約束の時
天秤座編

 …獣道を申し訳程度に手入れした山合いの道を、自然に溢れた風景には似つかわしくない大型のバイクが走っていた。ハンドルを握るのはオレンジ色の髪の若い男で、その後ろには長い赤毛の男が、まるでソファに座っているようなくつろいだ姿勢で座っている。
 いつになく安全運転を心掛けてバイクを走らせる玄武は微かに目を細めた。
 ほんの少し前までは頬を切るほど冷たかった風は爽やかに心地よく、木々の梢から漏れ落ちる光は力強い。夏が近いな、と思った時、後ろから声がした。

「夏が近いんだね」
「…分かるか?」

 ふわりと舞う赤毛を視界の端に捕えて玄武が短く問うと、シラーが頷く気配があった。
 同時に背中に心地よい重みがかかる。
 ちらりと背後に目をやると、椅子の背もたれよろしく玄武の背に寄り掛かったシラーが生い茂る木々と木漏れ日を見上げていた。背中合わせに座っているので表情は見えないが、それなりに今の状況を楽しんでいるようだ。
 …思いきって声をかけて連れ出した甲斐があったな。
 込み上げる喜びに唇が円を描いてしまうのはどうしようもないが、精々努力して感情を押さえた声で玄武は言った。

「もうすぐ五老峰の滝に着く。道が悪くなるからな、落ちるなよ」




 …偉大な先輩達の指導を受ける、と言う名目で聖闘士達が中国にいる童虎と紫龍を訪ねたのは二日前の事だ。
 新時代の若き聖闘士達を迎え入れた童虎は大いに喜び、乞われるままに自身の戦歴を語り、稽古をつけ、『都会ではできない経験をするのも良い思い出になるじゃろう』と言って皆に畑の土いじりや芋掘りまでさせた。
 童虎の弟子だった時代に修行と称してうんざりするほど畑仕事を手伝わされた玄武は土に触るのも嫌だったが、都会育ちの子供達には泥臭い作業が新鮮で面白 く感じられたらしい。畑を耕し芋を掘る以外に何かできる事はないのか、と好奇心で眼を輝かせる子供達に詰め寄られた童虎と紫龍は、次は家畜の世話を体験さ せることにしたらしい。それを聞いた玄武は流石に嫌な顔をした。

「家畜の世話と聖闘士の修行に何の関係があるんだ?老師」
「普段は出来ない事を体験するのもまた修行じゃ。…と言うか、お主らがここに来た理由は修行と言うより修学旅行、親善旅行じゃろ。子供達がやりたいと言う事をやらせてやるのに何故そんな渋い顔をするんじゃ、引率の先生?」
「子供達のやりたい事に付き合わされる『引率の先生』はたまったもんじゃないからだ」

 玄武が乱暴に吐いた言葉に、童虎は顔から笑みを消して些か心配そうに口を開いた。

「お主の相方さんが何か言っておったのか?畑仕事も芋掘りも楽しんでいたように見えたが」
「…そう言えば老師。俺の見ていた限りですが、彼は一度も鍬や鋤を持ちませんでしたし土に触ることもありませんでした。危なっかしい持ち方で鍬や鋤を使っている子供に注意をしている姿は見ましたが」
「紫龍の言う通りだ。子供達の様子を見て回って、最後にお付き合い程度に芋をひとつ掘っただけのどこが『楽しんでいたように見えた』んだ?シラーは都会の上流階級で 純粋培養されたお育ちの良いお坊ちゃまだぞ。伝説の老師様とドラゴン紫龍を相手に『こんな不潔な場所にいたくない』なんて本音を言えるわけないだろう。若 き聖闘士も良いが、俺の仲間にもう少し気を使ってくれても良いんじゃないか」
「ふむ、言われてみればその通りじゃ。配慮が足りずにすまんかったな。…じゃが、明日の予定は家畜の世話だと子供達に伝えてしまったぞ。皆、大喜びしとったから予定を変更してガッカリはさせたくないのう」
「予定を変更する必要はないでしょう、老師。子供達には俺と老師が同行して、玄武と彼は適当な理由をつけて別行動を取ってもらえば。…そうですね、明後日は五老峰の滝を見学に行くが、途中の道が少々危険なので玄武と彼で下調べをしておくと言うのはどうでしょう」
「おお!それはナイスアイデアじゃな紫龍!どうじゃ玄武、それなら問題なかろう?」
「そうだな、それなら大丈夫だろう。我儘を聞いてもらって悪いな」

