逢魔の時
前編

 傾きかけた太陽が荒んだ町をオレンジ色に染めている。
 長年にわたる内戦で疲弊しきった町の治安は最悪で、人はみな自分と自分の家族を守る事しか考えていない。
 身なりの良い少年が柄の悪い男達に絡まれて人目の無い裏路地に連れ込まれる場面に遭遇しても、見て見ぬ振りをして通り過ぎるのがこの町での正しい生き方だった。
 …悪趣味な柄シャツを着た大柄な男が赤毛の少年の襟首を掴んでビルの壁に押し付けた。その後ろでは似たり寄ったりの服装の男二人がこれ見よがしにサバイバルナイフと拳銃をちらつかせている。
 大男が路地裏に連れ込んだ少年の顎を掴んで顔を上向かせると、彼は怯えたように青い目を逸らした。

「おーおー、坊やにしておくには勿体ない綺麗な顔だなぁ」
「良い服着てるしお育ちもよさそうだし、そっちの趣味の金持ちに高く買ってもらえそうだな!」
「っつーわけで坊や、不幸な俺達に金を恵んでくれよ。素直に有り金出してくれりゃこっちも手荒な真似はしなくて済むし、その方が坊やの為だぜ?」
「そうそう、顔や体に傷が付くと『価値』が下がるからな。綺麗なままの方が良いお客に引き取ってもらえる可能性が高くなるんだよ」
「…………」
「ん?何だって?よく聞こえなかったな、もうちょっと大きな声で喋ってくれよ」
「…もう少し離れて喋ってくれないかな。キミのような下賤な人間の息は臭くてたまらないんだ」
「何だとこのガキ…」

 少年の胸倉を掴み上げた男は、腹に異物が刺さる感覚に言葉を切って視線を落とした。
 …赤毛の少年は視線を逸らしたまま、男の腹に突き刺したツイストダガーを握った手を躊躇うことなく捻った。その名の通り捩れた刀身が内臓を抉ると同時に男が絶叫した。

「ぎゃあぁぁぁあああああああ!!!」

 少年は唇に微かに笑みを浮かべて渾身の力で大男を蹴り飛ばした。栓になっていたダガーが抜けた途端に腹の傷から血が吹きだして、男はうめき声をあ げながら仰向けに倒れた。大男の後ろでニヤニヤしていた二人が状況を理解するより早く、少年は後ろにいた彼らとの間合いを一気に詰めてサバイバルナイフを 持っていた男の喉をダガーで貫いた。ナイフの男が声を出す暇もなく崩れ落ちたのを見て漸く、銃を持った男が反応した。

「小僧…舐めやがって!」
「いい事を教えてあげよう」

 銃を構えた男の懐に一瞬で入り込んだ少年は、無邪気にも見える笑顔を浮かべて男の腕にダガーを突き刺した。男の手から銃が滑り落ちて、ごとりと鈍い音とともに地面に落ちた。

「接近戦では、銃よりナイフが強いんだよ」
「…ひっ…うわぁぁぁぁ!!」
「おやおや、友達を見捨てて逃げるのかい?薄情な人だね」

 恐怖と驚愕に目を見開いた男が無我夢中でナイフを腕から引き抜き逃げ出すと、少年は地面に落ちた銃を拾い上げて男の背に銃口を向け、躊躇うことなく引き金を引いた。
 …静寂が訪れた路地裏で、少年は目を閉じてゆっくりと深呼吸した。
 濃密な血の匂い。命の流れ出る匂い。死の匂い。自分の命を繋ぐ匂い。

(ああ…なんて素敵な匂いなんだろう。甘く芳しい生と死の匂い…最高だ、僕が大好きな香りだよ…)

 うっとりした表情で眼を開けた少年は銃を投げ捨てて、地面に倒れた男の服でツイストダガーの刀身に付いた血を拭き とり、ついでに懐を探って財布を取り出した。他の奴から巻き上げた金を持っているだろうと思っていたが、ガッカリするほど寂しい中身だった。もう一人も似 たようなもので、最後の一人に至っては財布すら持っていない。彼はポケットに金を押し込みながら不機嫌な溜息をついた。

