双子神・神話時代 …矜持…
前編

 それは遥かな神話の時代。
 冥界の神々が午後のティータイムを一緒に過ごすのも、美貌の女神ヘカーテが好意から出る(と、本人は主張している)悪戯発言で死の神タナトスを怒らせるのも見慣れた光景だ。
 当事者以外の神々は「ああ、またやってるよ」と微笑ましく見ていたのだが、今日は少々展開が違っていた。

「お前を愛するが故の私の発言に何故そんなに腹を立てるのだ、タナトス?」
「愛しているとおっしゃるなら何故俺の神経を逆なでるような事をおっしゃるのです!」
「私はお前の可愛いポイントを挙げて褒めているだけだぞ。有難く思わぬか」
「思えません!!」
「ふむ…。ならばタナトスよ、ここははっきり白黒つけぬか?」
「?」

 ヘカーテはいかにも悪巧みをしてますと言わんばかりの微笑みを浮かべた。

「私はお前の可愛いポイントを挙げて褒めるのが大好きだ。お前の怒っている顔も好ましい故な。しかしお前はそれを嫌だと言う。私の好む事をするなと言うのなら、お互いの主張をかけて正々堂々勝負しようではないか」
「勝負…とおっしゃいますと?」
「模擬戦に決まっているだろう。お前が私と戦って、お前が勝ったら私はお前の要求を呑んでやろう。ただし私が勝ったら私は今迄通り行動するし、ついでに一週間お前には私の頼みを何でも聞いてもらうぞ。…さぁ、どうする?別に逃げても構わんぞ」
「…そこまで言われては受けないわけにはいきませんね」

 真剣な顔でカップをソーサーに戻したタナトスを見て、流石に皆が目を丸くした。

「タナトス、大真面目に何を言い出すのだ?」
「ハーデス様のおっしゃる通りだぞ、タナトス。いくら格上とはいえヘカーテ様は女性だぞ。男のお前が女性相手に模擬戦など大人気ないと思わぬか」
「女性の挑戦を受けずに逃げる方が余程大人気ないわ!そもそもアレスもアテナ様を相手に真剣勝負をしている!!」
「そしていつも負けて不貞腐れているではないか…」
「俺とアレスを一緒にするな!」

 ヒュプノスの遠回しな忠告の意味を、カッカしているタナトスは察せなかったらしい。すっかりヘカーテの申し出た勝負を受ける気でいる。
 そして自分の発言の『危険性』を分かってないらしいヘカーテにベルセフォネーが心配そうな目を向けた。

「ねぇヘカーテ、本気で言ってるの?引き下がるなら今のうちよ?」
「何だベルセフォネー、私が負けるとでも思ってるのか?」
「思ってないわ。思ってないから止めてるの。男性のタナトス相手に真剣勝負の模擬戦なんてやめた方がいいわよ」
「意味不明だ。私もやる気、タナトスもやる気。何も問題ないではないか」
「………」

 止められれば逆にやりたがる天邪鬼なところはタナトスと似た者同士のヘカーテが呆れた顔で立ち上がり、眉を吊り上げたタナトスも立ち上がって広間に足を向けた。
 大股にタナトスの後をついて行くヘカーテを見送り、何とも気乗りしない顔を見合わせて他の神々も後に続いた。





 …ヒュプノスは無表情のまま淡々と口を開いた。

「ではカウントを取る。1、2、3…」

 ヘカーテが挑発し、タナトスが受けた真剣勝負の模擬戦は皆が予想した通りの結果になっていた。
 タナトスの戦闘センスは決して悪くない。むしろ優秀な方だろう。しかし、ヘカーテはタナトスに勝るとも劣らない戦闘センスと、何よりも彼を圧倒する神格を持っていた。
 つまり。
 タナトスは絨毯に押し付けられヘカーテに組み敷かれ、文字通り手も足も出ず押さえこまれた状態でカウントが始まったのだ。
 死の神は何とか逃れようと必死に押し戻そうとしたが彼の手首を押さえたヘカーテの華奢な手はびくとも動かない。
 ヒュプノスの抑揚の無いカウントが続く。