 少なからず感情的になっていた自覚がある玄武がバツが悪そうに告げると、童虎と紫龍はにこりと笑った。

「気にするな。お前の大事な仲間の為ならこの程度、お安いご用じゃ。なぁ紫龍?」
「はい、老師」
「…感謝する」
 
 童虎が言った『大事な仲間』と言う言葉に他意はないのだろうが、妙な照れくささを感じて玄武は足早に二人の前を辞した。



 …明日は皆と別行動を取って、五老峰の下見に行かないか。
 片思いの少女をデートに誘う時のように緊張しつつシラーを誘うと、『正直言って家畜の世話は気が進まなかったから、そのお誘いは嬉しいよ』という言葉と共に快く了承された。



 
 そして翌日。
 家畜の世話に出発する一行を見送った玄武は、昨夜のうちに手入れをしておいた大型バイクを物置から出して来た。たまには趣向を変えて、普段と違う移動手段を使うのも面白いだろう、というのが一応の理由だ。

「玄武、バイクなんて乗れたんだ。ちょっと意外だな」
「修行が嫌で嫌でたまらなかったころの青臭い反抗の名残だ。こんなド田舎じゃガキがグレたところで出来る事は限られてるからな。…さ、後ろに乗ってくれ」
「ヘルメットはかぶらなくていいの?」

 シラーのお約束の突っ込みに、玄武はニヤリと笑った。

「こんな田舎まで違反を取り締まりに来る警察はいないさ。その代わり、トラブルが起きた時に助けに来てくれるJAFもいないからな、何かあった時はバイクを押して徒歩で帰宅になる覚悟はしておけよ」
「それは困るなぁ。途中で仕事放棄しないでね、って君のバイクにお願いしておかなきゃ」

 シラーは楽しげに笑いながらバイクを撫でると、玄武の後ろに背中合わせで座った。
 じゃあ行くぞ、とキーを回すと、普段はなかなかかからないエンジンが一発で素直にかかった。




 珍しいことにバイクは機嫌を損ねることなく真面目に仕事をして、玄武とシラーは五老峰の滝まで無事に到着した。
 崖の先端に立って吹き抜ける風に長い赤毛をなびかせたシラーは、感慨深げに景色を見回した。

「へぇ…ここがあの、老師が魔星を監視していた五老峰の滝かぁ」
「ここから西に千キロ離れた場所に魔星を封印していた塔がある…らしいぞ」

 シラーは青い眼を眇めてじーっと玄武が指差す方角を見て、至って真面目な顔で首を傾げた。

「…見えないね」
「ああ、俺も見えた事は一度もない。ガキの頃、老師に『本当にそんな塔なんてあるのか』って言ったら『修行が足りん!』と崖下の滝壺に突き落とされたんだが、黄金聖闘士になった今でも見えないな」
「ここに老師がいたら、『まだまだ修行が足りん!』って二人して崖下に突き落とされてたのかな?」
「かもな」

 楽しげに微笑んだシラーが尋ねると、釣られて玄武も微笑みながら頷いた。
 シラーがこんなに嬉しそうにする姿を見れるとは、やはり老師に文句を言ってでも別行動を取った甲斐があった…と玄武が喜びを噛み締めていると、シラーはふと真顔で玄武を振り返った。

「あ、でも明日は聖闘士を連れて老師も一緒にここに来るんだよね。その時に『塔が見えません』って皆が言ったら纏めて崖から落とされるのかなぁ?」
「あのジジイならやりかねないな」
「…ねぇ玄武、この滝壺って結構深いよね。一人二人ならともかく、あの人数が一度に落とされたら危なくないかな?滝の水が落ちて来るところ…なんて言うんだ ろ、水の吹き溜まりみたいなところ?って相当な力で水が渦巻いてたりするよね。いくら聖闘士でも、水と相性の悪い奴が深みの渦に足を取られて沈んだら命に関わ るんじゃないかなぁ」
「確かに…あの人数が纏めて落とされたら、一人二人浮かんで来ない奴がいても気付かないかもしれないな」
「老師が意図的に落とさなくても、明日は暑くなるから水浴び気分で飛びこむ奴もいるかもしれないね」
「…………」