「はぁ…これからデートだって言うのに、こんなはした金じゃまともなプレゼントも用意できないじゃないか。仕方ない、今日は花束で誤魔化そうかな」

 血で汚れた手をハンカチで丁寧に拭いて、赤毛の少年…シラーは何事もなかったようにその場を立ち去った。





 …某国の政府高官の家庭に生まれ、何不自由なく暮らしていたシラーの運命が一変したのは十数年前。
 幼い彼は両親と一緒に自宅のテレビの前に座り、カメラの前で演説する祖父の姿を見ていた。演説の内容は難しくて幼い彼には理解できなかったが、祖父が熱を込めて大切なことを話していると言うのは伝わってきて、真剣に耳を傾けていたその時、爆風が画面を覆った。
 轟音と共に祖父が演説していたステージが炎に包まれ、画面が回り、揺れ、弾み、地面に転がったカメラは凄惨な光景を映し出していた。もくもくと上がる黒煙、大怪我をして血を流す人々、原形を留めていない人間の肉体、パニックになった人々の怒声や悲 鳴。それからしばらくして父に電話が掛かってきて、シラーが初めて見るような厳しい顔で電話を終えた父は、『ちょっと行ってくる』と妻子に告げて家を出て行った。
 …それが、シラーが父の姿を見た最後になった。
 政府高官を狙った反政府勢力による爆弾テロに端を発した内乱は瞬く間に国内に広がり、彼が住んでいた郊外の村の治安も急激に悪化した。裕福な人間は貧しい人間の憎悪の対 象になり、暴徒と化した市民達に襲われる事件が立て続けに起きた。父の親類に今後の事を相談してくると言って家を出た母は二度と戻る事はなく、主の消えた屋敷の使 用人達は金目の物を盗んで次々に逃げ出し、しばらくはシラーの面倒を見てくれた両親の縁者も次第にいなくなり、彼はたった一人残された。政府高官の孫だった彼は、ほんの数日で戦災孤児になったのだ。




 それからは死と隣り合わせの日々が続いた。村では昼夜を問わず諍いが起こり、些細な諍いで銃弾や爆弾が飛び交い、運悪く巻き込まれ逃げ遅れても誰も助けてくれない。路地裏や道端には埋葬もされない死体がいくつも転がった。シラー少年は泥 水を啜り、道端の雑草を食べ、寒さで凍えそうになった日は死体の服を剥いでそれにくるまり、死に物狂いで幼い命を繋いだ。
 そんな過酷な日々を生き延びる為に、彼が生まれ持った頭脳は大きな助けになった。
 鮮やかな色の茸を食べた子供が苦しんで死ぬのを見てから、見たことのない物を食べる時は、どんなに空腹でも他の子供に分けて『毒見』をさせてから自分の口に入れるようになった。
 パンを盗んだ子供が民兵に殴り殺されるのを見てから、パンを盗むのに成功した子供からパンを奪うようになった。
 薄汚れた姿でも金さえ出せば『安全に』食べ物が手に入ると分かってから、死体の懐を漁るのを躊躇わなくなった。
 強い者から奪うより弱い者から奪うのが『安全確実』と分かってから、自分より弱い者を狙って金品を奪い取るようになった。
  弱い者の命を奪って食べ物や小銭を奪い、死体の懐を漁って金目の物を探し、死体の服を剥いで寒さから身を守るうち、彼は死臭を好ましいと思い始めた。他者 の死が自分の生きる糧になり、自分の命を繋ぐ。きっと死の神が自分を守ってくれているんだ。異常な日常で歪みねじ曲がった幼い心に死神への強い畏敬と思慕と憧憬が芽生え、根をおろして行った。
 …そして、年頃になった彼は自分の端正な容姿が強力な『武器』になることに気付いた。
 大人しく気弱そうな孤児を装っていれば、他者に恵む余裕がある者は見てくれの良い者に施しを与える。良からぬ下心を持った者が近づいて来た時は、人目の ない裏路地に連れ込まれるまで怯えて逆らえない振りをして、人目が無くなったところで徹底的に返り討ちにして彼らが持っている金品を奪う。そうやって集め た金でまともな服を買い、小奇麗な格好をして然るべき場所に行けば、美少年を愛でる趣味を持つ金持ちが甘い言葉をかけて来た。見てくれだけしか売 りの無い下賤な子供にはそれなりの人間しか寄って来ないが、育ちの良さと聡明さを感じさせるシラーには悪くないレベルの人間が何人も寄ってきた。その中か ら気にいった大人を選んで『世話』になり、大人が彼に飽きた頃合いを見計らって、そこそこ金になりそうなアクセサリーや時計を幾つか頂いて姿を消す。衣食 住に不自由しない生活に未練を感じて去り際を見誤ったり、欲を出して高価な物を幾つも頂こうとすると不幸な結末になる前例を幾つも見て来たから、その点で 彼が 失敗する事はなかった。
 そんな日々を過ごすうち、シラーに神の導きとも思える幸運が訪れた。『身寄りのない子供を引き取るのが趣味』という、子供のいない金持ち夫婦が彼を引き 取りたいと話を持ちかけて来たのだ。夫より一回りも年下の夫人の下心は透けて見えていたが、シラーは何もかも承知でその話を受け入れた。そうして富豪の養 子になったシラーは養父母の期待に十二分に応えた。学校の成績は常にトップクラス、上流階級の作法も完璧に身につけ、養父に自分から申し出て軍隊レベルの 格闘術もマスターした。そして、一回り以上年齢が離れている上に仕事が忙しく家をあけがちな夫を持つ養母が、養母と養子と言う間柄を超えた関係をシラーに求め始めるまで大した時間はかからなかった。
 死と隣り合わせの日々が夢に思えるほど生ぬるい生活が数年続き、運命の歯車が惰性で動いているのではと思えるほど緩慢で退屈な日常が続いたある日、判で押したような代り映えしない日々に異変が起きた。





