は俺も『何でいいとこのお坊ちゃまが軍隊なん かに来てるんだ?』と思ってさ、嫌な顔されてもめげずに根掘り葉掘り話を聞いてるうちに仲良くなったんだよ。今じゃ周囲から『凸凹仲良しコンビ』で認定されて るんだぜ?これ、自慢な。ああ、それからよ、アイツもオヤジのメシを『一流シェフにも出せない味でとても美味い』って褒めてたぜ」
「ほほう、そりゃ嬉しいのう。じゃあスコーンをサービスしておくよ」

 店主はにこりと笑って、紙ナプキンで包んだスコーンと小袋の蜂蜜をトレイに乗せた。
 …パンを摘まんだままぼんやりと周囲を眺めているシラーの向かいの席にハービンジャーが腰を降ろすと、チラチラとシラーを横目で見ていた人間達がますます二人に注目する気配があった。
 ハービンジャーはパンを齧りながら至って軽い調子で口を開いた。

「ひょっとして俺らさぁ、旅行中の貴族様とそのボディーガードみたいに思われてんのかなぁ?」
「むしろ留学生と地元の学生じゃないの」
「ああ、そっちか」
「…ねぇハービンジャー。僕は時々本気で思うんだよ、『何もかも消えてしまえ』って」
「へー」

 テーブルに頬杖をついて遠くを見つめたままシラーがさらりととんでもないことを言ったが、ハービンジャーはケロリとした顔で短くあいずちを打った。シ ラーの頭の螺子が緩んで抜け落ちているのは先刻承知だ、この程度のトンデモ発言で一々真面目に驚いていたら彼の親友などやってられない。
 どこまで本気で言っているのか分からないキャラ、と言うのが黄金聖闘士仲間に概ね共通するシラーに対する認識だ。この発言を他の聖闘士が聞いたところで、『どこまで本気で言ってるんだか』と苦笑しつつ聞き流すだろう。
 しかしシラーと仲が良いハービンジャーは、『守る価値がない世界など消えても良い』という彼の発 言は本心だろうと気付いていた。『消えてしまえと思う』と『思ったうえで実行に移す』には多少の隔たりがあるが、些細なきっかけがあればシラーはその隔た りを呆気なく超えてしまうだろうという事も。
 ハービンジャーはスープを食べながら尋ねた。

「そりゃまた物騒だな。一体どんな事があった時に『何もかも消えてしまえ』なんて思うんだ?」
「んー…面白くない事や不快なことがあった時、あとは理想と現実のギャップに半端なく苛ついた時、かな。…あのね、ハービンジャー。僕は時々、『この世界に守るべき価値があるんだろうか』って思う事があるんだ」
「おいおい、『地上の愛と正義を守る』アテナの聖闘士らしからぬ台詞だな」
「そうだね、自分でもそう思うよ」

 シラーは薄く笑んでゆっくりとスープを口に運んだ。
 独り言のように彼は続ける。

「でもさ、自分のことを見てくれる、気にしてくれる、優しくしてくれる、愛してくれる人が一人もいない世界に、何か価値がある?守るだけの価値がある?欠片ほどもないじゃないか。…だったら」
「世界なんて消えちまっていいじゃねーか、ってか?」
「何も価値がない世界なんて無くなっても良いと思わない?」

 スティールブルーの眼に深い痛みと悲しみと狂気を孕ませて、恐ろしいほど穏やかな顔でシラーは問うた。
 冥界に通じる蟹座の特殊能力を持つシラーが本気で何もかもを消しに走ったら洒落にならない事態になる。ハービンジャー個人としてはそれ自体は別にどうで も良いし、むしろ面白そうだから手を貸してやろうかなと思わないでもないが、現実的に考えれば即座に聖域が暴走したシラーの鎮圧に乗り出すだろう。親友が 『仲間』の手で処分されるところなど見たくない。翌日からのメシがとんでもなく不味くなるのは想像に難くないからだ。
 …ハービンジャーはスープを飲みほしてあくまでもあっけらかんと言った。

「おいおいシラーちゃんよ、お前は価値がないと思うこの世界にも価値を見出してる奴はいるんだぜ。例えば、この店を結構気に入ってる俺とかさ。価値観の相違で世界滅亡なんて勘弁してくれよー」
「分かってるよハービンジャー。僕だって君の立場だったら似たような事を思うよ、『世界じゃなくお前が消えればいいだろ』って。仮に僕が『何もかも消してやる』と思って行動を起こしたところで、消されるのは僕の方だって事もね」
「あ、それ困る」
「ん?」
「お前が消されたら困る」
「…何故」