 玄武は眉根を寄せて黙り込んだ。
 シラーと二人で別行動を取る口実としての『五老峰の下見』で、真面目に問題点が見つかるとは思っていなかった。聖闘士である以上、修行や任務で命を落とす事は皆が承知しているが、半分観光の旅行で羽目を外して溺死と言うのは流石に笑えない。
 かと言って聖闘士を相手に『危ないから滝壺に飛び込むな』と言うのも馬鹿にした話だし…と玄武が考え込んでいると、シラーがさらりと言った。

「僕、ちょっと滝壺の中を見て来るよ。洒落にならないほど危ない場所があったら万が一に備えて対策考えた方が良いしね」
「え?……」

 滝壺の中を見て来る?
 発言の意味を玄武が理解するより早く、シラーは当たり前のように崖っぷちに向かって歩いて行き、ちょっとした段差を飛び降りるような仕草でひょいと飛び降りた。
 …切り立った断崖絶壁から滝壺に向かって。

「!?!?」
 
 余りの予想外の展開に驚いた玄武が崖っぷちに駆け寄って滝壺を見降ろすと、水面に波紋が広がっていた。本当に言葉通り、滝壺に潜って中の様子を見て来るつもりらしい。
 蟹座の黄金聖闘士であるシラーの属性は水だ。仮に滝壺の中に水の吹きだまりのような危険な場所があったところでどうとでも対処できるはず…と頭では思っ ても、呑気に崖の上で待っている気にはとてもなれなかった。羽織っていた上着だけを脱いで、玄武はシラーを追って滝壺に飛び込んだ。
 …滝壺の水は清らかに透き通り視界は十分に広い。水面を見上げれば太陽の光が美しい模様を作っている。少しばかり深く潜ると、青い水の中にふわりと舞う赤毛が見えた。シラーに近づこうと玄武が水をかいて泳ぎ出した瞬間、思わぬ力で身体が引きずられた。

「!?」

 驚く玄武の目の前で、近くを泳いでいた魚が不意に錐揉みしながら滝壺の奥深くに沈んであっという間に見えなくなった。
 どうやら『水が渦を巻いて危険な場所』の近くをうっかり通ってしまったらしい。急いでその場から離れようとしたが、渦を巻く水の引きずり込む力は予想外に強い。水を噛み締めて舌打ちすると、肺の中の空気が口から洩れてゴボゴボと耳を掠めて行った。
 その時、少し離れたところを潜水していたシラーが振り向いた。玄武の様子がおかしいことに気付いたのか水を蹴って近づいてくる。
 馬鹿、危ないぞ!
 近づくな、の意思表示でシラーに向かって手を伸ばすと、シラーは玄武の手を片手で掴んでもう片方の手でそっと何かを押し返すような仕草をした。すると、玄武を捕えて引きずり込もうとしていた水の勢いが急に弱くなった。いや、渦が遠ざかったのか。
 ホッとすると同時に酸素が恋しくなってきた玄武は、水面を指差してからゆっくりと浮上した。シラーも後に続く。
 
「…ぷはっ!はぁ、はぁ…」

 水面に顔を出した玄武が大きく呼吸する傍らで、彼より長く水に潜っていたはずのシラーは息ひとつ乱さず心配そうな顔で玄武の顔を覗き込んだ。

「大丈夫?」
「はぁ…ああ、いきなり深みに嵌まって、ゲホッ、少し驚いただけだ」
「水属性の黄金の君が多少とはいえ脱出にてこずるとはね。水と相性の悪い青銅があの深みにはまってパニックを起こしたら洒落にならない事態になりそうだ、岩でも落として水の流れを変えておいた方がいいんじゃないかな」
「そうだな。丁度い岩でも探しに行くか」

 …滝壺を出て崖の上に戻った玄武は、髪からポタポタと雫を落としながらずぶずぶに濡れた服を絞った。こんな場所まで来る物好きなどいないだろうが、下着 一枚でいるのは気が進まなかったので湿ったままの服を元通りに着た。天気も良いし風も吹いているから風邪をひく前に乾くだろうとは思ったが、湿った服が肌 に貼りつく感触はどうにも気持ちが悪い。不快感に顔をしかめながらシラーを見遣ると、彼は髪に滲み込んだ水を軽く絞って背中に流しながら崖の周囲を 見回している。滝壺の水渦の流れを変えるような岩を探すことに気を取られているのか、服の裾から水が滴っているのを意に介する様子はない。
 髪から滴った雫が長い睫毛に落ちて一瞬煌めき、しっとりと濡れた長い赤毛を吹き抜ける風に靡かせながら景色を眺めるシラーの姿は幻想的なほど美しくて、玄武は言葉を失ったままその姿を見つめていた。
 目を凝らせばシラーの背中に真っ白い翼が見えるのではないか…そんな馬鹿げたことを半ば本気で思いながら。

