| ヒュプノスがヘカーテ神殿を出てしばらく後、『タナトス』がヘカーテを訪ねていた。 美貌の女神は蕩けるような笑みを浮かべて死神を部屋に招き入れ、妖艶な流し目で彼を見た。 「来るだろうと思っていたよ、タナトス。ヒュプノスが私に何を話したのか、私がヒュプノスに何を話したのか聞き出しに来たのだろう?」 「流石はヘカーテ様、俺の行動はお見通しですか。ならば話は早い」 「教えてやることにやぶさかではないが…不二子の私から情報を聞き出したいのなら報酬を払ってもらわねばな。まぁ私とお前の仲だ、吹っかける気はない」 ヘカーテの言葉に『タナトス』は怪訝そうな顔をした。 さてコイツは本物か偽物か…そう思いながらヘカーテは『タナトス』に近づいてしげしげと見つめた。 「お前は本物か?」 「何故そのようなことをお尋ねになるのです」 「質問を質問で返すな」 「お答えは出来かねます。教えてしまってはゲームの面白さが半減します故」 偽物ならば予想外の質問に動揺するかと思ったが、ヘカーテの問いにきょとんとするところも、無邪気な笑顔で都合の悪い質問を躱すのも、まさに彼女の知る死の神そのものだ。 だが、今ヘカーテの目の前にいる『タナトス』はどうも偽物のような気がする。根拠は女の勘である。 美貌の女神はますます艶っぽい笑みを浮かべて髪をかき上げた。 「まぁ良い、話を戻そう。私から情報を聞き出したいのなら報酬を払ってもらわないとな」 「それはどのような?」 ふふ、と含み笑ったヘカーテはふくよかな胸を押し付けるようにしながら『タナトス』に体を密着させ、彼の頬を優しく撫でて甘い声で囁いた。 「いつものように口付けてくれればそれでよい」 「………」 明らかに『タナトス』は狼狽えた。 白磁の頬を赤く染め、視線を逸らしかけてぎこちなく戻し、心なしか体も緊張して強張っている。この反応からして偽物であることに違いは無い。 本物相手ではまずお目にかかれない純情な反応を楽しみながらヘカーテは銀糸の髪に指を絡ませた。 「やはりお前は偽物か。これは良いことを知った」 「………。ヘカーテ様がそれを知って何になるのです」 「忘れたか?不二子は報酬次第でルパンすら敵に売る女だぞ」 「それが何か…って、え…」 ヘカーテは妖艶な笑みを浮かべて『タナトス』の足元を凍りつかせて動きを封じると、やおら彼のローブの襟元をはだけて噛み付かんばかりの勢いで首筋に口付けた。 「へ?あ?ええ!!??ちょ、ヘカーテ様、何を…」 「いくらオネイロイとはいえ、神の私が付けた傷を完全に隠すことは出来まい。つまりそれは偽物の印というわけだ」 「………」 「お前の愉快な反応に免じて情報をやろう。ヒュプノスは私に協力要請をしに来た。私は『協力して欲しければ相応の報酬を出せ』と答えた。ヒュプノスは考えておくと言って出て行った。以上だ」 「…ありがとうございます」 何とも複雑な顔で礼を言った『タナトス』は、しきりに首筋をさすりながら神殿を出て行った。 さて、ヒュプノスは報酬に何を持ってくるかな。 そんなことを考えながら、ヘカーテは楽しげに部屋に戻っていった。 懐で携帯が鳴り出して、『タナトス』は一応周囲を見回してから携帯を取った。 電話の相手は挨拶も抜きで本題に入った。 『良い知らせがひとつ、悪い知らせがひとつある』 「何だ?」 『まずは良い知らせだ。ヒュプノスとヘカーテ様の会話内容が分かった。ヒュプノスはヘカーテ様に協力要請をしたが、協力して欲しければ相応の報酬を用意しろと言われて何も得ずに去った。そして悪い知らせの方だが…オネイロイのひとりがヘカーテ様に偽物の印を付けられた』 「偽物の印?…と言うか何故オネイロイだとばれたのだ?」 『ヘカーテ様に抱きつかれて明らかに挙動不審になったのだそうだ』 「………。ヘカーテ様を敵に回すと面倒だな。