双子神2012・怪盗
EPISODE 2



 …それは遥かな神話の時代、気が遠くなるほど遠い昔。


 
 眠りの神ヒュプノスは、幼い顔を真剣な色に染めて、真っ白い便箋にせっせとペンを走らせていた。
 …事の発端は数日前、双子の兄タナトスが『母上に日頃の感謝を捧げるパーティーをしよう』と言い出したことだった。母を敬愛する夜の一族の兄弟姉妹達に異議があるはずもなく、母への感謝の手紙を書こうという兄の提案に反対する者は誰もいなかった。
 一族の中でも特に母を敬愛するヒュプノスは、まるで片思いの乙女に恋文を書くような気持ちで母への思いを書き綴っていたのだが…。

「なんだヒュプノス、まだ手紙を書いているのか?出来ていないのはお前だけだぞ」

 真っ先に手紙を書き終えて、暇を持て余しているらしいタナトスが様子を見に来た。

「う…うるさいぞタナトス。パーティーまではまだ日があるではないか、じっくり書いて何が悪い」
「一体何をそんなに悩む必要があるのだ?」

 タナトスはゴミ箱に山になっている書き損じの手紙のなれの果てをちらりと見て、ヒュプノスの手元を覗き込んできた。
 ヒュプノスは慌てて便箋を手元に引き寄せ、覆いかぶさるようにして兄の目から手紙を隠した。
 その行動が予想外だったのか、兄は銀色の目をきょとんと丸くした。

「見るな、馬鹿!」
「………。ヒュプノス、お前…兄である俺に見せられぬようなことを書いているのか?」
「ひとの手紙を盗み見るなど行儀が悪いぞ!」
「ふーん」

 必死に兄の目から手紙を隠す弟の姿に、タナトスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 嫌な予感がした次の瞬間。
 タナトスはやおらヒュプノスを羽交い絞めにして椅子から引きずりおろすと、脇腹と言わず喉元と言わずめちゃくちゃにくすぐった。

「やめろタナトス、くすぐったい、うひゃぁっ」
「くすぐっているのだからくすぐったくて当たり前だ!さぁその手紙をよこせ、一体何を書いているのだ!」
「ダメだと言って…あはははは!!」

 くすぐったさに身をよじった隙に手紙をひったくられた。
 弟の手から便箋を奪い取った兄はヒュプノスの体をひっくり返し、その背にどすんと腰を下ろして手紙を読んで、そして。

「………ぷっ」

 思いっきり吹き出した。失礼にもほどがある。
 ヒュプノスは手紙を取り戻そうともがいたが、うつぶせ状態でちょうど体の支点になる部分にタナトスがでんと座っているのでどうにも分が悪い。

「か…返せ、あと勝手に読むな!行儀が悪いと言ったではないか!」
「ヒュプノスよ、これは感謝の手紙と言うより恋文だぞ」
「違う!感謝の手紙だ!そもそも読むな!早く返せ、馬鹿!!」
「んー」

 兄は何とも言えない嬉しそうなニヤニヤ笑いを浮かべた。凄まじく嫌な予感がする。
 タナトスはヒュプノスに馬乗りになって、目の前で書きかけの手紙をひらひらさせて見せた。取り戻そうと必死に手を伸ばすが、ギリギリ届かない。ジタバタする弟の姿を満足げに見ていたタナトスはふと顔を輝かせて言った。

「そうだヒュプノス、お前がこれは恋文ではないと主張するなら他の皆の意見を聞いてみようではないか。うん、それがいい」
「良くない!ちっとも良くないぞタナトス!!」
「そうか?」
「そうだ!分かってて言ってるだろう!」
「ふふーん」

 ぶぎゅる。
 ヒュプノスの頭を雑なしぐさで押さえつけ、タナトスはようやく弟の体の上からどいた。
 がばと起き上がった時には既に、飛び掛かっても捕まえられない場所まで離れている。

「ヒュプノスよ。俺は今から他の兄弟達にこの手紙を見せて、恋文か否か判断をしてもらいに行くぞ。それが嫌なら俺を捕まえてみるのだな」
「なっ…」
「無論、俺もいきなり一直線に誰かのところに行って手紙を見せたりはしないぞ。お前には俺を探す時間の余裕をやろう」
「………」
「制限時間内にお前が俺を見つけて捕まえることが出来たら、誰にもこの手紙は見せずにお前に返してやる。どうだ、悪い話ではないだろう?」
「………」
「何だ、不満か?なら今すぐこの手紙をばらまくかな…」

 わざとらしく思案顔を作る兄の袖の中から、翼が生えた骸骨のような霊がふらふらと出てきた。
 嫌だと言ったら、あの霊が手紙を咥えてあちこちに飛んで行くに違いない。そうなったら誰にも手紙を読まれずに取り返すのは無理だ。
 うぐぐ、と唇を噛みしめてヒュプノスは渋々頷いた。