「…玄武?どうかした?」

 玄武の視線に気付いたのか、シラーが怪訝そうな顔をして近づいて来た。
 …数瞬の逡巡を挟んで、玄武は思い切って口を開いた。

「なぁシラー。いきなり妙なことを頼むが」
「ん?」
「背中を見せてくれないか?」
「…背中?」
「ああ、背中だ」
「別にいいけど…一応、理由を聞いて良い?」
「話すと長いから結論だけを言うと、お前の背中に蟹が浮かんでないか気になってな」
「は?」

 ますます怪訝そうな顔をするシラーに、玄武は予め考えておいた言い訳を話した。
 先程の水の渦を動かした一件に限らず、シラーは水属性の黄金聖闘士の中でも飛びぬけて水との相性が良い。実はシラーは水を操る超能力者ではないかと半ば 本気で疑った時、かつて童虎から聞いた『彫道士』の話を思い出した。彫道士とは大陸の仙境に拠点を持つ森羅万象による平安の守護者であり、その闘法を極めると自然の気が身 体を満たして己の内なる姿が入れ墨のように身体の表面に現れるのだと言う。シラーは彫道士ではないが、属性や小宇宙では説明しきれない水との親和性は彫道 士の闘法と何らかの関係があるのではないか。だとしたら、仙境に近い場所にいる彼の背中には今、何らかの動物の姿が浮き上がっているのではないか…

「…と、考え出したら気になって気になってたまらなくなったんだ」
「そんな話されたら僕も気になるじゃないか。自分の背中に何か絵があるかもなんて考えたこともなかったし。…ああでも、蟹の絵が浮かんでたらちょっとへこむなぁ。龍や虎ならカッコいいけど、蟹はちょっと…ねぇ?」
「おいおい、蟹座の黄金聖闘士が蟹を否定してどうするんだ。蟹座の黄金聖衣が泣くぞ」
「あ、蟹座の聖衣は好きだよ。カッコいいしね。…で、どう?」

 冗談交じりに話しながら、シラーは服を脱ぐと髪をかきあげて背中を見せた。
 妙に悩ましげなその仕草に心臓が跳ねるのを感じつつ玄武はシラーの背中に目をやった。
 動物の姿はない。当たり前と言えば当たり前だが、翼もない。

「…何もないな。ひょっとしたらと思ったんだが。…ん?」

 玄武はふと目を凝らした。
 よく注意して見ないと分からないほど微かだが、シラーの背中には傷があった。肩から腰にかけて、左右対称の、縦に長い傷跡。
 翼を折られた跡だと言われれば信じてしまいそうな、そんな傷跡…。
 玄武はそっとシラーの背にある傷跡に触れた。

「おいシラー、この傷…」
「ああ、それ?子供の時の怪我の痕だよ」
「怪我?こんな不自然になほど綺麗に左右対称に傷がつくなんて、一体何があったんだ」
「戦災孤児だった頃、鶏の卵を盗みに農家に忍び込んだことがあってね。運悪く家主らしい男に見つかって、先が二股に分かれた畑を耕す道具…鋤って言うんだっけ?あれで襲われて殺されかけたんだよ」
「な…」

 さらりと語られた過去に指が震える。腹の底から込み上げる怒りを噛み殺して押しだした玄武の声は低くかすれていた。

「腹を空かせた子供が卵を盗んだくらいで殺さなくてもいいだろう…!」
「他人の子供よりも自分の卵が大事で当たり前、何故ならその卵ひとつで自分や家族の命が左右されるから…そういう時代と場所と状況だったのさ」
「そんな状況の何が当たり前だ!どう考えても異常じゃないか!」
「そうだね。だから、『異常な状況が当たり前』にならないように、世界が正常であるために、僕達アテナの聖闘士は存在する。そうだろ?」
「それは…そうだが…。………、………」