 学校の授業を終えたシラーが帰宅すると、蒼白な顔の養母がリビングのソファに身体を預けていた。養父の身に何かあったのだろうか、と思いながらシラーは養母に優しく声をかけた。

「母さん?顔色がすぐれないようだけど、どこか具合でも悪い?」
「………。さっき、主人から連絡があって」
「父さんから?」
「私とあなたの関係が知られたの」
「…………」

 今頃?
 それが最初の感想だった。
 妻と養子が『そう言う仲』だと言う事は、養父も承知の上で知らん顔をしている雰囲気を感じていたが…本当に今の今まで知らなかったのか、それとも何ら かの意図があってこの時点で話を切り出してきたのか。養母と自分の関係に養父が突っ込んで来た時の対策は十分に取ってあるから今更焦りはしないが、何となく違和感を感じる。
 冷静に頭を巡らすシラーの前で養母は頭を抱えて呻いた。

「どうしよう…これを理由に家を追い出されたら、私はもうお終いだわ」
「お終い…って?」
「だって私には何もないもの!お金も、財産も、地位も、頼れる人も、帰る場所も、働く能力も!不貞を理由に無一文で放り出されたら野垂れ死ぬしかないわ!あなたは怖くないの、シラー?今の生活の全てを失うかもしれないのよ!」
「ああ…突然そんな話を聞いたから、実感が湧いてないんだ」

 養母の左手薬指に填まった結婚指輪に視線を向けてシラーは淡々と答えた。
 夫に見放されたら自分には何もない。それが分かっていて何故この人は、何の対策も取らずに危ない橋を渡ったのだろう。結婚指輪と言う名前の輪っかさえ付 けていれば、夫婦生活が形だけのものになっていても『妻の座』なんてものが無条件で永遠に保障されると本気で信じていたんだろうか。
 混乱する養母を冷ややかな眼で眺めながらシラーがそんなことを考えていると、屋敷の使用人がおずおずとリビングに入ってきた。

「旦那さまからお電話です。…あの、お坊ちゃまに」
「!!」
「そう、分かった」
「シラー、…」
「大丈夫だよ母さん。父さんは立派な人だ、きちんと腹を割って話せば大丈夫だよ」

 何故このタイミングでこの話を持ち出して来たのか、まずは養父の真意を聞きださなければ。全てはそれからだ。
 養母の肩を優しく叩いて、シラーは落ち着いた様子でリビングを出た。





 使用人に飲み物を持ってくるよう言いつけて、シラーはソファに腰を降ろして自室に繋がせた養父からの電話を取った。

「もしもし」
『シラーか。そこに母さんはいるのか?』
「僕一人だよ。母さんはちょっと、気が動転してるようだから」
『随分と落ち着いているな。自分が何をしたか分かっているのか?』
「勿論。父さんと概ね似たようなことだよね」
『何だ、いきなり』