「制限時間内にお前を捕まえれば、本当に返してくれるのだな」
「俺は兄だぞ。弟のお前に嘘などつかん」
「タイムリミットは?」
「そうだな…ヘーメラーが帰って来るまででどうだ?」
「…わかった」
「よし!では俺は今から隠れるからな、きちんと100まで数えてから探し始めるのだぞ!」

 実に嬉しそうに微笑んで、兄はヒュプノスの手紙を懐に入れて部屋を飛び出して行った。




 タナトスが出て行った後、律儀に100まで数えてヒュプノスは部屋を飛び出した。100を待たずに探し始めたら『ルール違反だ』と手紙をばらまかれるかもしれないし、自分で決めたことはきちんと守るタナトスを信用しているからでもある。
 捕まえてみろと兄は言ったが、多分どこかに隠れるつもりだろう。しかし短気なタナトスのことだ、同じ場所でじっと隠れ続けるとは思えないからすぐに痺れを切らして別の場所に隠れに行くに違いない。
 …ということは、だ。
 身を隠す場所を探して動き回るタナトスの姿を兄弟姉妹なり使用人なりの誰かが必ず目撃しているだろう。『目撃情報』を当たっていけば時間内に見つけることは可能だ。問題は、ヒュプノスの眠りの力がほとんど効かない上にすばしっこい兄をどうやって捕まえるかだ…。
 カッカする頭でもそこまで推測したヒュプノスは、部屋を出て最初に見つけた妹ネメシスにタナトスを見なかったか尋ねた。

「うん、見たわよ」

 拍子抜けするほどあっさりと肯定の言葉が返ってきた。因果応報の女神は廊下の先を指さして言った。

「いかにも楽しい悪戯してますーって顔で、あっちの方に走って行ったわ」
「そうか、ありがとう」
「…兄さん、何かあったの?」
「見ればわかるであろう!次にタナトスを見つけたら首に縄をつけてでも拘束しておいてくれ!」
「はぁ…」

 普段はおとなしい兄が本気で怒っているのを見て、一体何があったのかしらとネメシスは首を傾げた。



 行く先行く先で弟や妹を捕まえてタナトスの目撃情報を聞きながら早足で廊下を歩いていると。
 ちょうど十字路になっている通路を、まさにその兄が通るのが見えた。

「あ!」
「!!」
 
 思わず声を出してしまったと思った途端、ヒュプノスに見つかったことに気付いた兄は全力で逃げ出した。
 ここで逃がしてなるものかとヒュプノスも走り出した。慌てて角を曲がると兄の姿は既にない。逃げられたかと思った時、廊下の角にふわりと舞い残った銀色の髪を見つけて即座に追いかけた。
 逃げた先がばれていたとは思っていなかったのだろう。廊下の角を曲がった先で一休みしていたタナトスは、眉を吊り上げて追いかけてきた弟の姿に明らかにぎょっとして、ローブの裾をからげて逃げ出した。

「待て、タナトス!!」
「待てと言われて素直に待つ馬鹿がいるか!捕まえてみろ!」

 無駄にあちこち走り回って疲れが出てきたタナトスと、本気で兄を追いかけるヒュプノスの走る速さはほとんど同じで、それはつまり二人の距離は一向に縮まらず、タナトスはヒュプノスを振り切ることができず、ヒュプノスはタナトスに追いつけないということだ。
 そろそろヘーメラーと交代で地上に行かなくてはと部屋から出てきた双子神の母ニュクスは、神殿の中を全力疾走する息子の姿に目を丸くした。

「ちょ…ふたりとも、神殿の中を走ってはいけませんよ!」
「申し訳ありませーん!」
「緊急事態なのでお許しください!」

 何が緊急事態なのかわからなかったが、普段はおとなしいヒュプノスがタナトスを追いかけまわしているということは、タナトスが少々度の過ぎた悪戯を仕掛けたのだろう。

「…仲の良いこと」

 騒ぎの遠因が自分にあるなどと露ほども思わず、ニュクスはクスリと優しい笑みを浮かべた。



 必死で弟の猛追から逃げるタナトスは神殿の外を目指していた。庭で飼っている魔物の、一番足の速い奴に乗って逃げ切ろうと言う魂胆である。無論、ヒュプノスは兄のその作戦に気付いているので何としても神殿内で捕まえようと必死だった。
 こんなこともあろうかと魔物を飼っている檻の鍵を持ってきてよかった…と思っていたタナトスは、神殿を一歩飛び出してぎょっとした。
 檻の前にデンと座っているのは魔犬ケルベロス。
 三つ頭の魔獣は主の姿にパタパタと尻尾を振ったが、今は犬の遊び相手をしている場合ではなかった。こいつをどかして魔物を引っ張り出すか、それとも手っ 取り早くケルベロスに乗って逃げるか一瞬迷った時、巨大な犬の陰から姉のケールが姿を見せた。どうやら姉がケルベロスに乗ってどこかに行った帰りだったら しい。