「8、9…」

 最後に一呼吸おいて、ヒュプノスは一度眼を閉じて片手をあげた。

「10!ヘカーテ様の勝利!」
「ふふ、当然の結果だな」

 美貌の女神は妖艶に微笑んで、押さえつけていたタナトスに口付けると余裕たっぷりの仕草で立ち上がった。
 嬉しそうなヘカーテを見遣り、ハーデス夫妻とヒュプノス、オネイロイはのろのろと身体を起こしたタナトスを見た。
 豪奢な絨毯を引き毟る勢いで掴み、肩で息をして、うっすらと悔し涙を浮かべ、噛み切ってしまうのではと心配するほど強く唇を噛みしめている。
 女性のヘカーテ相手に本気で全力で勝負を挑んで、大真面目に負けてしまったわけだ。
 …こうなるのが分かっていたから、真剣勝負の模擬戦などやめておけとあれほど言ったのに…。
 見守っていた神々の何とも複雑な表情を気にする様子もなく、ヘカーテはタナトスに楽しそうに声をかけた。

「タナトス。お前にやらせる事が決まったら声をかけるから、その時は私の神殿まで来るのだぞ」
「………」

 タナトスはヘカーテに目を向けず何も言わず、乱暴な所作で立ち上がると肩を怒らせ大股に広間を出て行った。
 バッターン!!
 死神の八つ当たりの犠牲になった扉が乱暴に閉じられた。

「何もあんなにも腹を立てずとも良かろうに。相変わらず可愛い奴よな」

 クスクスと笑ったヘカーテは、他の神々がにこりともせず半ば咎めるような視線を向けている事に気付いて笑みを消した。
 何かまずかったか?と言いたげな顔をしている彼女に、ベルセフォネーが尋ねた。

「ねぇヘカーテ。あなたの『私はタナトスに惚れてる』発言は本心?それとも彼をおちょくって怒らせる為の口実で、本心じゃないの?」
「本心に決まってるだろう、どうしてそんな事を聞くんだ?」
「じゃあどうしてガチで勝っちゃったの?」
「どうしてって…仕事以外の時間は私と一緒に過ごさせて、一気に口説き落とそうと思ったからだが」
「…口説き落とすどころか、碌に口もきいてもらえないんじゃない?」
「え?」

 目を丸くしたヘカーテは、『同感だ』と言いたげな顔で突っ立っている男神達を見て不安そうに眼を瞬いた。

「…私、マズったか?」
「あのタナトスが、弟達の見てる前で男子のプライドもお兄ちゃんの矜持もコナゴナにしてくれちゃった女の子を恋人にするとは思えないんだけどなぁ」
「タナトスは『男たるもの恋人を守れる強さがなくては』という信念を持っているようですからね。自分より絶対的に強い女性と恋仲になるのはその信念に反す る行為…神は何者にも縛られないが自身の誓いには縛られる。変なところで意固地なタナトスが、おいそれと自分の信念を曲げるとは思えません」

 ヒュプノスの言葉にヘカーテは流石に困った顔になった。
 指をくわえるような仕草でしばらく沈黙し、拗ねたような目でベルセフォネーを見た。

「ひょっとして…私の失恋、確定か?」
「うーん…タナトスの心情は私には読み切れないけど、ヒュプノスが不機嫌そうなところを見るとまだ振られた訳じゃなさそうよ」
「私の不機嫌とヘカーテ様の恋がどう関係するのです」
「だってヒュプノス、ヘカーテにお兄ちゃんを取られるんじゃないかって心配してたでしょ。ヘカーテが振られたらその心配もなくなって喜ぶかなーって」
「…私は、仲間の失恋を喜ぶほど良い性格はしていないつもりですが」
「ベルセフォネーの判断基準はどうかと思うが、そんなに悲観する事は無いと余も思うぞ」

 それまで黙っていたハーデスが穏やかに口を開いた。
 説明を求めるような皆の視線に柔和に微笑んで、個人的見解だが…と前置きして話し始めた。

「特別な感情を全く抱いてない女性…例えばアテナやアルテミスに負けたのなら、タナトスは『相手が自分より強い事は最初から分かっていた事だし当然の結果 だな』と大して気にしないだろう。タナトスがあそこまで悔しがり憤ったのは、やはりヘカーテを憎からず想う感情がある故。好意を持っている女性よ り強くありたいという信念と、その女性に真剣勝負で勝てなかった現実の齟齬が我慢できぬほど腹立たしかったのではなかろうか」
「………」
「ヒュプノスが面白くなさそうな顔でダンマリなところを見ると、ハーデスの推測はいい線いってるって事ね」
「…冥妃様。私の反応を判断基準にするのはお控え願えませんか」
「ハーデスの推測が間違ってると思うなら遠慮なく言って頂戴。私はヘカーテとタナトスがギスギスしてるのは嫌だし、ふたりには仲直りして欲しいと思ってるから、そのための対策を立てたいの。間違った推測を元に間違った対策を立てても状況は悪化するだけでしょ?」
「………。私もハーデス様と同意見です」
「そう。じゃあ早速対策を立てましょ!…と言いたいとこだけど」