 シラーが低く掠れた声で尋ねると、ハービンジャーは片方だけの目をぱちくりしてケロリと答えた。

「だって俺、お前のこと好きだし」
「え?」
「ああ心配すんな、ダチとしてって意味だから。だけどよ、大好きで大事な親友がいなくなるのは最高に嫌だぜ。お前が何かやらかしたら止めに入るのは絶対聖 域、下手したら俺だろ?ダチを死なせた手で食うメシなんて絶対不味いに決まってるじゃねーか。俺は一生美味しく飯を食いてーの!…ん?おい、ちょっと待 て。お前さっきなんて言ってた?」

 急に真顔になってテーブルに身を乗り出したハービンジャーに戸惑いつつ、シラーはポツリと答えた。

「…何の価値もない世界なんて消えても良い…」
「その前だ、その前!『自分のことを見てくれる、気にしてくれる、優しくしてくれる、愛してくれる人が一人もいない世界』とか言ってなかったか?」
「言ったけど」
「オイちょっと待てシラー。マジで待てよ」
「え?な…何が?」
「つまり何か?聖域の連中は誰ひとりとしてお前を見てないし、気にかけてないし、優しくしてないし、愛してもいないと、お前はそう思ってるってことか?」

 真顔でゴンゴンとテーブルを叩くハービンジャーに、シラーはますます戸惑って蒼い眼を揺らめかせた。

「それは…多少は見てるし気にもかけてるだろうし優しくもしてくれるけど、それはあくまでも仕事に絡んでだと、思ってた。…思ってた…」
「シラーお前、実は馬鹿だろ。女聖闘士の掟を忘れたか?」
「…パラドクスの事?」
「確かにパラドクスは博愛主義者だよ。デフォで素顔を晒してる理由も『この世の全てを愛してるから』っつー無茶苦茶なもんだよ。けどな、パラドクスの言う 『全て』に間違いなくお前は入ってるんだぜ?お前が『誰も自分を愛していない』って言い張るのならそれはつまり、パラドクスの信念は嘘だって言ってるよう なもんだぞ」
「…………、…………」
「それからな、俺はお前を見てるし、気にかけてるし、自分なりに優しくしてるつもりだぜ?さっきも言ったがお前の事はダチとして大好きだ し、それを『愛してる』って表現してやってもいい。きっと玄武やミケーネや教皇やお前の師匠だって同じだ。少なくとも俺はそう思う。それでもこの世界には 価値は無いか?」
「…………」

 ハービンジャーの真っ直ぐな眼をどこか怯えたような目で、それでも視線を逸らさずに見つめたシラーは、ふっと表情を和らげて唇を淡く微笑ませた。

「どうしちゃったのさハービンジャー?ヒーローみたいにカッコいいこと言っちゃって」
「ヘヘッ。俺に惚れてもいいんだぜシラーちゃん」
「そうだねぇ…あとひと押ししてくれたら惚れちゃうかもね」
「え?あとひと押しか?そうだなぁ…ええと、じゃあ…」

 ハービンジャーはしばらく思案し、にっこりと笑うと胸を張ってトレイに置いてあったスコーンを差し出した。
 …途端に腹を抱えて笑い出すシラーの姿に、ハービンジャーは情けない顔で眉を下げた。どうやらハズしてしまったらしいと言う事は分かるが、どこが駄目なのかが分からない。自分ならこれで陥落するのに、一体何が駄目だったのか。

「おい、何だよその反応は?どこがダメなんだ?この店のスコーンは滅茶苦茶美味いんだぞ!?」
「ぷっ…あは、あはははは…ああもう、色々最高に台無しだよハービンジャー。君といたら、世界の価値がどうこうなんて真剣に考えてる自分が馬鹿馬鹿しくなってくるよ」
「だからってそんなに笑うこたーねぇだろ!」
「赦してよハービンジャー、今の『最後のひと押し』で、君に…ああ勿論友人としてだけどね、惚れたからさ」
「え、マジか?赦す赦す、そんなら赦す!」

 一気に上機嫌になったハービンジャーは、年中無休の真夏の太陽のような笑顔を浮かべて何でもないことのように続けた。

「シラー。もしお前が『誰も自分を愛してくれないから世界なんて消えちまえ』って思った時は迷わず俺のところに来いよ。骨が折れるほど抱きしめながら『愛してる』って言ってやるからよ!」
「…………。うわぁ…もう絶対に『世界なんて消えてしまえ』なんて思えないなぁ…」
「そっか、それは良かったぜ。全てノープロブレム、世は全て事も無し、だ!じゃあ約束してやるよ!」

