双子神1504・契約
後編
EPISODE 1


 怒りと羞恥と屈辱、そして少なからずの恐怖でアテナが黙り込むと、銀と金の双子神は唇に意地の悪い笑みを浮かた。

「どうしたアテナよ。俺の言葉を否定せぬのか?」
「…………」
「処女神の貴女にとって蜜の味は覚えてはならぬもの。おとなしく聖域に戻り、次の時代に転生するが良かろう」
「再び蜜の味が恋しくなる前に、な…ククッ」

 喉の奥でわざとらしい笑い声を漏らしながら双子神が寝台から立ち上がり部屋を出ようとした時、アテナはその背中に皮肉な言葉を投げていた。

「あなた方が私に為した事をあの女神が知ったらどうするかしら。ハーデスはあなた方を咎めなくとも、彼女は違うかもしれませんわね?……」
「……………」

 …『あの女神』?
 自分の口から飛び出した単語にアテナは戸惑い、双子神が驚愕の表情を浮かべて自分を見つめているのを見て更に戸惑った。無論、それを態度に出すほど軽率ではなかったが。
 無言のまま死と眠りの神を見つめ返すと、金色の神が動揺を隠しきれない様子で口を開いた。

「アテナ、貴女は知っているのか。あの方が今、どこに…」
「ヒュプノス!余計なことは言うな!」

 タナトスの鋭い声に、ヒュプノスはハッとした顔で口を閉じた。
 弟神を黙らせた兄神は油断のない目をアテナに向けて静かに問うた。

「アテナよ。『あの女神』とは誰のことだ?」
「…………。何故そのような質問をするのです?弟君同様、あなたも分かっているでしょう」
「ああ、俺もヒュプノスも分かっている。しかし貴女はどうなのかと思ってな」
「…敵であるあなたにお答えする必要はありませんわ」
「そうか。ならば我々も、敵である貴女をハーデス様の膝元に拘束し続ける理由はない。手枷を外す鍵は聖域に届けさせた故、自身の居場所に帰るが良かろう」

 何も追求することなく、拍子抜けするほどあっさりと、銀色の死神は弟を促して部屋を出て行った。
 銀と金の神々と入れ替わりに部屋に入ってきたニンフが『入浴のお手伝いをさせていただきます』と恭しく一礼した。





 …神殿の浴場で侍女に髪を梳かれ体を清められながら、落ち着きを取り戻したアテナは冷静に考えを巡らせていた。
 双子神が開いた神の道が閉じそうになったあの時、何かを考える暇もなく咄嗟に彼らを追ってエリシオンまで来てしまったが…血も小宇宙も使い果たした状態 で敵の本拠地に向かって、一体自分は何をしたかったのだろう?此度の聖戦は聖域軍の勝利で終わり、冥王ハーデスは眠りについたというのに。
 それに、双子神の対応も奇妙だ。アテナを拘束し神の力を封じたのに何故ふたりは彼女を地上に返そうとするのか。アテナの肉体を滅して魂を封じてしまえは、ハーデスは次の時代に苦もなく地上を掌握できるはずなのに。
 アテナは長い睫毛を瞬いた。

(それらの疑問に答えを出すのはきっと、『あの女神』…)

 無意識にアテナの口から零れ、あの冷静沈着な眠りの神が失言するほどの動揺を与えた『あの女神』という言葉。
 アテナはもう一度、自分が口走った言葉を反芻した。
 ――あなた方が私に為した事をあの女神が知ったらどうするかしら。ハーデスはあなた方を咎めなくとも、彼女は違うかもしれませんわね?

(あれは恐らく、私の中に無意識に残る神話の時代の記憶から出た言葉…)
(神話時代に私と交流していて、双子神を咎められるほどの神格や身分や立場を持った女神と言えば相当限られてくる。精々、夜の女神ニュクス、死の運命の女神ケール、月の女神ヘカーテ、そして…冥妃ベルセフォネーくらいしか…)
(眠りの神は『貴女は、あの方が今どこに居るのか知っているのか』と言っていた。それはつまり、双子神は…あるいはハーデスも…行方の分からない女神を探しているということ)
(ニュクス、ケール、ヘカーテ、ベルセフォネーの誰を?)
(…そう言えば、ベルセフォネーが冥界に滞在するのは冬の間だけだったはず。今は冬、本来なら彼女は冥界にいるはずだけど…)

 ベルセフォネーの小宇宙を探ろうとしたが、彼女どころかハーデスの小宇宙すら感じることが出来なかった。ヘパイストスの手枷で神の力を封じられているせいで小宇宙を感じることすら出来なくなっているらしい。
 アテナは自分の世話をするニンフにできるだけ自然な仕草で声をかけた。

「あの、神殿の外に出ることは出来るでしょうか?ヘカーテやベルセフォネーに会えるのなら会いたいのです。ふたりは元気にしていますか?」
「私達ではお答えすることは出来ません。タナトス様にお尋ねを」
「…そう」

 やんわりと質問を拒否されてアテナはそっと溜息をついた。
 このニンフ達から『行方知れずの女神』に関する手がかりを聞き出すのは無理だろう。入浴を終えて新しいローブを纏ったアテナはあてがわれた部屋に戻りながら考え続けた。

(行方知れずの女神と聖戦にはきっと、密接な関係がある。…そんな気がする)
(でも、双子神に『行方知れずの女神は誰か?』と尋ねても答えてくれるかどうか…いえ、むしろ、タナトス神なら真正面から切り込んだ方が情報を得られるかしら?それともヒュプノス神にカマをかけてみる?その前にへカーテやベルセフォネーを探した方がいいかしら)