 ヒュプノスの複雑な沈黙はあえて無視して、ベルセフォネーは顎に手を当ててうーんと考え込んだ。

「ヘカーテがタナトスより強いって事実は変えられないし、かと言ってタナトスの信念を変えさせるなんてもっと無理だし、どうしたものかしらね?」
「私が謝罪しても火に油を注ぎそうだしなぁ…」
「ヘカーテ様が粉砕してしまったタナトスのプライドを、時間をかけて修復して行くしかないのでは…」
「長期戦か…。はぁ…自業自得とは言え、私が奴を口説き落とせるのはいつになるのか…」

 いつもの女王様オーラが無くなってひしゃげた顔で俯くヘカーテに、ベルセフォネーが優しく声をかけた。

「失恋確定でないだけ良しとしましょうよ。タナトスは根に持たない性質だから案外すぐに仲直りできるかもよ?」
「そう、かなぁ…」
「…唐突に妙な事を言うようだが」

 皆のやり取りを見ながら何か考えていたハーデスがふと真顔で口を開いた。

「『強さ』の定義とは一体何であろうな?」
「へっ?」
「え?」
「純粋な腕力の事か?一騎打ちに勝利する力の事か?戦を制する能力の事か?何があっても折れぬ心の強靭さであろうか?振りかざし、他者を押さえつける力の大きさが強さであろうか?それとも、知識や知恵や己の能力を然るべき時に然るべき形で発揮できる事が強さであろうか?」
「…興味深い問いですね。うまくすれば、今回の一件に関する逃げ道をタナトスに与える…ああいや、タナトスの信念に一石を投じる事が出来るやもしれません」
「相変わらず辛辣よな、ヒュプノス。…余は気になった事はすぐに解決せねば気が済まぬのでな、少し兄上と話をしてくる」

 柔らかく微笑んでハーデスは広間を出た。




  神殿の私室で、タナトスはむくれにむくれ不貞腐れていた。
 クッションに何度も拳を叩きつけ、それでも苛々はおさまらず、力任せに壁に叩きつけると、棚に飾ってあったワイバーンの人形がパタリと倒れた。
 …苛々する。
 自分よりヘカーテの方が神格も実力も上だと言う事は最初から分かっていた。真剣勝負をすれば負けるのは分かっていた。その分かり切っていたはずの結果が腹立たしい。腹立たしいと感じる理由もまた彼の苛々を増幅させていた。
 ヘカーテが女性でなければ、女性であってもただの上司であれば、こんなにも悔しくないのに。
 ギリッと歯軋りしてクッションを引き裂かんばかりの勢いで掴んだ時、扉がノックされて何とも緊張感の無い声がかけられた。

「兄上、おられるか?どうしても気になる事があって、そなたの考えを聞きたいのだが」
「…どうぞ」

 眉間に皺を刻んだままぞんざいに答えると、ハーデスが部屋に入ってきた。床に転がったクッションに気付いてひょいと拾って椅子に腰を降ろすなり、至って深刻な顔で口を開いた。

「早速本題に入るが、兄上の考える『強さ』の定義とはどのようなものであろうか?」
「…は?」
「先ほど皆の意見を聞いてみたのだがどうもピンと来なくてな。純粋な腕力と言う事ならオリンポス十二神よりギガスの方が圧倒的に上だが、ギガントマキアにおいて彼らはゼウス率いるオリンポス神族に呆気なく敗れたであろう」
「それは…まぁ、こう言っては何ですがギガス達は腕力に脳味噌が追い付いていませんでしたからね」
「ガイア曾祖母様が裏から色々と入れ知恵していたではないか。事実、ゼウスはかなり危ういところまで追い込まれたぞ」
「しかし大神に味方する神々の助力があって、最終的にはゼウス様の勝利でギガントマキアは終わったではありませぬか」
「そこなのだ。ゼウスは腕力で明らかにギガスに劣っていたし、双方の陣営に有効な作戦を出してくる者がいた。条件だけ見ればゼウスが不利なのにギガントマ キアを制したのはゼウスだった。そうなると、一体何を持ってして『強さ』を定義すれば良いのだ?純粋な腕力か?一騎打ちに勝利する力か?戦を勝利に導く能 力か?それとも過程はどうあれ最終的に自分の大切な誰かを守りきることか?」
「それ、は…」