 僕はこんなにゲンナリした顔をしてるのに、どうしてそんな解釈になるのさ…と突っ込む気力もわいてこない。ハービンジャーが何も考えていない顔で『ノープロブレムだ』と言えば、そんな気がしてきてしまう。
 苦笑するシラーの前にハービンジャーは小指を差し出した。

「…何?」
「時貞から聞いたんだ、日本式の約束の儀式。小指を絡ませて上下に振るんだとよ」
「へぇ」
「じゃ、約束な!お前が『誰も自分を愛してくれないから世界なんて消えちまえ』って思った時は迷わず俺のところに来る!その時俺は、お前の骨が折れるほど抱きしめながら『愛してる』って言ってやる。えーと…そうそう、『指きりげんまん』!!」

 ハービンジャーはにっこりと笑いながらシラーと絡めた指を大雑把に上下に振った。
 日本式の約束の儀式から解放されたシラーは苦笑しながらスコーンを割って、安っぽい袋入りの蜂蜜をたっぷりとかけて口に入れた。
 …甘い。
 ハービンジャーがシラーを『陥落』させたそれはどうしようもなく甘かった。





 吹き抜ける風は爽やかに心地よく、シラーの長い赤毛をふわりふわりと舞わせている。ハービンジャーは機嫌よく鼻歌を歌いながら自転車のペダルを軽やかに踏んで緩い坂道をゆっくりと下り始めた。

「君を自転車の後ろに乗せてぇ〜長い下り坂をゆっくり下っていく〜♪ふんふ〜〜ん♪」

 調子っぱずれな歌に苦笑しつつ、シラーは風に靡く髪を押さえて流れる景色を見遣った。
 店に行く途中に見たのと同じ、『ありふれた日常』の光景だ。あの幼い日にテロリ ストの爆弾で消し飛ばされて、もう二度と手の届かないところに行ってしまったと思っていた、自分には一生縁の無いものだと思っていたそれ。
 …シラーは思う。
 手に入れる事は叶わなくても、手を伸ばせば触れる事は出来るのだろうか。自分ひとりだけでは無理でも、仲間が、友人が、ハービンジャーが一緒なら。

(…僕を愛してくれないのは人間だけだと思ってたんだ)
(水も、風も、光も、土も、闇も、無機物も、闇や死も僕を愛している。だから銃弾は僕を殺さないし、闇は僕を守ってくれるし、死は僕を襲わない。僕を愛してくれないのは人間だけだって、ずっと)
(人間は僕を愛してくれないんだと、ずっと、思ってたのに)

 愛してるって言ってやる、か。
 なんて押し付けがましくて、恩着せがましくて、尊大で、傲慢で、優しくて、大きくて、頼りがいのある、あたたかな言葉なんだろう。
 風に靡く髪を耳にかけてシラーは自身の小指に目を向けた。ハービンジャーと約束の儀式を交わしたその小指。愛してるの言葉を約束された小指。

(約束の証に指輪でも填めようかな)