「あ、タナトス。ちょうどいいところに来たじゃない。ケルベロスを檻に入れたいの、鍵持ってるでしょ?開けてくれる?」
「ああああああ姉上、今はそれどころではないのだ!」
「へ?ヒュプノスも一緒ってことは散歩に行くところだったんじゃ…」
「!」

 姉の言葉に驚いて振り向けば、怒り心頭状態の弟が今まさにタナトスを捕まえようと手を伸ばしたところだった。
 危ういところでヒュプノスの手を振り払い、ケルベロスで逃げようと魔犬の背中によじ登ると、普段ならタナトスが引っ張り上げてやらないと魔犬に乗れない弟が必死の表情で登ろうとしてきた。
 これはヤバイ。
 慌てて反対側に滑り降りて逃げようとすると、即座にヒュプノスは犬に登るのをやめてタナトスの前に回り込んできた。
 幼い兄弟神は馬鹿でかい魔犬の周りで追いかけっこを始めた。
 タナトスが右に逃げればヒュプノスは左に回り込み、左に逃げれば右で待ち伏せる。
 ケールは呆れ半分好奇心半分の顔で尋ねた。

「あのさ…あんたら、何やってんの?」
「見れば分かるだろう、姉上!ヒュプノスから逃げているのだ!」
「それは分かるけど。なんでそういうことになった訳?」
「私が母上に宛てて書いていた手紙を、タナトスが皆に見せると言って奪っていったのだ!」

 タナトスがケールの目の前を走りぬけようとした途端、姉は弟の首根っこを捕まえて引きずり戻した。
 え?何で?と言いたげな目を向ける弟にケールは言った。

「それはあんたが悪いわ、タナトス」
「ちょ…ちょっと待ってくれ姉上!ヒュプノスは手紙を書くのが遅いし、見たら感謝の手紙というより恋文のようなことを書いていたのだ!だからこれは恋文か否か皆の意見を聞こうと…」
「もっと悪いわ!!」
「まだ話には続きがある!ヘーメラーが帰って来るまでにヒュプノスが俺を捕まえたら誰にも見せずに手紙を返すと約束しているのだ、だからこれはルールに則ったゲームだ、遊びだ!!」
「ふーん、ゲームね。…ねぇヒュプノス。『タナトスを捕まえる時に他の誰かに助けてもらっちゃダメ』ってルールはあるの?」
「いいえ」
「………」

 恐ろしく据わった眼でヒュプノスが短く答えると、滝のように冷や汗を流すタナトスの身柄をケールが弟に引き渡した。
 逃げられないように力一杯手首を掴まれて流石のタナトスも観念した。
 
「分かった分かった。俺の負けだ、手紙は返す」
「………」
「悪かった、ごめん」

 流石にバツが悪そうな顔で謝って、タナトスは懐から手紙を出してヒュプノスに差し出した。
 ヒュプノスは差し出された手紙をひったくるように取り返して、無言のまま神殿に戻っていって。
 タナトスは『ちゃんと謝ったのにどうして弟はまだ怒っているのか』と言いたげな顔でその後ろ姿を眺めていた。



 …ケールが帰ってきてしばらくしてから昼の女神ヘーメラーが帰ってきたので、夜の兄弟姉妹はおやつの時間を一緒に過ごしていた。
 ちなみに今日のおやつは苺のショートケーキだ。
 普段なら仲良くおしゃべりなどしながらおやつを取り合う双子神の様子が普段と違うことに気付き、兄弟姉妹達は不思議そうな顔になった。
 いつもならさっさと苺を食べて弟の苺を狙い始めるタナトスはしきりにヒュプノスの様子を気にしながらケーキを端からつつくばかりで、普段は最後まで苺を 取っておいては2回に1回は兄に横取りされるヒュプノスは仏頂面で真っ先に苺を食べてしまい、黙々とケーキを口に運んでいる。
 我慢できずに妹ネメシスが尋ねた。

「ねぇねぇ、兄さん達、何があったの?」
「………」
「母上に感謝のパーティーをして、その時に手紙を渡そうって決めたでしょ?ヒュプノスが書いてた手紙をタナトスが横取りしたんだって。それでヒュプノスが怒ってるのよ」
「横取りではない、姉上」
 