 タナトスは口籠った。
 ハーデスが唐突にこんな話をしに来たのは、ヘカーテに負けて不貞腐れている自分を気にかけているからだと察しがつく。そして同時に主君の問いかけはタナトスの『男たるもの恋人の女を守れるほど強くなくては』という信念に波紋を生んでいた。
 複雑な顔で口を噤んだ死神を見ながら、ハーデスは実に深刻な顔で話を続けた。

「何故急にこんな事を聞きに来たかと言うとな、余はいざという時ベルセフォネーを守れるか不安になったからなのだ」
「え?」
「余が妃に恋をした時、そなたは余に聞いたであろう?『何があっても彼女を守り通す意思と覚悟は有りますか?』と。余はベルセフォネーを守り通す意思と覚 悟はある。それは断言できる。しかし腕力と言う意味で妃を守る強さがあるかと問われたら正直自信がないのだ。ほら、その、余がメンテと浮気をしてベルセフォネー が怒り狂った時、余は妃に手も足も出せずに殴られ蹴られやられ放題だったではないか。妃のパンチはそなたの拳より重くて痛かったぞ…あんなに細い体なのに どうしてそなたより力があるのだ、ベルセフォネーは…下手したら余よりも腕力があるぞ、あいつは…。ううっ…思い出したら泣けて来た…こんな状態で、愛する ベルセフォネーに何かあったら余は妃を守れるのだろうか…」

 過去のトラウマを思い出して急にずずーんと落ち込み始めた主君に、何だか話が逸れて来たなと思いつつタナトスは優しく声をかけた。

「いやいやハーデス様、ベルセフォネー様に害を為す者を腕力で押さえつけるだけが『守る』ではないでしょう。いつぞや冥妃様を攫いに来た愚か者を忘却の椅 子に拘束することで、腕力で押さえつけるのとは別の方法ではありましたが、ハーデス様はきちんと愛する妃を守ったではありませぬか。もっとご自身に自信を お持 ちになって下さい」
「余は自信を持って良いのか?下手したら余はベルセフォネーより力が弱いが、『ちゃんと愛する妃を守った』と自信を持って良いのか?」
「ええ、良いと思いますよ。ハーデス様は愛する女性を守る強さをお持ちです」
「そ…そうか!その言葉を聞いて安心したぞ。仮に余が妃と取っ組み合いの喧嘩をして負けたとしても、いざという時に危険から妃を守れれば、余は『愛する女性を守れる強さがある』と言う事になるのだな!」
「…ええ、そうです。その通りです」

 ほんの少し前とは比べ物にならないほど穏やかな眼でタナトスは頷いた。
 ああ、そうだ。
 強さとは必ずしも勝利する事とイコールではない。守れる強さと言う物もまた存在するのだ。
 そう考えると、信念と現実の間で燻っていた行き場の無い苛立ちが消えて行く気がした。
 信頼する『兄』が迷いなく言い切った言葉に安心したのか、ハーデスはにこりと笑って立ち上がった。

「ありがとう、タナトス。おかげですっきりしたぞ。早速皆に自慢してくる!」

 部屋を出ようと扉に手をかけたハーデスはふと振り返った。

「そうだタナトス、もうひとつ聞きたいのだが」
「何でしょう?」
「己の信ずる信念を曲げる事と、己を恋い慕う女性が傷付き落ち込んでいるのを放置する事…男が恥ずべきはどちらであろうな?」
「………。安易に信念を曲げるのは恥ずべき事。しかしその信念が真に信ずるものなのか常に己に問いかけ、糺して行く事は恥ずべき事ではありません」
「…そうか」
「あの…ヘカーテ様がどうかされたのですか?」
「皆から盛大に批判されてぺちゃんこにひしゃげていた。折を見て元気づけてやってくれると有難い。…ではな」