 柔らかな笑みを浮かべたシラーはハービンジャーの背に身体を預けて唇を動かすだけで呟いた。
 …愛してるって言ってくれ。


END


天秤座編



星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達


 某様とツイッターでお話している時に「自転車通学するちみっこ双子神」という話題が出まして、非常に萌え萌えしつつ、「自転車が似合う星矢のキャラって あんまりいない気がするなぁ。聖闘士なら乗り物乗るより自分で走った方が速そうだし、敢えて乗り物に乗るとしても自転車は選ばなさそうだしね。でもハビさ んがトレーニングと称して後ろにシラーさん乗せて自転車乗ったら萌えるなー。玄武だったらバイクだよね…という発想により出来たSS『約束』ハビさん編です。
 玄武編SSと共通のテーマで、かつ雰囲気を変えて…と意識して作りました。玄武編は砂糖をまぶした透明で甘酸っぱい飴玉みたいな雰囲気になったの で、ハビさん編はカラフルなペロキャンな雰囲気を目指そうと頑張りました。きちんと『ちょっと甘めなハビシラ』になったでしょうか…。風邪で寝込んだ後 だったので、ちょっと気を抜くとシラーさんがネガティブモードに入ってしまって、雰囲気が暗くならないよう書いては消し書いては消し、明るく、明るく…と 苦労した一本だったりします。
 この話を書くきっかけになった『水も、風も、光も、土も、闇も、無機物も、闇や死も僕を愛している。だから銃弾は僕を殺さないし、闇は僕を守ってくれる し、死は僕を襲わない。僕を愛してくれないのは人間だけ』というシラーさんの台詞がハビさん相手に言えなかったのが残念ですが、話の中に組み込めたので良 しとします。サイキネタの『愛してるって言ってやる』『愛してるって言ってくれ』のフレーズを入れられたのは満足です。ハビ&シラーさんで自転車二人乗りネタも消化できてよかった。
 細かい解説など。
 ハビさんが『40秒で支度しろって言ったじゃねーか』と言った時にシラーさんが本気でヘコむシーンを書いて、暗くなったので没。『非常階段を客が駆け下りたら、一体何事かとスタッフが飛んでくるよ』とか、色々会話するシーンも書いたのですが、無駄かなと思って没。
 ハビさんが歌ってるのは、多分ゆずのあの名曲(名前知らないです。笑)。きっとハビさんは、後ろにシラーさんが乗ってても全く重さを感じないと思います。
 二人が行った店は、店内にイートインスペースがない、カウンターだけのこじんまりした店ではないかと。で、店の前にファーストフード店のようなテーブル と椅子がパラソル付きで設置してある感じ。具体的にはブラックラグーンでロックとレヴィがラーメン食べてたような店。アメリカの軽めの食事と言ったらパン とホットドッグとクラムチャウダーかミネストローネと言う勝手なイメージ。
 そしてシラーさんは、LC魚座アルバさんみたいに女性と間違われてムッとすることが多いんじゃないかなと。で、ハビさんはそれを知ってるので『眼鏡かけ てなくて見間違えた、だから怒らないでくれ』と先回りした訳です。星矢世界での聖闘士がどれくらいの認知度なのか分からないのですが、聖闘士を知らない人 に手っ取り早く説明するなら『軍隊』かなと。
 シラーさんに『幸せな過去を象徴する者は何もない』と気付いてちょっと言葉に詰まるハビさんのシーンは、らしくないかなぁと悩みつつ、話を展開させるために残しました。
 かなり唐突にシラーさんが『何もかも消えてしまえと思う』と言っていますが、主な理由は二つありまして。周囲の人間が珍獣を見るような好奇の眼で自分を 見ている(実際は被害妄想なのですが)、見るだけで近づいて来ない、ほらやっぱり人間は自分を嫌いはするけど愛してなんかくれないじゃないか…というネガ ティブ思考がまず理由の一つ。そして『自分が無くしてしまった当たり前の日常を他人が当たり前の顔をして満喫してるのがムカつく』という理不尽な感情がも うひとつの理由です。最初はその辺を長々と書いたのですが、くどくて重いなと思ってばっさりカットして『面白くない事や不快なことがあった時、あとは理想 と現実のギャップに半端なく苛ついた時』と言うセリフにまとめました。
 ハビさんの『友達を殺した手で食うメシは不味い』と言うセリフは、ワンピのオカマちゃん(ボン・クレーでしたっけ)の『友達見捨てて明日食うメシが美味いかよ!』を意識しました。あれは名言だと思います、本当に。
 ハビさんのシラーさんに対する『お説教』は、真面目になりすぎないよう、ハビさんが親っぽくならないよう、あくまでも友人として苦言を呈している、とい う事を意識しました。ハビさんの話に対してシラーさんが『それはあくまでも仕事に絡んでだと、思ってた』と過去系で言っていますが、これはつまり、ハビさ んの話を聞いて自分の認識が間違っていたと気付いた、という意味合いです。ハビさんが『過去系になっている』事に気付いて追及する展開も考えましたが、ハ ビさんはそういうキャラじゃないだろうと思ってさらりと流しました。
 最後の方の『ノープロブレム、世は全て事も無し』とはブラックラグーンでちょいちょい出て来るセリフです。本当にその言葉通りのシーンで使われることも あれば、他人の犠牲を見て見ぬ振りをすれば自分達に火の粉は降りかからない、という意味で使われることもある、なかなか味わい深い台詞です。終盤のハビさ んとシラーさんの指きりは、『タイトルが約束の時なのに約束をしてるシーンが無い』と気付いて急遽入れました(笑)。「L'acqua è inclusa in una bocca.(口に水を含ませる)」を入れられなかったのは残念ですが、これは『秘密を守らせる』であって『約束する』ではないので残念ながら没に。
 そして最後。シラーさんは声に出さずに『愛してるって言ってくれ』と呟いていますが、何故かハビさんにはちゃんと聞こえてて、ホテルに帰った後に本当に 骨が折れる勢いで抱きしめられて『愛してるぜシラー!』『あいたたたたた!!少しは手加減してよ馬鹿!!』みたいなやり取りが繰り広げられるんだと思いま す(笑)。
 それから、このSSの後に来る時間軸のSSでは、シラーさんは右手の小指に指輪を填めてると言う設定にしようと思います。