 即座に驚いた声が返ってきて、シラーは微かに眉根を寄せた。
 まるでカマ掛けを予想していたかのようなこの反応…。
 どちらにせよこちらが先にカードを切らなければ相手のカードも読めない。シラーは慎重に一枚目のカードを出した。
 
「僕は父さんの事を良く知ってる。父さんがカマ掛けに引っかかるような人じゃないって事くらい分かってるから、確証も無くこんなことは言わないよ」
『……………』
「僕 は父さんが大好きなんだ。だから父さんの事をもっともっと知りたくて、仕事に行く父さんの後を何度も付いて行ったんだよ。仕事に行ったはずの父さんが僕の 知らない女の人や女の子と会っているのを見た時は驚いたよ。レストランで食事をしてショッピングセンターで買い物して…まるで本当の親子みたいに見え た。…当たり前だよね、その女の子と父さんは本当の…血の繋がった親子だったんだから」
『……………』
「…父さん。確かに僕は尾行が得意だ。だけど、父さんともあろう人が、僕の尾行に気付いてなかったとは思えないんだけど…ひょっとして僕に見せたかったの?あの母子と会っているところを」

 タイミング良く使用人がコーヒーを持ってきたので、シラーはゆっくりとコーヒーを味わいながら養父の返事を待った。
 長い沈黙の後、漸く言葉が返ってきた。

『父さんとその女の子が血のつながった親子…か。断言するからには動かぬ証拠があるんだな?』
「女の子の母親本人の証言とDNA鑑定書のコピー、ついでに父さんがその母子と一緒に写っている写真があるよ。僕の手元にはないから、今すぐ用意は出来ないけど」
『そんなもの、どうやって手に入れたんだ』
「安心して父さん、乱暴な手段は使ってないから。信頼できるプロに頼んであの母子がどこの誰かを調べたら、女の子は僕のクラスメイトの友達だって分かってね。そのクラスメイトを通して『個人的に』仲良くなって教えてもらったんだよ」
『シラー…お前、娘をたぶらかしたのか?』
「それは、彼女を自分の娘だと認めるってこと?父さん」
『…………』

 不自然な養父の失言と沈黙にシラーは片眉をそびやかした。
 一見シラーが養父を追い詰めているようだが、養父は自分の手のうちにあるカードをまだ一枚も切っていない。それがひどく不気味だ。

(父さんの目的は僕と母さんの関係を糾弾する事ではなく、他にある気がする…一体何だ?)
(何にせよ、僕が持っているカードを全部見せないと父さんは真意を明かさないつもりだな…うまく誘導されてる気はするけど、いいだろう、乗ってあげるよ)
 
 シラーは適切な言葉を選びながら慎重に最後の切り札を出した。

「あと、『たぶらかした』って言われるのは心外だな。僕と彼女は正々堂々恋人同士としてお付き合いしてるし、後ろめたいことは何もない。だから父さんにも彼女がいる事は離したし、彼女のお母さんにも御 挨拶したし、僕の母さんにも彼女を紹介してある」
『…………』
「僕が父さんの息子だってことはあの母子には言っていない。僕の彼女が父さんの娘だって事は母さんには言ってない。…さぁ、僕が出せるカードは全部出したよ。そろそろ答えを教えてくれてもいいんじゃないかな、父さん」
『………。ふ…ふふふふ…』

 電話の向こうで笑い出した養父の声は穏やかだった。養父の笑いの理由が分からずシラーが口を噤んでいると、楽しげな声が聞こえた。

『いいだろう、シラー。全ての手札を早々に晒した事は気になるが、相手が父の私だと言う事を勘案すれば悪手と言う訳でもない。少々甘いが及第点をやろう』
「及第点?何か色々おかしいと思ってたんだけど…ひょっとしてこれって何かの試験だったわけ?」
『ああ、そうだ。私の後継者がお前になるか他の誰かになるかを決める抜き打ちの最終試験だよ。まずは合格おめでとうと言っておこうか』
「色々意味不明すぎるよ」
『そうだな…最終試験もパスしたことだし、ご褒美に教えてもいいだろう。私達夫婦がお前を引き取った経緯だ』