 俺がその場にいたら、シラーを殺そうとした人間を殺していただろう。
 激しい憤りに拳を握りしめ唇を噛んで俯く玄武に背を向けたまま、シラーはまるで玄武の考えを感じ取ったように言った。

「ちなみに、僕を殺そうとしたその人間は死んだよ」
「え?…」
「今でもはっきり覚えてる。必死に逃げて無我夢中で池に飛び込むのと同時に急に雲が月を覆って辺りは真っ暗になって、その直後だ。短い悲鳴と同 時に水に大きな物が落ちる音が聞こえて…雲が晴れてまた月が出た時、自分の持っていた鋤が首に刺さった状態で池に落ちて死んでいる男が見えた。月が隠れた時 に僕の姿を見失って、絡まった草に足を引っ掛けたか足を滑らせたかして、最高に運の悪いことに鋤の上に転んだ挙句に池に落ちたらしい」
「…お前は幸運の女神に愛されているんだな」

 上着を軽く叩いて水けを払ったシラーは、きちんと服を着て長い赤毛を背中に流した。その姿は息を呑むほど美しくて、これほどまでに見目麗しい人間なら、幸運の女神が目に留めて贔屓のひとつもしたくなっても何も不思議ではないと思えた。
 見つめる玄武の言葉に、シラーは自然な表情で首肯した。

「そうだよ、僕は色々なものに愛されているんだ」

 太陽は柔らかな熱を持って降り注ぎ、風は長い服の裾をはためかせて吹き抜ける。柔らかな赤毛を風に舞わせ、空の一番高い場所の色を閉じ込めた目を煌めかせて、無色透明の微笑を浮かべたシラーは、生命などという俗物が宿っているとは思えないほど美しく清廉だった。

「水も、風も、光も、土も、闇も、無機物も、闇や死も僕を愛している。だから銃弾は僕を殺さないし、闇は僕を守ってくれるし、死は僕を襲わない。僕を愛してくれないのは人間だけさ」
「――――………」

 シラーが紡いだ言葉には抑揚も感情も気負いも衒いもない。何故なら、彼の発言は事実だから。それ以上でも以下でもない、『自分は人間には愛してもらえないという事実』を言っただけだから。
 その事実が、鋭利な刃物のように玄武の心に刺さり、深く抉った。
 言葉を失いただ立ち尽くすしか出来ない玄武に目を向けて、シラーは感情の無い笑みを唇に浮かべたまま飄々と話を続けた。

「ねぇ玄武。僕は時々、『この世界に守るべき価値があるんだろうか』って思う事があるんだ」
「!…………」
「自分のことを見てくれる、気にしてくれる、優しくしてくれる、愛してくれる人が一人もいない世界に、何の価値がある?守る価値なんて欠片ほどもないじゃないか。だったら…」

 …だったら。
 スティールブルーの眼に深い痛みと悲しみと狂気を孕ませて、恐ろしいほど静かな声でシラーは問うた。

「そんな世界なんて、無くなっても良いと思わない?そんな世界なんて…」

 …何もかも消えてしまえ。
 顔から表情を消したシラーが唇の動きだけで呟いた。
 真紅の髪から滴った雫が頬に落ちて涙のように伝い落ちた瞬間、玄武の身体は頭より先に動いていた。
 俯いたシラーに大股に近づいて、顎を掴んで上向かせると躊躇うことなく口付ける。
 …重ねた唇は甘い水の味がした。
 玄武はシラーの頬を濡らす雫を手で拭いながら口を開いた。

「『僕を愛してくれないのは人間だけ』か。だったら、俺は人間じゃないのかもしれないな」
「え?…」
「…シラー」

 驚きで見開かれた蒼い眼に映る、怒ったような顔の自分を見ながら玄武は言った。

「お前が、本気で世界の何もかもを消したくなったその時は、真っ先に俺のところに来い。手を貸すから」
「…え?」
「お前を愛さない全てを消すために手を貸すから。二人で世界の何もかもを消した後にお前が俺を殺して、そして全てを終わらせればいい」
「玄武…きみ、なに、言ってるのさ」