 にこりと笑ってハーデスは部屋を出て行った。
 タナトスはひとつ大きな息を吐いて椅子から立ち上がり、倒れてしまったワイバーンの人形を元に戻した。

(まだまだ子供だとばかり思っていたのに、さりげなく俺に説教を出来るほど大人になっていたとはな…)

 タナトスは微かに唇に笑みを浮かべて銀色の睫毛を伏せた。
 今すぐ気持ちの整理はつかないが、ヘカーテの出方を見て対応しようと思う程度には心の余裕が出来ていた。



  タナトスとヘカーテの『真剣勝負』から三日たった。
 ヘカーテの出方を見て対応しようと思っていたタナトスだったが、三日たっても何も音沙汰がないので流石に待ちくたびれて来た。地上の死者を冥府に連れて くるのが仕事のタナトスと、ハーデスの補佐として裏方で事務系の仕事を片づけるヘカーテは基本的に仕事上の接点がない。つまりプライベートで意図的に会う 機会を作らなければ二神は何日も顔を合わせないままということになる。普段なら誰かが声をかけて仕事の伝達を兼ねたティータイムを開くのだが、この三日は その茶会すらない。
 自分から声をかけるのは何となく癪だったが、沙汰がなさすぎるのも気味悪いので、タナトスは死者の名簿と髪をハーデスに届けるついでにヘカーテの仕事場に足を向けた。

「…お仕事中失礼します、ヘカーテ様」
「!」

 何やら難しい顔で文献を睨んでいたヘカーテは、タナトスが話しかけて来た事に驚いたように顔をあげた。ぺちゃんこにひしゃげているとはハーデスから聞いていたが、確かに普段の無駄に偉そうな女王様オーラはなりを潜めている。

「少しばかりお伺いしたい事があったのですが、取り込み中でしたか?でしたら出直しますが」
「あ、いや、大丈夫。個人的な調べ物をしてただけだから。…何だ?」

 ヘカーテは慌てて文献を棚に戻してタナトスに近づいてきたが、何に遠慮しているのか普段の三割増しくらいの距離を取っている。

「………。『私の頼みを何でも聞いてもらう』と言われていたのに未だに沙汰がありませんので、そろそろ不気味に思えてきまして。裁判の判決を先延ばしにされているようで落ち付かぬのですが、どうなっているのでしょうか」
「あ…ああ、それか。いざとなったら些細な用事を頼むのが勿体なく思えて来てな、何を頼むか悩んでいたんだ」
「ヘカーテ様の出された条件は回数ではなく期間でしょう。雑用の一つも頼まれぬまま三日も経つと一体どんな無茶が来るのかと不安になります」
「だって…つまらぬ用事でお前を呼びだしてはベルセフォネーが煩いし、ずっと私の神殿に呼びっ放しではヒュプノスが小言を言うだろうし…」

 ヘカーテは唇を尖らせ両手の指を絡めては解きモニョモニョ言っていたが、ふと何かを思いついたように文献を棚から出してきた。
 パラパラとページをめくり、さっき睨めっこしていたらしいページを開いて差し出した。そこには『冥界のマンドレイク』が紹介されている。ざっと説明文に 目を通すと、役立つ物から胡乱な物まで、様々な魔法薬の材料になると記されていた。魔術の神でもあるヘカーテがマンドレイクに興味を持つ事は不思議でも何 でもないが…。
 俺に何をしろと?と目顔で尋ねると、ヘカーテはずいと文献をタナトスに差し出した。

「これが欲しいんだが、どこに行けば取れるのか書いてないんだ」
「………。これを取ってくればよろしいのですね」
「お前はこれがどこに生えているのか知っているのか?」
「これでも古より冥界を管理していた一族ですから。で、幾つご入用なのです?」
「いや、このマンドレイクがあるところに連れて行って欲しいんだ。欲しい時にいちいちお前に頼むのも悪いしな、場所を教えてもらえば次からは自分で行けるだろう?」
「承知しました。ではいつ行きますか?マンドレイクが生えているのはタルタロスの最深部故、往復するだけで数日かかりますが」
「じゃあ今すぐだ。モタモタしてたらお前に頼みごとが出来る一週間の期限が切れてしまう!」
「…畏まりました。ハーデス様にその旨、伝えて参ります」

 頼まれごとを消化するなら早い方がいい。
 タナトスはひとつ頷いて、ヘカーテと共に数日冥府を空ける事を冥王夫妻と弟達に伝えに行った。


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星矢部屋
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