 お前も薄々察しているだろうが…と前置きして養父は話し始めた。
 自身の妻に『世間体を保つためのアクセサリー』以上の役目を求めなかった養父は、『自分の仕事に首を突っ込まず、自分の足を引っ張らないなら、いくらで も好きなことをしていい』というスタンスだった。だから、妻が『戦災孤児を養子として引き取りたい』と言い出した時も特に反対はしなかった。どうせ妻は、 引き取った子供を養子と言う名の愛玩動物にするつもりなのだから、妻の玩具にまで口出しする気はなかったからだ(妻が養子の候補に選んだと言う孤児の写真 を見たら、案の定、揃いも揃って美少年ばかりだった)。どの子を引き取るかはお前の判断に任せる、しかし我が家の名誉を汚すような問題児は選んでくれるな よ、とだけ要望を伝えると、妻は『じゃあこの子はどう?某国の政府高官のお孫さんだったんですって。経歴はともかく血筋は確かだから間違いないわ』と言っ て勧めたのがシラーだった。妻のその言葉に興味を引かれてシラーに面会した養父は、『この子は只者ではない、育て方によっては大化けするかもしれない』と 感じて彼を引き取ることを了承したのだと言う。
 養父の言葉にシラーは盛大に溜息をついた。

「血筋は確かだから間違いないって…母さんは僕を血統書付きの犬猫みたいに思ってたのかな。僕もその辺は承知の上で養子になる話を受けたから文句を言える立場じゃないけど、正直へこむよ」
『ははは、そう言うなシラー。結果的に母さんの見る眼は正しかった、お前が私の試験をパスした今となっては笑い話だろう』
「笑い話になったから良いけど、僕が試験にパスできなかったら父さんはどうするつもりだったのさ?」
『飼い殺しから事件や事故に見せかけた殺しまで、点数に応じて臨機応変に』
「はっきり言い過ぎだよ」

 ここまではっきり言われたらいっそ清々しくて笑うしかない。
 冷めかけたコーヒーを飲みほして、シラーは気になっていた事を切りだした。

「ところで父さん。母さんはどうするの?父さんに捨てられる、無一文で放り出される!って騒いでたけど」
『…………。シラー。お前は母さんが好きか?』
「好きだよ。僕を引き取ってくれたことに感謝もしてる」
『じゃあ、父さんと母さん、どっちが好きだ?』
「今は父さんだな」
『では、母さんと、お前の彼女の母さんだったらどっちが好きだ?』
「……………」

 シラーはスティールブルーの眼を眇めた。
 恐らく、ここで自分が養父に告げた言葉で養母の運命が決まるのだ。慎重に答えなければ。
 …しばしの沈黙の後、シラーは質問を質問で返した。

「…父さん。父さんは、僕と母さんどっちが好き?」
『お前だよ、シラー』

 養父の答えに迷いはなかった。
 ならば。
 シラーは唇に淡く笑みを乗せて養父の質問に応えた。

「僕は、母さんよりも彼女のお母さんが好きだよ」
『そうか、分かった』
「……………」
『…そう言えば、もうすぐ学校が長期休暇に入るな。休暇明けから父さんの後継者としてビシビシ育てて行くから、遊べるうちに旅行を兼ねて海外留学をしてき たらどうだ?母さんの事はこれから良く話し合って決めるから、父さんに任せておけ。お前は留学の事だけ考えておけばいい』
「分かったよ、父さん」

 …分かったよ。
 海外留学と言う口実で僕を母さんから遠ざけておいて、その間に諸々の始末をつけるって事だね。
 養父の言葉に隠された意味を正確に察したシラーは、良くできた息子の顔で電話を切って部屋を出た。
 





 シラーがリビングに戻ると、目を不安の色に染めた養母は落ち着かない様子で彼に尋ねた。

「主人は何て言ってた?」
「僕には、『学校が休暇に入ったら海外留学しろ』って。母さんとは良く話し合って今後を決めるって言ってた」

 養父との会話の大半を省略して事実のごくごく一部だけを告げると、養母はますます顔色を無くして頭を抱え込んだ。

「やっぱりあの人は私を追い出すつもりなんだわ。金に物を言わせて適当な男を私の浮気相手にでっちあげて証拠を捏造して、私だけを悪者にして、不貞を理由に無一文で放り出すつもりなのよ…」
「母さん、考え過ぎだよ。父さんだってメンツがあるんだから、自分の妻が不倫してたなんてそんな不名誉なこと、隠しこそすれ捏造なんてするはず…」
「するわよ、あの女を後妻に迎えて血の繋がった娘を手元に置くためなら!!」
「!」