 戸惑いを隠すように苦しい笑みを浮かべるシラーの肩をきつく掴んで、玄武は蒼い眼を真っ直ぐに見つめた。

「約束しろ。お前が世界なんて無くなっていいと思ったその時は、何もかも消えてしまえと本気で思ったその時は、最初に俺のところに来い。俺は、俺だけは、絶対にお前の味方になるから、だから」
「…………」
「約束してくれ、シラー。…頼むから」
「…………。分かったよ、約束する。本気で世界なんか消えてしまえと思った時は、真っ先に君の所に行くよ。実行に移す移さないは別にして、ね」

 玄武の視線から眼を逸らしたシラーが微かに声を震わせながら答えると、頬を雫が滑って行った。
 潤んだ目をごまかすように何度か瞬きしたシラーは、目を細め唇に淡い笑みを浮かべて人差し指を玄武の唇に当てた。

「その代わり玄武、君も約束して?今の話は僕と君の二人だけの秘密で、絶対に誰にも言わないって」
「ああ、約束する」
「ありがとう。…じゃあ」

 シラーは手のひらに小宇宙を凝縮して水球を作りだした。
 怪訝そうな顔をする玄武に悪戯っぽい笑みを見せて彼は言った。

「この水を口に入れて。大丈夫、空気中の水分を凝縮しただけの雨水みたいなものだから何も害はないよ」
「ん?あ、ああ…」
「飲んじゃダメだからね」

 訳が分からないながらも頷いて口を開けると、シラーが作りだした水球が入ってきた。彼の言う通り何の変哲もないただの水のようだが、一体これが何なのか。
 玄武が目顔で尋ねると、シラーは楽しげに聞き慣れない言葉を紡いだ。

「…L'acqua è inclusa in una bocca.」
「??」
「『人に秘密を守らせる』という意味のイタリア語さ。直訳すると、『口に水を含ませる』」

 なるほど、つまりは約束の儀式という事か。
 …それは分かったが、いつまで水を口に含んでいればいいのか。そろそろ飲んでしまっていいのか?…と、玄武が身ぶりで尋ねたが、シラーはわざとらしく気付かない振りをして彼の顔を覗き込んだ。
 
「ところでさ、玄武」
「?」
「僕の『僕を愛してくれないのは人間だけ』って発言に対して君が言った、『だったら、俺は人間じゃないのかもしれないな』って…どういう意味?」
「…………」

 頬が熱くなるのが自分でも分かった。
 口に水を含んでいるのを良いことにダンマリを決め込むことにしたが、玄武の反応にシラーはますます嬉しそうに目を細めた。

「『言わなくても分かるだろう』って言うのは無しだよ?分からないから聞いてるんだから。君が答えてくれないなら、帰った後に老師か紫龍に聞くからね」
「…………」
「あ、水はもう飲んじゃっていいからさ。教えてよ、ほら早く」

 シラーの背には純白の翼があるのではないかとさっきは思ったが、今は漆黒の翼が見えるような気がした。
 照れ臭さが一周回って開き直った玄武は、シラーを引き寄せて噛みつくように口付けた。ついでに口に含まされた水を流し込んでやる。

「!?!?」

 予想外の反撃に驚いたシラーが怯んだのを見て、玄武は自由になった口で大きく息を吸った。
 この、天使の顔をした悪魔め。いいだろう、そこまで言うならさっきの発言の意味を教えてやろうじゃないか。

 

 …愛してるって言ってやる。


END


牡牛座編


星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達


 某様とツイッターでお話している時に「自転車通学するちみっこ双子神」という話題が出まして、非常に萌え萌えしつつ、「自転車が似合う星矢のキャラって あんまりいない気がするなぁ。聖闘士なら乗り物乗るより自分で走った方が速そうだし、敢えて乗り物に乗るとしても自転車は選ばなさそうだしね。でもハビさ んがトレーニングと称して後ろにシラーさん乗せて自転車乗ったら萌えるなー。同じシチュで玄武も…あ、玄武だったら自転車よりバイクが似合うよね」という 発想の飛躍によりこのSSが出来ました。
 で、「バイクの後ろにシラーさんを乗せる玄武」ネタを妄想している時に 「僕は色々な物に愛されているんだ。(略)僕を愛してくれないのは人間だけさ」というシラーさんの台詞が浮かびまして。丁度、憧れの文字書き様達のハイレ ベル作品にショックと感銘を受けた時期だったので、「普段は金平糖みたいなマッタリしたSSばっかり書いてるけど、自分なりにテーマと方向性を決めて、透 明感と高級感に溢れた『パティシエの飴細工』みたいな作品を作りたい!」という決意のもと、精一杯頑張ったSSです。…数行書いただけで金平糖になった自 覚はありますが(笑)、いつもと違った雰囲気を目指して話を作るのはとても楽しかったです。同じコンセプトでハビシラSSも書くつもりですが、そちらは無理せずいつも通り ペロキャンな雰囲気で書こうと思います。
 