 当事者達に替わって事情を説明した姉にタナトスは口を尖らせて抗議したが、どこか自信なさげな声だ。
 ヒュプノスが口も利かないほど腹を立てていることが気がかりなのだろう。自分の分のケーキを食べ終えたケールが紅茶を飲みながら言った。

「横取りでも縦取りでもどっちでもいいわよ。とにかく悪いのはあんたなんだから、ちゃんと自分でヒュプノスと仲直りしなさいよ」
「………」

 タナトスはケーキのクリームを掬ったフォークを複雑な顔で咥えて横目で弟を見た。

「ヒュプノス。俺はちゃんと謝ったし、手紙も返したではないか。いつまで腹を立てているつもりだ」
「………。ひとの手紙を横取りして勝手に読んで皆に見せると言っておいて。それを謝ったくらいで許してもらえるなどと本気で思ってるのか、タナトス」
「ああ、思っているぞ」

 兄神は真顔で頷いた。

「だってお前は俺を大好きだろう?」
「………」

 心底本気で言っているらしい兄神の態度に、ヒュプノスは腹を立てていたことすら一瞬忘れかけた。
 そうだけど。確かに兄の事は大好きだけど!だけど、自分で言うか!?
 いくら大好きな兄でも許せない時はある。例えば、今とか。
 ヒュプノスは返事をせずにぷいっとそっぽを向いた。
 兄弟姉妹達は幼い兄弟のささやかな諍いを面白そうに眺めるばかりで何もフォローする様子はない。
 …タナトスは流石に深刻な顔でフォークを握ってケーキに視線を落としていたが。

「分かった。言葉だけでは足りないと、そういうことだな」

 いや違うだろ、それ。
 皆のツッコミ交じりの視線に全く気付く様子はなく、タナトスは自分のケーキの上に載っていた苺にフォークを突き刺して弟に差し出した。
 その行動にきょとんとするヒュプノスに、兄は大真面目に言った。

「これで許せ」
「………。それが許しを請う態度か、タナトス。というか、私の手紙の重みはケーキの苺と同等なのか?」
「これで許せと言っているであろう」
「その命令口調は何だ」
「いいからさっさと口を開けろ!ほらヒュプノス、あーん」
「………」

 予想外の展開に皆がクスクス笑っている。
 何だかもう怒る気力もなくなったというか、こんなことで許してもらえると本気で思っている兄に呆れたというか、これ以上意地を張ったら皆がタナトスの味方になりそうだとか…いろいろ考えたヒュプノスは観念して口を開けた。
 タナトスはヒュプノスの口に苺を押し込むと、弟がおとなしく苺を食べたのを見て満足げに微笑んだ。これで仲直りできたと思ったらしく、残りのケーキをさっさと平らげ始めた。
 ああもう全く、この兄貴は。
 どうしてこれで仲直りできたと本気で思っているのだろう。…まぁ確かに、腹を立てていた気持ちは苺と一緒に腹の中に行ってしまったけど。
 
『だってお前は俺を大好きだろう?』

 どうして、あの言葉がこんなに嬉しいんだろう。
 口の中に残る甘酸っぱさを噛みしめながらヒュプノスは思った。





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星矢部屋
総合目次
SS・2012時代
SS・神話時代
SS・蟹座達



 第二話はヒュプノスの夢です。つまり子供の頃の思い出。相変わらずお姉ちゃんケールは便利な立ち位置です(笑)。
 時期的には、「黎明」第一話より昔を想定してます。ヘカトンケイルもキュクロプスもまだ生まれてません。「黎明」の時の双子神は、人間で言うと十歳になるかならないかのイメージでしたが、この話では6〜8歳と想定してます。
 テーマの「あーん」はタナトス→ヒュプノスでしたが、後から確認したら、頂いたメッセージではヒュプノス→タナトスでした。今更変更できないのですすす すいませんこのままいきますorz。ケーキに乗ってるメインを先に食べるか後に食べるか…は、「生誕」でも書いたネタですね。大人になった今でも、ヒュプ ノスは苺をタナトスに取られたりとかしてるんじゃないかな(笑)。
 後は細かい解説ですが。
 手紙をばらまいちゃおうかな〜言ってるタナトスが出してる霊はタルタロズフォビアです。
 タナトスがケルベロスに乗って逃げなかったのは、ヒュプノスが乗ってきたら逃げ場がないというのもあるのですが、ヒュプが登ろうとしてる途中でケルベロ スが飛び上がったら、弟を振り落しちゃうからというのが一番の理由です。何だかんだ言ってタナトスは弟を可愛がって大事にしてるのです。
 タナトスの『だってお前は俺を大好きだろう?』という言葉が何故嬉しいのか、ヒュプは2012年の時間軸時点でまだ分かってません。今シリーズの最後でヒュプがその答えを知る展開にしたいなーと思っています。