 聖戦のたびに魂が転生するとは言え、アテナの魂に刻まれた記憶は消えてなくなることはない。しかし、転生のつど薄絹を一枚ずつ重ねていくように過去の記 憶は朧になっていき、奥底に沈んだ遠い遠い神話時代の記憶は淡く霞んでいる。親友だったベルセフォネーやヘカーテの顔や声すら、思い出そうとすればするほ ど遠ざかっていく気がした。
 …アテナを部屋まで案内したニンフが辞すると、彼女は手枷に繋がった重い鎖を持ってそっと部屋を出た。
 





 ――吹き抜ける西風がエリシオンに咲き乱れる花を揺らす。赤、桃、橙、黄、青、藤、白…色とりどりの花が甘く優しい香りを運んでくる。
 神殿の入り口で立ち止まったアテナは、その香りを胸いっぱいに吸い込んで長い睫毛を伏せた。

(私は…この場所を覚えている。遠い昔、私は、ここを訪れたことがある。きっと、何度も)

 重ねた時の奥底に澱のように沈んだ神話時代の記憶が告げている。『自分はここを訪れたことがある』と。
 色とりどりの花を揺らす風に吹かれて目を閉じると、ベルセフォネーの明るい声が聞こえる気がした。

(ねぇ見て、アテナ。冥界とは思えないほど明るい色の花でしょう?私がここに来た時はエリシオンの花はどれも真っ白で名前がなかったの。だから私が色と名前をつけたのよ。本当は全部暖色系の花にしたかったんだけど、ヘカーテの意見も取り入れて、寒色系の色もつけてみたの)

 記憶の奥から響く懐かしい声。
 アテナは目を細めて楽園を見回した。

(そうだ…自慢げに話すベルセフォネーの笑顔は春の日差しのようだったわ…)

 花の色が、風の香りが、柔らかな光が、重ねられた薄絹に包まれていた記憶を蘇らせる。魂の奥底に沈んだ記憶を取り戻す手掛かりを探そうとアテナが花園に足を踏み入れると、不意に巨大な影が落ちた…途端。
 巨大な三つ頭の魔犬ケルベロスがアテナを踏み潰さんばかりの勢いで傍らに降り立った。ケルベロスは六つの目で彼女を見据え、これ見よがしに短剣のような牙を剥き出して見せた。…が、唸り声はどこか控えめで、アテナを威嚇していいものかどうか迷っている雰囲気を感じる。

「…ケルベロス」

 魔犬の名を呼ぶと、ケルベロスはますます戸惑った様子で遠慮がちに唸り声を上げた。が、良く見ると尻尾が左右に揺れている。どう見ても敵意を表す行動ではない。
 そんな仕草にクスリと笑みを漏らしたアテナが手を伸ばしてケルベロスに触れると、頭上から声が降ってきた。

「誰かと思えば貴女か。何故ここにいる?」
「……………」

 アテナの位置からはちょうど死角になっていて見えなかったが、ケルベロスの背には銀色の死神が乗っていた。
 途端にごとごとと動き出す心臓を無意識に押さえ、魔犬を見上げ、金色の神の姿が見えないことを確認して、アテナは素早く頭をめぐらせた。この死神を相手 に遠まわしな誘導尋問やカマかけをしたところで、『回りくどい話は好かぬ』と突っぱねられて終わることは容易に察しがつく。ならばいっそ、手の内をさらけ 出して真正面から切り込んだ方が答えが得られる可能性は高い。腹の探り合いが得意で狡猾なヒュプノスが一緒だったら単刀直入に尋ねても彼に跳ね返されるだろうが、タナトスひとりだけな らまだ『勝機』はある…。
 アテナは一度息を吸い込んで、冗談めかした口調で言った。

「お外に散歩に行くつもりでーす」
「…………。何のつもりだ」
「エリシオンの外に行こうとした時にあなたに見つかったら、こう言えば見逃してもらえる…とベルセフォネーに聞いた覚えがあるのですけど」
「…………」

 ピクリとタナトスの眉が動いた。
 数秒の沈黙の後、死の神が唇を開いた。

「…貴女には、神話時代の記憶があるのか」
「魂の奥深くに消えない記憶が存在していることを『ある』と定義すればそうなりましょう。しかし、思い出すことが出来ないのなら無いも同然かもしれません。…でも」
「でも?」
「この場所は…エリシオンの花と風は私の魂の奥底に沈んでいた記憶の欠片を思い出させてくれました。此度の聖戦に勝利し、血も小宇宙も使い果たした私があなた方を追った理由も」
「…………」
「私は、あなた達に会いたかった。会って、話をしたかった。それは分かる、でも、何を話したかったのか分からない。思い出せないのです。…死の神よ」

 まるで叶わぬ恋に心を焦がす乙女のような真剣な眼差しで見つめられ、タナトスは眉根を寄せて短く言葉を返した。

「…何だ?」
「あなたなら答えを知っているのではありませんか?私が危険を承知で敵の本拠地に乗り込んでまであなた方を追い、話したかったことが何なのか」
「貴女自身が分からぬ事を俺が知っているはずが無かろう。…だが」
「?」
「『貴女が我々と話したかった事が何なのか』には興味がわいた。今すぐ貴女を地上に返そうと思ってケルベロスを連れて来たのだが、機会を改めるとしよう」
「………!」
「ただし」

 強引に地上に返されずに済んだことに安堵し、安堵した自分に戸惑いを感じるアテナを見下ろしてタナトスは唇の端を持ち上げた。

「長くは待たぬ。精々努力して、俺が痺れを切らす前に『話したかった事』とやらを思い出すのだな」
「…必ず」

 底の見えない銀色の目をじっと見据えて、アテナは確かな意志を胸に頷いた。


     NEXT     


星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達
地下室