 今回意識した自分なりのテーマ↓
・ピクシブで「玄シラ」タグをつけられる話にする
・シラーの神秘性(不思議ちゃんな雰囲気)を出す
・普段書いているSSのほのぼのマッタリとは違う雰囲気にする
・ 「水もry。僕を愛してくれないのは人間だけさ」というシラーの台詞を入れる
・「お前を愛している俺は人間じゃないのかもしれない」的な玄武の台詞を入れる
・以前、サイキのSSでエミリオに言わせた「自分を愛してくれる人がいない世界なんて無くなってもいい。何もかも消えてしまえ」という台詞をシラーに言わせる
・最後は「愛してるって言ってやる」という玄武の台詞で終わる(でも結局、照れ臭くて言えなかったというオチのような気もするなぁ…)

 これらの要素を無理矢理繋げたので少々不自然な話運びになってしまった気がしなくもなくてちょっと反省もしていますがやりきった感はあります。頑張った、自分(笑)。

 ちょい解説。
・「L'acqua è inclusa in una bocca.(口に水を含ませる)」 
 イタリア語では、人に秘密を守らせる事を「口に水を含ませる」という…のは、人づてに聞いた話の受け売りなので真偽のほどは不明です。ついでにエキサイト で翻訳して出てきた文章をそのままコピペしたので、文法的に正しいかどうかも不明です(笑)。シラーさんの国籍は不明ですが、師匠デスマスクから何かの機 会に聞いたのかな、程度に考えて頂ければ。
・シラーさんの頬を伝う雫
 一回目は髪に染み込んだ水が頬に落ちたもの。玄武君との約束前後で流れてるのは涙。
・シラーさんの「(世界を壊すのを)実行に移す移さないは別にして」発言
 シラーさんが「世界なんて無くなってしまえ」と思う理由は「自分を愛してくれる人が誰もいないから」なので、玄武君が自分を愛してくれるなら(=世界な んて無くなってしまえと思った時に、一緒に世界を滅ぼそうと本気で言ってくれるなら)世界を滅ぼす理由は無くなる、という意味。逆を言えば、本気で世界な んて無くなっちゃえと思って玄武君に会いに行った時、味方になってもらえなかったら行動起こしちゃうかもね☆という意味でもあります。
・シラーさんが水に飛び込んだ後、輝く太陽と吹き抜ける風
 愛しのシラーさんが風邪をひかないように早く髪と服を乾かすよ!と太陽と風が頑張ってるみたいなイメージです。
・玄武の「愛してるって言ってやる」
 90年代後半に世に出た『サイキックフォース(2012)』という格ゲーがありまして。当時私がドハマリし、数年前に熱が再燃し、結果的に星矢にハマる きっかけになった、暗く重い世界観と救いの無いストーリーが特徴の格ゲーです。格ゲーでありながらキャッチコピーは「愛してるって言ってくれ」。確かにそ のキャッチコピーがよく似合う、愛に飢えたり愛が一方通行だっ たりなストーリー設定で、手代木さんもドハマリしていた隠れた名作、しかも今はゲーセンで遊ぶこともできるので、興味を持った方は遊んでみてくださいね!
 …閑話休題。
 今回のSSにはサイキの要素をガッツリ入れたので(詳しくは後述)、インパクト絶大だったキャッチコピー「愛してるって言っ てくれ」もどこかに入れたいなぁと思って、結果、「愛してるって言ってやる」の台詞になりました。
・シラーさんの「無機物も僕を愛している・銃弾は僕を殺さない」発言の意味
 滅茶苦茶長いです。↓
 まずはサイキという作品の基本設定をちょろっと紹介。
 登場するキャラの大半は「超能力者」です。炎、氷、風、光、闇、重力、時間などを操って戦うと言う、Ωの属性の概念に似通った設定があります。例えば炎 使いなら手から炎を出したり、氷使いなら何かを一瞬で凍らせたり、風使いなら風を吹かせたり、闇使いなら周囲を闇で閉ざしたり、重力使いなら手を使わずに 物を動かしたり、時間使いは時を止めたり出来る。つまり、己に属するもの(支配する・司るもの)を意のままに使役できる力がある訳です。以前から「黄金聖 闘士とサイキの超能力者って似てるよね」と思っていたのでシラーさん絡みのSSでちょいちょいサイキっぽい小ネタを入れて来たのですが、今回はかなりガッ ツリ意識して入れてみました。当サイトシラーさんは自然物にも無機物にもある程度「命令できる」力がある、という設定。シラーさんの属性は水なので水に 「命令できる」力はずば抜けて高い。厳密に言うと『ネウロ』のDRのように水の特性を把握した上で小宇宙を使って水を動かしているのですが、一連の流れを 「水に命じる感覚」でナチュラルにやるので最早「お前は水使いの超能力者か」というレベル。水以外の物にもある程度「命令できる」力はありますが、本人い わく「お願い して、聞いてもらえたらラッキー」程度の力。
 そして「無機物も僕を愛している」云々の元ネタもサイキでして。サイキで活動していた頃、それはもうハイレベルで素晴らしい話を書く方がいまして、その 人の作品に「機械と会話ができる、機械と意思疎通ができる超能力者」が登場していたのです。「銃も本当は人を殺したくないの。人を殺すたび、銃は泣くの」 という台詞が非常に印象的で、そのエピを思い出しているうちに「無機物や道具にも意思があったら面白いよね」と思ってその辺のネタを「シラーさんの『お願 い』を聞いてトラブルを起こさずに動くバイク」と「銃弾は僕を殺さない、というシラーさんの台詞」で入れてみました。脳内では膨大な設定があって、それを シラーさんが玄武に解説するエピも入れようか考えたのですが、長くなりそうだったので没になりました(笑)。