 あの母子の事を知ってて黙っていたのか!
 喉元まで出かかった言葉をシラーは慌てて飲み込んだ。あの母子の事を自分が知っているという事実は養母に知られてはいけない。
 養母は泣き笑いのような顔で言葉を続けた。
 
「今思えば、あの男は私とあなたが関係を持つことも織り込み済みであなたを 引き取ったんでしょうね。養子と関係を持ったなんて私を追い出す丁度いい口実になるもの。あなたが有能だったら自分の後継者に育て上げ私だけ追い出す、あ なたが無能だったら私との関係を理由に二人とも追い出す、どっちつかずだったらそのまま飼い殺す。どう転んでもあの男に大損はない、手堅い賭けだった…そ してシラー、恐らくあなたもこの賭けに勝ったんでしょう…私一人だけが負けて惨めな負け犬みたいに追い出される…嫌、そんなの嫌よ…いやぁぁ…」

 自分自身を抱きしめるようにして泣きじゃくる養母の姿を見ながらシラーはしばらく思案し、彼女の肩に手を置いて優しく声をかけた。

「負け犬みたいに追い出されるのは嫌なんだね?母さん」
「ええ、嫌よ…」
「じゃあ旅に出る?新しい自分に生まれ変わるための旅」
「新しい自分に生まれ変わるための、旅…?」
「そう。追い出される前に旅に出てしまうんだ。そうすれば母さんは惨めな負け犬にならずにすむ。母さんさえその気なら僕が最後まで協力するよ」
「ああ…ああ、それは素敵なアイデアね、シラー。あなたが協力してくれるなら安心だものね、私、新しい自分に生まれ変わる旅に出るわ」
「分かった。じゃあ旅立ちの事は全部僕に任せて。母さんは何も心配しなくていいよ。…もう、何もね」
 
 小刻みに震えている養母の手を、シラーは優しく握った。
 …母さん。
 無力で、愚かで、生きる価値の無い惨めな敗者になってしまったあなただけど、でも、あなたは僕を愛してくれたから。僕が勝者になる礎を作ってくれたから。
 だから。
 新しい自分に生まれ変わるための旅に僕が送りだしてあげる。
 苦しくないように、僕がこの手で殺してあげるよ…母さん。


NEXT

星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達


 Ω蟹座シラーの過去捏造と言うか妄想SSです。当サイトのSSにしては珍しくマッタリもほのぼのもコメディもない話になりました。シラーの養父母と言うキャラが出てきますがこの話限定の登場なので、当サイトの設定を御存知ない方でも特に問題なく読めるかと思います。
 書けば書くほど悩んで行って『いっそ公開しないで没にしようか…』とか悩んだのですが、でもやっぱり書きたい話だったんで公開することにしました。シ ラーさん登場二回目が放送される前に最後まで書きたかったのですが、前編を書くのがやっとで、放送を見て盛大な矛盾点が出て来たら冥界の穴にSSを投げ捨 てそうな気がしたので、自分で自分を追い込むために前編だけでも公開します(笑)。正直、前編の後半〜後編の前半はなくても問題ないので、前編の前半と後 編の後半だけをくっつけたスリム版もピクシブ限定で公開するつもりです。
 『泥水を啜って生きて来た』戦災孤児なのに妙にイイトコのお坊ちゃま風で、その理由を色々考えているうちに『もともといいとこのお坊ちゃまだったけど戦 争に巻き込まれて孤児になり、その後いいとこの富豪夫婦に養子で迎えられ上流階級の教育を受けて来た』という結論に至りました。今回のSSを書く時、サイ キのウォンや刹那、リヴァのブルー、ブラックラグーンのヘンゼルとグレーテル、ハガレンのキンブリーなど、『いいとこの子息だったけど諸事情あってどん底 の生活をしていた経歴がある』または『特殊な環境で育ったために特殊な考えを持つ』キャラを色々参考にしつつ書きましのでその辺も後半で語れたらと思って います。