それで?」 『首筋に噛み付かれたというか強烈に口付けされたというか…そんな感じの傷らしい。服の襟で隠れるかどうか微妙な位置だそうだ』 「それはヒュプノスには渡したくない情報だな」 「ほう…それはぜひとも聞きたいな」 「!」 背後からいきなり声をかけられて、『タナトス』は流石にぎょっとして振り返った。 携帯に限らないが電話中は注意力散漫になっていかんなと思いつつ、ヒュプノスの行動に反応できる間合いを慎重に保つ。 「ヒュプノスに見つかった、いったん切るぞ。また連絡する」 ヒュプノスに視線を固定したまま携帯を懐に戻して、『タナトス』はにやりと笑った。 「ようやく『俺』を見つけたか。待ちかねたぞヒュプノスよ」 「お前は本物か?」 「いきなりそれか!」 前置きもなしにいきなり真贋を尋ねられ、『タナトス』は鼻の頭に皺を寄せた。 いかにも兄神らしい反応だな、とヒュプノスは思った。 …何を言ってもタナトスは、母の腹にいたころから一緒の双子の兄だ。夢神である息子達の変身ならばふとした仕草で見抜けるだろう。とにかく話を少しでも長引かせて本物か否かを見極めなければ。 ヒュプノスが一歩踏み出すと、『タナトス』は一歩下がった。 「とりあえずその目印留を剥がしてもらおうか」 「断る」 「………。では何のために目印留を導入したのだ?私がお前が本物か偽物か判断するためではないのか?剥がすことを二つ返事で断られては確かめようがないぞ」 「まぁ確かに…。どのような状況になればシールを剥がすか決めておいた方が良いな」 「決めてなかったのか」 「目印留の導入は突発事項だった故な」 『タナトス』は悪びれた様子もなくケロリと答えた。 手加減なしで一回殴ってやろうかこの馬鹿兄貴。 思わず拳を握り締めたヒュプノスは、目の前にいる『兄神』は迫真の演技をしている息子である可能性を思い出し、振り上げかけた拳を渋々降ろした。本物なら叩きのめして捕まえることにやぶさかではないが、偽物だった時のリスクは無視できない。 そんなヒュプノスの内心の葛藤に気付いているらしい『タナトス』はニヤニヤ笑いながら何事か考えて。 「確かにシールを剥がす条件を決めていなかったのはゲームマスターの落ち度であろう。何かしら埋め合わせをせねばな」 「では条件を決めるまでの時間はロスタイム扱いか?」 「いや、お前に必要以上に時間をやるとこちらが不利になる故な。終了時間の延長は無しだ。…よし、一ついいことを教えてやろう。恐らくヘカーテ様がお前との交渉に使うつもりの情報だ」 「ほう?」 「偽物の『俺』の首筋にはヘカーテ様が付けた印がある。どんなものかは大体察しが付くであろう」 「…先程の電話で話していた内容はそれか」 「そういうことだ。シールを剥がす条件については追って何らかの形で連絡する。それまでは偽物の印付きの『俺』を探すのだな」 「全くもってありがたいアドバイスだな」 ため息交じりに皮肉を言うヒュプノスに邪気のない笑みを見せて、『タナトス』は片手をひらりと振って堂々と歩いて去っていった。 その背中を見送ってヒュプノスは得た情報をもとに考えを巡らせた。 (ヘカーテ様が偽物の印を付けたオネイロイがパンタソスなら、目印留と組み合わせる事で確実に本物を探し出せて一気に私が有利になるのだが、他の誰かだっ たら特に意味は無い…。ここはヘカーテ様に頼んでオネイロイ全員に印を付けてもらうか…いや、それは現実的ではないな…。まずは『タナトス』が目印留を剥 がす条件が決まらねば動きようがないか。………。ん?) そこまで考えてヒュプノスは何か引っかかるものを感じた。 今回の『ゲーム』のマスターはタナトスだ。つまり、新規ルール設定や敵であるヒュプノスにどのような情報を提供するか決める権限は『本物のタナトス』にしかない。 …先ほどのやり取りをもう一度思い出す。 ヒュプノスが見つけ出した『タナトス』は、誰かに相談することもなく、マスターの落ち度の埋め合わせとして偽物判別の情報を提供し、目印留に関するルールは追って教えると言っていた。 誰かに相談することもなく。 それはつまり。 (さっきの『タナトス』は本物だったということか!) どうして会話の最中に気付けなかったのか。気付いていれば文字通り地の果てまでも追いかけて捕まえてやったのに!! 考えてからでないと動けない自分を激しく呪いつつ、ヒュプノスは行き場のない怒りを手近なポプラの木にぶつけるしかなかった。 …目の前の勝利を逃したヒュプノスが次に向かったのはハーデス神殿だった。 療養中の主君をこんな下らないゲームに巻き込むのは心苦しい気もするが、療養中だからこそ馬鹿馬鹿しい気分転換も必要なのかもしれない。 そんなことを考えながらハーデス神殿の奥に向かったヒュプノスは、ハーデスの私室から出てくる『タナトス』の姿を見つけた。 「!」 「…!」 ヒュプノスに気付いた『タナトス』は一瞬驚いた顔をして、直後に苦虫を噛み潰したような顔になった。 …ハーデスの私室は神殿の最奥、行き止まりにある。つまり、ハーデスの私室を背にした『タナトス』がヒュプノスから逃げるためには、廊下ですれ違わないといけないわけだ。 ヒュプノスは微かに唇に笑みを浮かべた。 「まさに袋の鼠だな、タナトスよ」 「馬鹿を言え、ヒュプノスよ。鈍くさいお前を振り切って逃げるなど造作もないことだ」 「ほう…狭い廊下で私の横をすり抜けて逃げ切る自信があると言うのか」 「確かにこの廊下は狭いが…」 フ、と『タナトス』がヒュプノスから視線を逸らして天井の一角を見遣った。 そこに何かあるのかと目を向けたほんの僅かな隙を見逃さず、『タナトス』は銀色の猫に姿を変えて廊下の隅を走り抜けた。 そう言えば兄神も夢の四神ほどではないが姿を変える力があるのだった。 すっかり忘れていた事実に一瞬あっけにとられたが、今回はヒュプノスは冷静だった。 「エンカウンターアナザーフィールド!」 神の力を僅かばかり開放すると、廊下が巨大な泉に変わった。 流石の『タナトス』もこれには即座に反応が出来ず。 どっぼーん! 盛大な水しぶきを上げて猫が泉に落ちた。 …ヒュプノスは泉を消して悠々と『タナトス』に歩み寄り、ゲホゴホ咽せているのも意に介さず、ずぶずぶに濡れたその腕を掴んだ。首筋を確認したがヘカーテが付けたという印は無い。 「さてお前は本物か偽物か。目印留を剥がす条件は決まったのであろうな?」 「…ハーデス様に聞くが良い」 「………。お前、ハーデス様を何だと思っているのだ。ゲームのルールを説明するNPCか?」 「ハーデス様はお前をサポートするキャラだと最初に説明しただろう」 「全く、口の減らぬ奴だ」 ヒュプノスは眉根を寄せ、『タナトス』の腕を掴んでハーデスの私室に向かった。 意外にも『タナトス』は素直についてきたが、油断させて逃げる作戦かもしれぬとヒュプノスはしっかりと彼の手を掴んだまま扉を叩いた。 |
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| うーん、特に解説することのない5話目です。4話目の解説で触れましたが、登場する『タナトス』はギリギリまで本物か偽物か決めずに書いています。 後気を付けたことは、ヒュプノスが間抜けすぎないようにすることでしょうか。パニックと怒りで珍しく頭に血が上っているせいで普段の冷静さを失ってい る…という状況なので、多少のウッカリは説明できるかなとか思いつつ。あと、何だかんだ言って兄であるタナトスの方がヒュプノスより一枚上なんだよ、なと ころも入れてみました。 追いかけっこの決着は次の6話でつけたいところです。 |