以下、膨大な脳内設定↓
 あくまでもシラーさんの個人的見解という前提ですが…
 人間や動物に意思や感情があるように、自然物(水・風・光・土・炎などなど)や無機物(銃やナイフ)にも意思や感情や自我がある。自然物は基本的に普通 の人間の意思によって動く事はないが(特殊な能力を持つ超能力者は別)、人の手が作った無機物の意思や自我はあまり強くないので、基本的に人の意思によっ て動く。が、人間にも意思の強い者と弱い者がいるように、無機物もまた自我・意思の強いものと弱いものが存在する。また、『自分』を使う人間との相性の良 し悪しもあるし、状況や相手によって意思の強弱も変わる。
 なので、意思の強い人間が意志の弱い道具を使った時は、道具は人間の意のままに動く。逆に言えば、意志の弱い人間が意志の強い道具を使った時は道具は思 い通りに動かないと言う事だ。例えば、ナイフで人を殺そうとした時。殺す側の人間が強く明確な殺意を持っており、ナイフが持ち主の殺意に強く共感した時 は、高確率で狙った相手を殺せる。殺される側が生き延びる為には、「殺す側の人間+ナイフの、二人分の意思の強さ」を上回る強さ・死にたくないと言う想い が必要になる。一方、「殺す側の殺意が弱い・ナイフが相手を殺したくないと思った・殺される側の生きたいと言う意思が圧倒的に強い」という状況では殺人は 未遂に終わる可能性が高い。
 銃も同様。人殺しが大好きな銃もあれば、人を殺したくない銃もある。銃と相性の良い人間が「殺人が大好きな銃」を持てば凄腕のスナイパーになるだろう。 銃を持つ人間が魅力的な人物なら、その人間に惚れこんだ銃がそいつの為に協力するから、やはり凄腕のスナイパーになるだろう。愛した人間の役に立ちたいと 努力するのは人も無機物も同じだ。そして、愛した者を殺したくないと思うのも同じ。ナイフも銃もシラーを愛しているから(会った瞬間に一目惚れするから) 自分を使役する人間の「シラーを殺す」という意思に逆らう。だからナイフも銃もシラーに当たる事がなく、仮に当たったとしても致命傷を与える事はない。シ ラーが五体満足で戦災孤児だった時代を生き延びられたのはそういう理由もある。SS内で言っていた、「鋤で殺されかけた時」の傷が比較的浅かったのも、鋤 が「この子を殺したくない」と思った為。